第一章 名前を纏う男(3)
頭の中が一瞬で混乱に陥った。
喉がカラカラに乾き、声が全く出ない。
目の前の光景に、不安と嫌悪感が全身を支配する──これは一体何なんだ?
直感が警鐘を鳴らし始める。この男には近づくな、関わるな。
できるだけ早く、この場から離れろ。
だが、体は凍りついたように動けず、振り返る勇気さえ出ない。
心臓の震えを無理やり押さえ込み、なんとか冷静を装う。
瞼がピクピクと震え、胸の奥にはこの異様な存在に対する拒絶感が渦巻いていた。
「その……すみません、わかりません。」
声はかすれ、語調はぎこちなく、冷たくなっていた。
この言葉で、この奇妙な会話を終わらせたかった。
彼がこれ以上近づかないように、と心の中で祈るばかりだった。
しかし、彼は全く意に介さなかった。
「俺……誰だ……」
再び低く乾いた声が響く。虚ろで絶望的なその声は、まるでこの問いが彼の存在を支える唯一のものだと言わんばかりだった。
唇がかすかに震え、彼はこの問いに囚われ続け、抜け出せないようだった。
空気がどんどん重くなる。
胸がぎゅっと締め付けられ、耳元で心臓の音が大きく響く。それはまるで鈍器で一撃ずつ叩かれるような感覚だった。
彼が低く呟き続けるのかと思ったその時、突然彼は首をこちらに向けた。
その動きは異常にぎこちなく、首の関節が「ゴキゴキ」と不快な音を立てた。骨が折れそうな音が、寒気を背中から全身へと駆け抜ける。
「逃げられない……名前を刻まれた者は……」
彼の声は亡霊の囁きのように冷たく響き、同時に口元にゆっくりと不気味な笑みが浮かんだ。
その笑みには生命の気配が全くなく、深い闇から這い出てきたような病的な歪みがあった。
冷たい空気が彼の体から滲み出し、波のように一瞬で私を包み込んだ。
後ずさりしようとしたが、足は地面に釘付けされたように動かなかった。
恐怖が喉元を掴み、呼吸するたびに見えない手に首を絞められるような感覚が襲ってきた。
彼が突然手を伸ばし、私の襟を掴んだ。
その手は枯れた木の枝のように細く、服に喰い込むほどの力で私を締め上げる。
「何をするんだ!」
私の叫び声が夜の静寂を引き裂いた。
だが、その声はあまりにも弱々しく、虚ろに響くだけだった。
「逃げられない……名前を刻まれた者は……」
彼の笑い声はますます鋭くなり、狂気に満ちた悦びが滲み出ていた。
「全て死ぬんだ……」
彼は嗤いながら呟いた。目は深い闇に飲み込まれたように虚ろで、そこには一片の光もなかった。
その言葉が鋭い針のように脳内に突き刺さり、最後の理性を引き裂いていく。
意識が崩れ始め、世界はぐにゃりと歪み、耳元には狂ったように加速する心臓の音だけが響いていた。