夢の奥の真紅
ある路地裏で、1人の痩せた老人がうずくまっていた。
汚いポリバケツと黒ずんだ室外機の間で、白い布をまといながら頭を抱えている。手足は骨と皮しか無く、太腿も足首位の太さしかなかった。
耳をすませると何かボソボソと話している。
「苦しい……誰でもいい……救ってくれ……」
その横で怪しい男がニヤリと笑った。
したたる雨、ネオンが水溜まりに反射する。
暗がりの中、そいつは現れた。
黒い蝶ネクタイを付けたその男は、真っ赤な髪をして、まるで返り血を浴びたような真紅のスーツを着ている。その目立つ姿は通りすがりの人間たちを振り返らせる。
彼は気分良くスキップをし、クルクルと赤い傘を回している。
時より聞こえる口笛は「ムーンライト・セレナーデ」のメロディである。
大通りを歩いていると飲食店のネオンの下、ワンピースを着た1人の少女が雨宿りをしていた。
「あぁお待たせしました、お嬢さん」
「……誰?」
少女は怪訝そうな顔で赤い姿の男を見た。
「申し遅れました、私、クリミナルと申します。」
以後お見知り置きをと、深々と頭を下げた。
「知らない……あ、分かった。夢か」
「はい、ここは貴方の夢の中です。」
クリミナルがそう言うと雨が止んだ。
少女が夢の中と自覚したからだ。
「こんな所では風邪をひいてしまいます。私が良い場所をご用意致しましょう。」
クリミナルが指を鳴らすと辺りが喫茶店に切り替わる。レコードからクラッシック音楽がかかっている。
目の前には熱いコーヒーが2つ。
「どうぞ。」
クリミナルはコーヒーを少女の前に置く。
「夢は何でもありなんだね。」
「お望みとあれば何でも。」
もう一度指を鳴らすと焼菓子も現れた。
「さて、あなたの夢から酷い悩みの匂いがしました。お嬢さん、何かお困りでは?」
「悩み……?あ、うんうん、そう……悩み……。聞いてくれる?」
「もちろん。私はその為に来たのですから。」
クリミナルはニッコリと笑った。
「私、決断をしなくてはならないんだ。お父さんの命を選ばなくてはいけない。」
少女は頭を抱えて言った。
「それは興味深いですね。」
「興味深いって……ほんとに他人事だね、私の夢のくせに。私のお父さんはね……10年前から筋肉がどんどん弱っていく難病になって。それでずっと、私が介護をしていたんだけど……。」
「おひとりで介護ですか?」
「うん……母は私が小さい頃に離婚してしまったから、お父さんとずっと2人で生きてきたの。私が高校生の時に難病になっちゃった。」
「それは、大変でしたね」
「先月に良くない風邪を持ってきてしまった。私がね……。咳が酷く出る風邪で、そのせいでお父さん、肺炎になっちゃった。そしたらご飯が喉を通らなくなったの」
「なるほど」
「人工呼吸器を付けなければ死ぬ。けれど付けたらずっと人工呼吸器に繋がれるの。死ぬまでね。生きていても喉を切開するから喋れない。私、何がお父さんの為なのか分からない。決められない。」
少女の目が潤んでいる。
それを見たクリミナルは手元の紅茶を一気に飲み干し、カップの口を付けた場所を親指で拭いた。
「ぁぁそれは若いのにお辛い。お父様の介護もさぞ大変だったでしょう。」
少女はうつむいた。
「しかし……答えは決まっているでしょう?人生は自分の為にあるのですよ。」
「それって……」
「あなたの未来を優先するのですよ。さぁ。」
クリミナルは少女の手をとって喫茶店の外へ出る。
きらびやかなネオン街。
道端に人だかりがあった。そこにはイベントごとをやる時のような、簡易的なステージがあった。
クリミナルは少女の手を引っ張りステージへ登り、2人にスポットライトが当たる。
「どうして、貴方の夢に夜の街が出てきたかお思いですか?……願望ですよ。素敵なワンピースを着て、少し幼い姿で現れた。貴方は、心の奥底では遊びたいのです。そして、その欲望に従うべきです。」
クリミナルはどこからともなく小道具を取り出す。
きらびやかなドレスやサングラス、ワインや宝石……どれもおちゃらけたものばかり。
「お父様がいなければ何もかも開放される。旅行も!!仕事も!!遊びも!!人生は選び放題!!!そして何よりもお父様が苦しまずにすむ。貴方もね。何を迷う必要が?」
「……」
「大丈夫です。死は誰にでも平等にやってくるものです。それが今、偶然現れただけ。そう、大丈夫。お父様はあなたの思い出の中に……」
クリミナルは少女の手を握り、その潤んだ目をじっと見つめた。
「思い出……」
その瞬間、少女は父親の記憶を走馬灯のように思い出す。
ある時は土手で自転車を乗る練習をしていた。何度も何度も転んだ姿を見て、「大丈夫、ずっと俺が後ろにいる。」と父が言った。
「ほんとにー?」
幼い少女がそう言うと
「ぁぁ、いるよ」
父はそう言った。
高校生の時、少女の父親が病気を打ち明けた。
「お前は何も気にするな。」そう言ったから、少女は高校生活を満喫することが出来た。
高校を卒業し就職して3年目の時、少女の父は1人で生活が出来なくなった。少女は仕事を辞めて介護をすることになってしまった。
少女の父が入院した。肺炎で鼻に管を繋がれてからまともに話せなくなった。面会に行くと天井をずっと見ているだけだった。
少女の同年代で介護をしている友達なんて居ない。一時少女は父を恨んだこともあった。
しかし、その姿を見て少女の涙が止まらなくなった。
たまらなく、寂しい。
「私、やっぱりお父さんに生きていて欲しい……。」
少女はそう言って歯を食いしばった。
「ぁぁ、そう思う気持ちは痛いほど分かります。しかし、お父様の延命治療で苦しむ姿を見たいんですか?介護は?貴方が全てやるんですか?貴方の人生は縛られたままで良いんですか?」
「うるさい!!!!それでも!!生きていて欲しいんだよ!!!!」
暗く重たい闇が消え、青空が広がる。
いつの間にかネオン街は、桜と菜の花が咲き誇る美しい土手に姿を変えた。
「……本当にいいのですか?その選択で。」
「悪魔は消えて」
そう少女が言うと、いつの間にか現れた若い頃の父親と共に歩いていってしまった。
クリミナルは呆れた顔で言う。
「やれやれ……先程本物のお父様の夢にも行ったのですが……ま、言うだけ信じないでしょうけど。」
クリミナルは再び傘を差し、今度は雨具ではなく日傘になった。
「人間はよく分かりませんね」
そう言ってケタケタと笑った。
そして、最初と同じようにムーンライトセレナーデのメロディを口ずさみ、少女とは反対方向へ消えていくのであった。
真紅の悪魔は今日も夢を渡る。
読んでいただきありがとうございました。