希死念慮について
あえて『希死念慮』なんて難しい言葉をタイトルにしましたが、ようは『自殺願望』のことですね。残念ながら日本は先進国でありながら自殺大国でもあります。今回は、今死にたいと思っている人にお伝えしたい内容です。
警視庁の集計によると、昭和58年(1983年)及び昭和61年(1986年)に25,000人を超えたものの、平成3年(1991年)に21,084人まで減少し、その後2万人台前半で推移、平成15年(2003年)は昭和53年(1978年)の統計開始以来最多の34,427人となり、その後3万人台で推移した後、平成22年(2010年)に減少に転じ令和元年(2019年)は最少の20,169人だったそうです。男女比で見ると女性より男性の方が2倍以上多いそうですね。
毎年、残念ながら20,000人以上の方が自ら命を絶っていることになります。私も50年近い人生の中で、自ら命を絶ってしまった方が身近でもいらっしゃいました。高校卒業後すぐに、中学のクラスメートが電車に飛び込んで亡くなられました。卒業後初めてみんなと再会したのがその方のお通夜の時でしたので、何とも残念なことです。そのあと、専門学校時代にも、クラスメートが飛び降りで亡くなっています。原因は知る由もありませんが、本人にしかわからない苦しみや哀しみがあったにしろ、生きていてほしかったと思うのが正直なところです。
こういう話題になると、
「なんで死んじゃいけないの? 生きてても苦しいんだから死なせてよ!」
そういうことをおっしゃる方もいます。なぜ自ら死んではいけないのか、あくまでも私見になるかもしれませんが、私の考える理由をお伝えしますので、どうか最後まで読んでください。
そういう私も、これまでの人生の中でふっと希死念慮にかられたことがあります。1度や2度じゃありません。しかし、思いとどまれたのは、家族や友人の存在があったからだと思っています。人生長い時間の中で、どうしても上昇状態の時もあれば下降状態の時もあります。株価のように、上下繰り返しながら少しずつ上向いていけばいいのではないかなと思って生きています。
もう何年も前の話ですが、友人が突然「死にたい。」と話したことがあります。そいつは仕事で大きなミスをして、それが原因で会社を退職することになり、同じ時期にお付き合いしていた彼女さんにも別れを告げられ、どん底にあったそうです。元来は明るくて気さくな人でしたので、私は話を聞きながらある約束を提案しました。
「どうしても死にたいというのなら止めない。その代わり、誰にも迷惑をかけないこと。」
それが私が出した約束です。それができないで死んだら、もう友人とは思わないし、葬式も墓参りもいかない。私が死ぬまで一生許さない。そう言ったんですね。
もしも、今これを読んでいて、死にたいと思っている方がいましたら同じことを約束してほしいです。死にたいのなら止めませんが、誰にも迷惑をかけないようにしてください。
これを意味するところ。それが分かった友人は、
「お前は本当に人が悪いよな。」
そう言って帰っていきました。けっきょく、その友人は今でも元気です。
どういうことかというと、人に迷惑をかけないと言うのが無理だったからです。考えてもみて下さい。電車に飛び込もうがビルから飛び降りようが、自殺してしまった方の身体を片づける人がいます。電車なら運転士、飛び降りだったら発見者、そして、その処理をする人々。大迷惑です。
富士山の樹海で首を括りますか? 樹海だって定期的にパトロールが入ります。ご遺体を回収し、供養します。そこには人手も費用も必要です。火葬するにしたって、埋葬するにしたって費用も掛かれば人件費もかかり、役所関係、警察関係、消防関係など多くの方の手を煩わせます。人生を全うされたのでしたらお仕事ですのでいいでしょう。そうではない余計な仕事です。迷惑この上ないです。
船で沖に出て入水しましょうか? そこまで進んだ船は、潮に流されあなたの身体と共どこかに流れ着きます。これ、粗大ゴミですよね。不運にも流れ着いた場所の自治体が泣く泣くその地域の皆様から集めた税金で処理をします。また、水死体って見てくれ酷いんですよ。それを回収する人、司法解剖する医療関係者。本当に迷惑です。
こうやって考えると、誰かしらに迷惑や手間をかけさせて人は亡くなるんです。どうせ迷惑かけるのなら、生きて迷惑かけましょうよ。死にたいと思うその気持ちを聞いてくれる人が世の中に入るんです。そういう奇特な方がいつの時代もどの地域にも必ずいます。まずは話してみて、死ななくていい方法を考えるんです。
冒頭に戻ってなぜ自ら死んではいけないのか。あくまで私見ですからご了承くださいね。私の考える自ら死んではいけない理由。それは、『責任を果たしていない。』からです。では何の責任か。今まであなたたち死にたいと考えている人が奪ってきた『命』に対してです。私たちは生きる上で必ず何かを食べてきました。そこには肉や魚、野菜、そういうものがあふれていますよね。肉だって元は牛か豚か鶏かわかりませんが生きていたんです。野菜はじめ植物だって、系統が違うだけで生きてるんです。それを、人間は勝手に加工して食べて生きています。
肉でも魚でも野菜でも果物でも、『生きて存在している命』を食べて生物は存在しています。世の中の生き物は『食物連鎖』の名のもとに、虫を蛙が食べたら、その蛙はそれ以上の生き物に食べられ、そうやって『命』を差し出して世界は成り立っています。人間くらいなものです。一方的に武器や罠を使って生き物を狩って食べるのなんて。
だから先人たちはありがたい風習を私たちに伝えてくれています。
「いただきます。」
「ごちそうさまでした。」
いただきますには『命』をいただきます。という思いが込められているそうです。また、ごちそうさまには、手間暇かけて食事を用意してくれた感謝を、作った方だけでなく食卓に並んだ『命』に向けて労う言葉です。だからわざわざ『お』を付けて、『さま』までつけて労うんです。
そうやってつないできた命に、10歳も80歳も関係ありません。さんざん『命』をいただいておいて、自ら死を選ぶなんて、そんな身勝手なことがまかり通るわけがありません。だから死んではいけないんです。
苦しいこともあるでしょう。つらいこともあるでしょう。でも、そんなときでも様々な『命』をいただいて『命』をつないで生きているのですから、しっかり生きて生き抜いて、自分ができることをできる範囲で精いっぱい生きていく。それが『責任』を果たすということです。
偉そうに並べましたが、生きてさえいれば、必ず『よかった』と思える瞬間があります。必ずです。だから死なないでください。身近な幸せに目を向けてください。
ある学園ドラマの先生の言葉です。すごく心に残っているので最後にお伝えしておきます。
「死ぬなんて言葉を使うな! 人間、死ぬことに意味はない!」
「どう生きたか、どう生きようとしたか、大事なのはそれだけだ。」
どうか、自ら命を絶つことを人生の答えにせず、『一生』『懸命』に生きてください。同じ時代、同じ国で生きているというのは確率論でいったらすごく奇跡的なことです。縁あってこれをお読みになっていただいたすべての方へ感謝するとともに、一緒に頑張って明日を迎えましょう。
今回は、『命』についての少し重い話でした。




