情理
正規分布のグラフを中心でくるっと一回転させたら、それらをこぼさないように慎重に公園へ走って持って行こう。そしてそれらをもとに砂場に山を作ろう。うーん、美しい。どこから眺めても完璧な正規分布だ。素晴らしい出来栄え。文句なしだ。文句があるなら太陽に言ってくれ。こうなったのも全て太陽のせいだ。月がしぶしぶ仲裁してくれよう。あ、一つだけ忘れていた。雪化粧をしなくては。30年前に埋められていたふるいを掘り出そう。乾いた白い砂を隅から取ってきて山頂から降らせよう。雪はいつも山頂付近に積もる。確か富士山もこのようであったか。たまには麓に雪が降ることもあろう。下から見上げる雪景色に染まった富士山はまた別格だろう。
太陽をみているといつも思い出す。取り残されたボールのことを。そして通り抜けたボールのことを。我々を網の目に例えてみよう。社会はしばしばこのように表現されるが、それの人間版だと思ってもらってよい。無限に連関する網に。上から無数の任意の大きさのボールが降ってきて、ふるいの網でボールをキャッチする。網の目が大きければ大きいほど大きいサイズのボールをキャッチすることができ、小さければ小さいほど小さいサイズを捕えることができる。ここでいうボールとは全ての情報であり、ふるいとは我々の枠組み、仕方である。情理である。つまり目が粗いほど理が強くなり、細かいほど情に厚くなる。理は余りにも粗く大雑把なために砂上の楼閣、机上の空論を立てるのは上手い。情は余りにも細かいために年がら年中おもちゃを引きずって歩いているのに気づかない。どっちもどっちだ。
「智に働けば角が立つ情に棹させば流される」
夏目漱石 『草枕』より
カスビームの床屋
ウラジミール・ナボコフ 『ロリータ』より
されど、どうも円環しているような気がするのだ。情理が。情の極と理の極は同じもの。説明がいつも過不足なくしっくりすることなどあるのだろうか。たいていの場合、すでに分かっていて水がじゃぶじゃぶ溢れているか、ちんぷんかんぷんで砂漠に水一滴垂らすようなものかのどちらかだろう。
まずは分かっていることから始めよう。理を極限に飛ばすとどうなるか。何もなかったのだ。文字通り。何も。想像つくだろうか。何もない景色を。カラスも兎もネズミも雲も太陽でさえも何一つとしてない世界を。あるのはキャッチしそこなったボールの感触だけ。
「ザラザラとした大地へ戻れ!」
ヴィトゲンシュタイン 『哲学的探究』より
では情を極限に飛ばしたらどうなるだろう。おそらく状況は変わらないだろう。色とりどりの花々、溢れんばかりに森を埋め尽くす木々、柔らかに降り注ぐ木漏れ日、実り豊かな大地、春の恵みに歓喜する鳥たち。それらがいったい何だというのだ。たった一人の死者にでも首肯されないようなものはびりびりに引き裂いて暖炉に放り投げてしまえ。
結局我々に相応しいのは等身大のおもちゃなのだろうか。いや、それらは雪を被れば美の権化となるだろうし、少なくとも望外の結晶であることに異論はないだろう。