「オノマトペマンになっちまうぞ!」
僕の名は巽英敬。24歳。
長らく大手出版社が運営する大型小説投稿サイト『ヨムカク』の読専にすぎなかったのだが、ほんの3カ月前に書き手に目覚めた。
人気ハイファンタジー作家の作品に触発され、僕自身も挑戦するべく筆を執ったのだ。
ところが書いてみると、執筆作業がいかに難しいか。
物語の展開もさることながら、キャラクタの心の揺れ動きやアクション、背景描写をどう表現するか、頭を悩ませた。
プロットすらサクサク書けるわけではない。反対にプロットなしで、キャラクタが勝手に動き出すとおっしゃるタイプの作家もいるが、挑戦してみてそれがいかに凄いことか思い知らされた。
それでも僕は寝る時間も惜しみ、ノートパソコンの前で呻きながら言葉を紡いでいった。
好きこそものの上手なれ。小説の書き方を紹介した書籍を取り寄せ、片っ端から読破し、作品に活かしたつもりだ。
七転八倒の末、半年がかりで30万文字超えの異世界転生ものを完成させた。
しかしながらいざ投稿するも、ポイント評価はおろか、さっぱり見向きもされないんだから現実は厳しい。
マザー・テレサをもってして、『愛の反対は憎しみではなく無関心です』と言ったように、これは堪えた。
結局完結ブーストが1日続いただけで、それ以降は閲覧数も途絶。
僕の渾身の第1作は、星の数ほど眠れるネット小説の大海に沈んだも同然だった。
まるっきり感想がつかなかったわけじゃない。
忘れかけたころに、2件ばかりいただいた。
感想というより苦言というべきか。
感想①「誤字脱字が多すぎます。ちゃんと推敲されましたか? いくら素人作家による無料小説サイトでも、プライドをもって自身の作品を送り出すべきです。登場人物がA、B、C……というのも、キャラに対する愛情に欠け、そもそも読んでいて感情移入がしづらいです。」
感想②「えっと……作者さまの主義主張もあるかもしんないけど、やっぱり文頭は一字開けしてくれた方が読みやすいかな。『・・・』も、『…』とするべきであって、通常は2連続、もしくは4連続の偶数にするのがデフォだそうです。要するに文章作法を守るべきじゃないかな。あと、『ガッシャ――ンッ!』とか『ブォオオオオオオ!』とかの擬音語を使いすぎるのもどうかと思います。」
物語の筋がどうの以前の問題だった。さすがにがっくりきた。
僕は生来、負けず嫌いの人間ではない。ガツンとやられても負け癖がついているのか、「ああ、左様ですか」と受け流すのが常だった。
ところが『ヨムカク』での初陣で撃沈し、俄然僕のハートに火がついた。
ネット小説で書籍化を果たした人気作家さんほどには敵わないにしても、ライトノベル作家を夢見て、僕も本腰を入れて修行しようと思った。
善は急げだ。独学では時間がかかりすぎる。
実は――僕の住むアパートからすぐ近所に、築40年を超える6階建てのツタの絡まったマンションがある。
その最上階に、兀尾 基文先生が住んでいることは、この地域では知る人ぞ知るコアな情報だった。
もっとも、ふだんから小説の類を読まない人にとっては、兀尾先生って誰?と首を傾げかもしれない。
兀尾先生と言えば、1980年半ばごろ、菊地 秀行、夢枕 獏らが伝奇バイオレンス作家としてベストセラーを飛ばしていたときに、いわゆる二匹目のどじょうを狙う形で現れた同系統の作家だったらしい。
伝奇バイオレンス小説とはなんぞや?――いわゆる暴力とエロス、そして重火器とグロテスクが混在するといったら要約のしすぎか。僕がまだ生まれる以前のことだから知らないけど。
マンションのエントランスに入り、集合ポストを調べた。
兀尾という本名はめずらしいので、すぐに見つけることができた。
部屋番を憶え、僕は部屋を訪ねてみることにした。オートロック機能はついてなかったので、簡単に入ることができる。ざるのごときセキュリティだった。
そんなわけでアポなし突撃し、ドアを開けてもらった。
事情を説明し、先生に弟子入りさせて欲しいと頭を下げる。
つれなく断られるのかと思いきや、
「へえ。君、若いのに、おれのこと知ってんの? 過去の栄光なんで、恥ずかしいんだけどね」と、兀尾先生は照れ臭そうに頭をかいた。名字と違って髪はフサフサ。室内なのにレイバンのサングラスをかけている。いつか見た大薮 春彦の肖像写真にそっくりで、気難しそうだった。現在は68歳だという。さすがに顎は丸く、下腹が出ていた。「おれから小説のノウハウを教わりたい?――よろしい。土日限定なら面倒見てやってもいい。今週の土曜、朝9時に来なさい。今から取材に出かけなきゃならんのだ。いいか、時間厳守だ。最近出版業に氾濫しとる異世界転生ものにモノ申したかったんだ。君をおれの色に染めることによって、ちょっとは抵抗を示せるかもな」
おれの色に染める? いささか引っかかる言葉だった。
先生は奥に引っ込み、自身の著書を何冊か持ってくる。
平日の間に読んでおけと渡された。要は彼の作風を刷り込ませるために勉強しろということだろう。
アパートに帰り、読んでみた。
というか、近所に先生が住んでいるのを知っておきながら、その小説に触れたことがなかった。
兀尾文学はどちらかというと文芸寄りのお堅い文章だった。
ゴツゴツした硬質の文体で、難解な言い回しが多く、ひとつのセンテンスも長い。美的感性に優れているように思えた。
長編は登場人物も多く、ストーリーも二転三転どころか天地がひっくり返るようで忙しい。ひねりの利いたオチがつくこともあれば、意味不明な終焉を迎えることもあった。
たしかに良作もある一方、褒めようがない駄作もあった。昭和時代のアバウトさが眼につく。
なるほど、売れないのもわかる。およそ大衆向けではない。――これが僕が抱いた兀尾文学の第一印象だった。
僕は呻かずにはいられない。
完全に目測を見誤ったのではないか。
というのも、ふだん僕が好んで読んでいるライトノベルは、もっと軽いノリで、例えて言うならばファストフードのようなお手軽さだった。お手軽ゆえに読み終わったあと余韻が残らず、飢餓感に捉われた。だからこそ次なる新たなファストフードを求めて飢えを満たさなきゃいけなかった。そうして人は、ライトノベルの中毒者になっていく……。
かたや兀尾先生のそれは、時にアートを狙ったような実験小説など、言わば前衛的な創作料理であり、品格のあるストイックな短編は、ハードルが高い京都の精進料理のよう。締切に追われやっつけ仕事で書いたというアンソロジーの一品ですら、専門的知識を使ったマニアックな作風で、これなど言ってみればパクチーまみれの癖の強いエスニック料理みたいだ。
根本的に求めている方向性が、異なる気がした……。
◆◆◆◆◆
こうして土日限定で、兀尾先生の手ほどきを受けることになった。
小説のノウハウを教えてくれる前に、先生は現在の出版業の現状について持論を述べられた。
どの出版社も、劣化コピーばかりを量産するライトノベルを軽蔑しているとおっしゃる。
こんな下劣なものをひり出す作家も作家なら、唯々諾々とツバメのヒナのように餌を求める読者も読者だとお嘆きになられていた。
先生、需要と供給です、世の中の誰もがそれを望んでいるのです、と言っても取り合ってくれなかった。
さらに兀尾先生はこうも言われた。――トールキンの『指輪物語』には遠く及ばないエセファンタジーの世界へ、ストレスだらけの学業や社会から現実逃避ばかりする日本人の心の在り方に、日本列島は完全に終わっているとも失望されていた。こんな腰抜けの読者ばかりなら、南は中国、北はロシアから砂の城を掻き取り合いする遊びのように侵略されて、いずれこの国は滅ぼされるだろうと憂えていた。
部屋の中でもレイバンのサングラスをかけた兀尾先生は見た目どおり硬派で、文章作法にうるさく、手垢にまみれた紋切り型の慣用句を忌み嫌った。
そのわりに、伝奇バイオレンスで食えなくなり、恋愛ものをはじめ、ホラーや架空戦記もの、時代小説、はては漫画の原作ものまで手を変え品を変えたが、結局鳴かず飛ばずでフェードアウトしていったらしい。ご自分で自虐的に語られた。2000年ごろ(ちょうど僕が生まれたころ)からネタ切れになり、筆を折ってしまったという。
現在では著名人のゴーストライターの仕事や、取材をしながらネット記事を書き散らして細々と生活しているとのこと。
転んでも文章を生業にしているあたり、自尊心の強い人なのだろう。ちなみに奥さんと子どもは、文章作法にうるさいのが家族にも災いし、小説をやめたころに夜逃げされたそうだ。
◆◆◆◆◆
初日こそ穏やかにしゃべられた。
翌日曜には先生が課題を出してくるので、メモするのを忘れない。400字詰め原稿用紙10枚以内を規定に、平日アルバイトを終えてから5日間で書いてこいとのこと。ジャンルはなんでも構わない。
それを次の土曜日に提出しなくちゃならないわけだ。
締切に間に合わせるため、多少強引に仕上げた。
リビングの床に正座させられた間、窓際のデスクでふんぞり返った兀尾先生が、僕の原稿を添削する。
先生は赤ペンでアンダーラインを引いたり、気になる文章の頭に丸マークを入れる。
○「こんにちは」
○「こんにちは」
○「こんにちは」
原稿を突き返された。
「おい巽。いちいち、こんな定例のあいさつごとき、セリフにして改行するんじゃねえ。こんなの、『三人はあいさつを交わした。』だけの、地の文ですむだろ」
という具合に、ダメ出しを食らうわけである。
○「…………」
○「…………」
○「…………」
○「…………」
「こら、たっつあん。キャラに沈黙ばかりさせるんじゃねえ。これじゃゴルゴ13だ。絵のない小説でこれをやったら身も蓋もねえ。まあ、おれも昔はよくやった手だから、他人のこと言えんけど……」
○「……ッ!」
○「…………ッ!」
○「――ッ」
○「ぐぅ。…………ッ!」
今度はところどころに飛んだこのセリフを丸で囲み、アンダーラインまで引いた。明らかに僕の癖だった。
「おまえ、なんなの、この『……ッ!』って? これ、連呼させんなよ! 一度眼についたら話そっちのけで、気になってしゃーない。もっと気の利いたセリフ書け。安易な文字数稼ぎすんな。こりゃ誰の影響だ?」
いえ、僕だけじゃなく、みなさんこのセリフ、よく使うんですが。
「紋切り型の慣用句やら比喩ばかりだな、おい。『転がるように逃げた』、『バケツをひっくり返したかのようなどしゃ降り』、『鷹みたいな鋭い眼』、『あたかも野に咲くマーガレットのごとく』、『幽鬼のように立ちふさがった』――おまえ、幽鬼って見たことあんの?」
僕は兀尾の前に座らされ、ネチネチと説教を受ける。
うなだれるしかない。両手で膝を強くつかみ、耐えるしかなかった。
原稿に次々と赤が入る。恥ずかしいくらい原稿は誤字脱字を指摘されたり、問題ある文章、怪しい日本語は赤く丸を打たれたり、囲われたりして、真っ赤っか。
○ドカドカドカ――――ン!!!
○バリバリバリバリバリッ!
○ギャンギャンギャ――――ン!
○バキュンバキュン、バキュ――ン!!!
「擬音を使うな、擬音を! 原稿1枚につき、一度だけならまだ許せるが、ずっと擬音語で説明してんじゃねえか。擬音は安っぽくて幼稚なんだよ。作者の頭の中身も疑うし、それを読む人間まで馬鹿にしてるだろ!」
「いえ、そんなことは」
「ほら、こことここも! 今度は擬態語。『キラキラ』、『ワクワク』、『ぐちゃぐちゃ』。あまりにも擬音に頼りすぎだ。小学生だって、もっとましな作文書くぞ! これは漫画の手法だろが!」
僕の苦闘は続いた。
日曜日に新たなお題を出され、また平日に短編を仕上げてこなくてはならない。
指摘されたことは反省し、次の作品ではくり返さないようにするのだが……。
しかし提出するたび、とくに擬音語はうるさくツッコまれる。
だって僕の中で語彙のストックが足りず、どう表現していいか皆目わからないのだ。締切に間に合わせるため、擬音を使って乗り切るしかなかった。
日ごと、モチベーションはだだ下がりになるばかり。
次の土曜も案の定だった。
○キュ――――ン!
○ゴリゴリゴリゴリ……。
○グォオオオオオオオオオッ!
○ジリリリリリリリリリリリリ……、
○ニャンニャンニャンニャンニャン、ニャオオオ――――ン!
「たっつあんは、オノマトペに逃げる癖がある! もっと苦しんで文章を捻り出せ。スティーヴン・キングだって、『文章とは血の滲むような一語一語の積み重ねである』って言ってんだぞ。おまえだって、表現者の端くれだろ。芸術とはなんたるものか、胸に手を当てて考えてみろ。楽な表現ばかりするんじゃない。……あー、ほら、ここにも擬音!」
オノマトペのなにが悪い?
ストレートにこっちが言いたいことが伝わるじゃないか?
僕がやりたいのは漫画の延長のライトノベルであって、あんたがめざした高尚ななにかじゃない。
「おいAK47――カラシニコフさんよ」しまいには兀尾は額に手をやり、顔をしかめる。兀尾は機嫌がいいときは、まだ『たっつあん』と呼んでくれるが、雲行きが怪しくなると、AK47かカラシニコフになる。彼もまた菊地 秀行ばりの銃器マニアだった。僕の名が英敬――AK47突撃銃から来ているのは門外漢の自分でもわかった。「おまえ、しまいにゃ、オノマトペマンになっちまうぞ!」
「なんすか、オノマトペマン」
「なんなら男女平等の世の中だ。女の書き手なら、オノマトペウーマンでもいいさ。こんな安上がりの擬音は、おれから言わすと手抜きに他ならない」
「これでも一生懸命、頭を捻ったんですが」
しょんぼりとつぶやく。
手抜きのつもりなど毛頭ない。
僕なりに愛情をもって世界を構築した結果が、こうも酷評されるとは……。
「AK、そもそもプロとアマの違いってわかんの? ひと言で言ってみ?」
「商業化してるかどうかじゃないですか? 自費出版ではアマから脱したわけじゃないでしょう。ですが、素人でも同人誌を出して販売するって方法もありますが――」
「銭を取ってるか否かって違いだ。出版社と契約結んで、1円でも銭、受け取ったらプロなんだよ。作家に限らず、あらゆる業界人にも当てはまらぁ。ストリートミュージシャンで銭、めぐんでもらうのと、CD出して印税、銀行口座に振り込んでもらうのとじゃ、天と地の差がある。いくら同人誌の売上で黒字にしたって、しょせん自費出版と同じ括りだ。そもそも黒になるのはレアケースだろ」
「はあ」
「プロをめざすからこそ、言葉に責任を持つべきだと、おれは言いたいんだ」と、兀尾はデスクのマグカップのコーヒーで喉を潤した。「おれはご覧のとおり、落ち目になった元作家にすぎん。苦い思いをした。経験者は語るって奴さ。おまえにとっておきの忠告をしてやろう。今となって説得力はないかもしれんが」
「いえ、そんなことは――」
日曜午後の西日が差す時間だった。
彼の大きな身体が金色の光を背に受け、シルエットになる。レイバンのサングラスも黒ければ、彼のいかつい顔も暗く染まっていた。あたかもプロの高い壁に阻まれ、挫折した人特有の心の闇を体現するかのように。
兀尾はこちらに前屈みになり、声をひそめた。
「物書きにとって、ボキャ貧ほど恥ずかしいものはない。だからこそインプットして、ボキャブラリーを増やさないといけない。昔の文豪なんざ、暇さえあれば広辞苑開いて、語彙を吸収しまくったらしいぞ。かと言って、作者が難解な言葉を小説で使ったとしても、肝心の読者がチンプンカンプンでは、思いは届かないんだけどな。ボキャブラリーのみならずだ。物語の構成の妙を知るため、作家の卵は、いろんな人の小説を読まないといけない。それこそ文字で書かれたものは、片っ端から読んで読んで読みまくれ。ジャンルは関係ない。恋愛小説の専門作家でもSFやホラー、生物学や物理学の論文まで読んで勉強してるもんだ。アリゲーターのように食らい尽くせ。そのうち自分の中で知識が蓄積していき、化学反応が起きる。化学反応ってのは、書きたい意欲ってことだ。そう信じろ」
「化学反応」
「批評家どもから、圧倒的に読書量が足りないって指摘されるほど屈辱的なもんはねえ。年間1,000冊読んだとしてもまだ少ないくらいだ。血ヘド吐くまで読むべきなんだ。――それともたっつあんは、他人の小説など読むに値しねえ、おれの作品こそ最強だと思いあがり、努力すること、避けてんじゃなかろうな? 読書するなんざ時間の浪費だと思ってたら、傲慢以外のなにものでもねえぜ」
「いえ、そんなことは――」
「小説は誰に向かって書いてる? 自分のためか? なら、チラシの裏にでも書いてりゃいい」
「読者のためです」
「そのとおり。せっかくお金を出していただき――今や文庫本サイズでも、1,000円前後する時代だ――、貴重な時間まで割いてくれてるんだ。好きな作家のために、電車賃やランチ代をケチってでも新書を買ってくれるファンもいる。そのためにもっと頭を捻って、自分の身内から迸り出た言葉で、丁寧に文章を紡げ。どこかで借りてきたような紋切り型の表現ばかりでパッチワークするんじゃない。読者に失礼だろ」
「わかりました。たくさん本を読んで、ボキャ貧を改善するよう努力します」
「肝心なのはな、オノマトペを使や、いいってもんじゃねえ。オノマトペって奴はお手軽だ。『水は低きに流れ、人は易きに流れる』そのものさ。やたらとオノマトペを多用してみろ。やがてふだんの日常の会話まで、擬音・擬態語しか出てこなくなる」兀尾は片手で頭を抱えた。うつむく。「……プロの世界ではな、昔からヤバイ噂があるんだ。卑しくも言葉による表現を生業とする者が、オノマトペでしか形容できなくなったら、それこそ文壇から身を引かなきゃならねえ。頭ん中がオノマトペに汚染されるんだ。オノマトペマンに憑かれたらおしまいなんだ」
「オノマトペに頼らないよう頑張りますので、どうかご指導のほど、よろしくお願いします!」
涙目になった僕は、頭を下げ、そう絞り出すのが精一杯だった。
◆◆◆◆◆
言うは易く行うは難しである。
日々、食うために仕事と私生活の雑務に追われ、それでなくても今の僕は、わずか5日の間に4,000文字の課題をクリアしないといけないのだ。
単にやっつけ仕事で仕上げればいいわけではない。
それなりの完成度を兀尾は求めた。3日で第一稿を完成させ、残り2日を推敲とブラッシュアップに時間を費やせと言われた。
ましてや余暇を利用して読書など、一朝一夕に読破しまくれるわけがない。
兀尾はだからこそ、現代人にとって速読のスキルが必須なのだと説く。
だけど、ろくに熟読で読了した数さえ乏しいのだ。世間で人気のライトノベルしか読んでいない身としては、機械的に読み散らしても自身の血肉になろうはずもない。
ページを素早くめくったところで、肝心の物語の筋が頭に入ってこない。なんだかカルト宗教じみた訓練に思えてきた。
よって、いきなりボキャブラリーが豊富になるわけがあるもんか。よほどの天才でもあるまいし、数年がかりで時間をかけて蓄積していくものだ。たった数週間で劇的に成長するはずがない……。
○ベチャグチャベチャグチャッ……、
○ガチャンとガラスが割れた。
○シャキシャキの食感。
○お腹がギュルギュルしてきた。
○ゴロゴロゴロ……ピシャ――――ッ! ガラガラガッシャ――――ン!!!
「おまえ、あれほどオノマトペは使わないと誓っただろが! 舌の根も乾かないうちに、これか! 原稿用紙1枚につき、いくつ擬音があるんだ! ろくに読み返してもないだろ! よくもおれに、こんな悪文見せる度胸があるな!」
僕は兀尾に胸倉をつかまれ、揺さぶられた。
兀尾は右の拳をかため、カッキィイイイイン! 頭の高さのところで止めている。空手をしたことがあるらしい。ぽっこりと、古い拳ダコが並んでいた。
うるさいぞ! おまえの文章だって90年以降はまだしも、駆け出しのころは紋切り型の慣用句ばかりの悪文だったじゃねえか。パオパオパオ――――ン! 他人のことが言えるのかよ。
「しかも夢オチじゃねえか、アホンダラ! 夢オチは禁じ手なんだよ! 無知は罪だぞ!」
「お言葉ですが、夢オチじゃないです! 人間が死ぬ間際に見る走馬灯のつもりです!」
「それもひっくるめて夢オチなんだよ!」
◆◆◆◆◆
「次の課題はホラーを書いてこい。400字詰め原稿用紙10枚で、お題は『うわさ』だ。締切厳守。できませんでしたでは、今度こそ鉄拳制裁だからな」
くそがネバネバネバ――――ッ? ハゲハゲハゲの兀尾。時代遅れの昭和の亡霊め。
ウィイイイイイン。ホラーでいいんだな?
とっておきの怪談を書いてやるよ。中学時代、友だちの家に泊まったときに怖い体験をしたんだ。それを書けば、あいつもチビるに決まってる。
○カーンコーン、カーンコーン、カーンコーン。ハイヒールを履いた女性が、外階段を歩く靴音が響き渡る。
○ドアノブを開ける音がした。ガチャッ……、ィイイイイイイイイ――――ッ!
○違う!――あの女、この世のもんじゃない!
「おまえは稲川 淳二か! パクリだろが!」と、兀尾は怒鳴った。原稿用紙をばらまく。「おれはホラーを書けと言ったはずだ! 誰が自分の体験した怪談を告白しろと言った! こんなのは低俗なネットの掲示板でタレ流せ! 便所の落書きのように! しかも表現力が拙いから怖くないっての!」
「怪談だって、広義の意味ではホラーに含まれるはずです!」
「バッキャロ――ッ! ホラー小説に幽霊使うんじゃねえ! 幽霊は壁抜けだって大変身だって、なんでもありで、便利すぎんだよ! これはあくまで創作で、いかにして読者を震えあがらせるかの課題だぞ! 発想が安易すぎんだ! やる気あんのか!」
「しかし!」
「しかしもヘチマもねえ! 『オカルト研究部の連中と一緒に肝試しに出かけ、どこそこのトンネルで幽霊を見ちゃいました、ああ怖かった! ちなみにこれは本当に体験した話です』――それなら月刊『ムー』の心霊コーナーにでも投稿しろ! 創作と一緒くたにするな! こじんまりした自分の体験談なんざ、みみっちいマスターベーションにすぎん。嘘八百でいい。どうせマスかくなら、華麗なセンズリを見せつけてやれ!」
「ですから、みんなも書いてますって!」
「そもそもだ。なんで日本のホラー小説で、猫も杓子も、幽霊を出せば読者が怖がるだろと安直な発想になったかっていうとな。鈴木 光司原作の『リング』と、清水 崇が撮った映画『呪怨』がいけない! あの二つは罪深い! おれから言わせるとあんなの、どこが怖いんだか、さっぱり理解できやしねえ! あんな戯言に振り回されてるようでは程度が低いんだ。『リング』の話の筋なぞ、ありゃ単なる不幸の手紙のビデオ版じゃねえか! 深みがない!」
「いえ、多くの日本人の琴線に触れたのは、とくに井戸から貞子が這い上がってくるくだりが強烈でして、そのあとテレビのブラウン管から飛び出してくるのはトラウマ級で――」
「やかましい! いちいち話を脱線させるんじゃねえ。そんなことより、おまえの課題だ!」
兀尾は四つん這いになって原稿を拾い集めた。
ザアアアアアアアッ、脂っぽい髪を振り乱し、毛玉のついたスエット姿で、がに股になってうずくまる。尻のところが経年劣化で破け、パンツが見えていた。
兀尾よ、あいにくパリ――――ン! 僕はおまえの色になんか染まるつもりは毛頭ないからな。
おまえの書くバイオレンスは血みどろでゲテモノ級だし、意味もなくセッ○スシーンを入れたがるのも昭和時代特有のやり口にズバァアアアアアアアアッ! うんざりしてたんだ。
しかもオーラルセッ○スばっかりでボヨヨヨヨヨヨ――――ンッ、おまえの性癖がもろに出てるんだ、この変態野郎め。グォドドドドドドドッ!!! 奥さんに逃げられて当然だ。
ちょっとばかし、菊地先生や夢枕先生と肩を並べてたって、しょせんは過去の遺物だ。ナルナルナルナルナルスシト! 執筆に関しては一流を決め込んでる節があるが、人間性は三流じゃねえか。ヒヒ――――ン! パカランパカランパカラン。
くそっ……、なんで思考の中に意味不明のオノマトペがまぎれ込むんだ?
まさか、すでにオノマトペマンに憑りつかれてるってことじゃあるまいな?
「ウジャウジャ兀尾先生! おかしいんです。僕の頭ん中が擬音でウジャウジャ沸いてるんです!」
僕は突き出した兀尾の尻にしがみついた。
兀尾は僕を引き離し、ずり下がりそうになるスエットを履き直した。
「たっつあん、ついにおまえも年貢の納め時だな」と、兀尾はあぐらをかきながら言った。ぱしんと膝を叩く。まるで講談師の張り扇みたいに。「おれがなんで菊地 秀行、夢枕 獏らのあとを追えなくなったか教えてやるよ。ネタ切れになったって言ったのは、ありゃ嘘だ」
「コケ――――ッ? なんですって?」
「オノマトペマンに憑りつかれたんだよ、おれも。全盛期をすぎたある日のことだった。文章がうまく書けなくなっちまった。便秘になったみたいに言葉が出てこんのだ。なのに締切に追いまくられる。いくつもの原稿抱え、おれは泣く泣くオノマトペで乗り切るしかなかった。そうさ、擬音ならサクサク出てくるんだ。擬音ばかりの原稿上げてたら、編集部からダメ出しを食らっちまった。やがておれに仕事の依頼が来なくなった。陰で業界人らに、どんな噂されてたか知ってるさ――『とうとう兀尾も、オノマトペマンになっちまったか』と。ああ、そうさ。おれはもっとも忌み嫌ったオノマトペマンに闇落ちしちまったんだ!」
「そんな……。スポン!」
「せっかく新人賞獲って、将来を期待されておきながら、一発屋で終わるプロ作家だってそうだ。ありゃ、プレッシャーに圧し潰されて、次作を生み出せなくなったんじゃねえ。突然アイデアが尽きちまい、筆を折ったわけでもねえ。そうさ、みんなオノマトペマンに憑りつかれ、オノマトペマンそのものになっちまうのさ。だから誰もが人知れず、どこかへ消えていく……。ニャンニャンニャオ――――ンのように!」
「やい兀尾、ザッパーン! 僕はおまえなんかに弟子入りするんじゃキュウウウウイイン! こんなとこに来たのがそもそもの間違いだった!」
「たっつあん、ニャンニャンニャオ――――ン! グルニャ――――ン! ここに来ようが来まいが、いずれおまえは、オノマトペマンになっただろう。おれに師事する前から兆し、あったじゃねえか。すでにオノマトペマンに魅入られてたんだ。ニャ――――ゴ!」
「コケ――ッ! コッコッコッコォ――――ッ、うるさいコ――コッコッコッ!!!」
「ニャア――――オ? ア――ン! やるか、たっつあん? グルニャ――――ン! ニャオオオオオン!」
「コ――ッコッココココココ。コケ――ッ! ココココ、コケ――――ッ!」
「よせ、てめえは師匠に手をあげるニャオオオオオオン! フ――――ッ! ニャニャニャ――――ン! つもりか?」
「コケ――――――ッ! コ――コココココッコッコッ。コケッ! コケ――――――ッ!」
「ニャ――――――――オ!……ニャオオオオオオオオオオン! フフ――――ッ!」
コケッ、僕たちはもはや取り返しのつかない状態になっていた。
たがいに四つん這いになり、相手を威嚇したり、追いかけ回す。
兀尾の猫パンチは強烈だった。僕もコケッの趾アタックで蹴りつけた。
取っ組み合いの喧嘩をして、そこらじゅう傷だらけになる。
頭の中はきらびやかな擬音が充満し、パンクしそうだった。部屋じゅう僕と兀尾が駆け回り、格闘する音でしっちゃかめっちゃかだった。ドッタンバッタン!
そのとき、部屋のインターフォンが鳴った。
ドアをドンドンドンドン! と荒々しくノックする音が続く。
ガチャッとノブが開き、ギィ――――ッとドアが開いた。
どうやら僕が部屋に入ったとき、錠をするのを忘れたのだった。
「こら、兀尾さん、近所迷惑よ、いい加減になさいったら!」と、ドアを開けるなり、シミーズ姿のばあさんが言った。お隣に住む独居老人だった。以前に廊下で会い、あいさつを交わしたことがある。「あら、あの人いないわね? どこ行っちゃったのかしら。……なによ、勝手にペットなんか飼っちゃって。うっさいわよ、ドラ猫とニワトリめ。シッシッ、あっちへお行き。ギャーギャーギャーギャー喚いて、おかしな合唱するんじゃない!」
了
※今は亡き兀尾先生に捧ぐ。