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ライム

作者: 桂之助

無駄に字面の長い暖簾をくぐるとうどん屋であった。

「いらっしゃい。そこ座って」

 厨房からノコノコと出てきたこの店の店主であろう老婆は、そう言って入口の左手にいた番犬に餌をやり終えると、僕を中へと案内し、すぐさま注文を取ってきた。

「にいちゃんも椀子食いにきょったんか」

 僕は今、観光がてらに香川の方に来ている。大学受験も終わり、紆余曲折を経て女子大に通う事になった僕に束の間の休息をと、母親が1泊2日の旅券を取ってくれたのだ。どうせなら北海道や沖縄などの観光地らしい場所を選んでくれればよかったのに、どうして香川なんだと尋ねると、どうやら新年早々に亡くなった婆ちゃんの墓がそこにあるから、ついでに墓参りに行って来いとのことだそうだ。全く、春から晴れて大学生だと言うのに何故このタイミングで人の死を労わらなければならないのだろうか。それに驚くべきは何といっても婆ちゃんの死因だ。年明け早々に開催された従兄弟の結婚式に出席した婆ちゃんは、その強力な性欲に理性を奪われ、御年89歳にしてブーケトスにしゃしゃり出たのだが、その狂犬ぶりが予想以上に不幸な結果をもたらした。お相手の強肩ピッチャー新婦の悪ふざけにより施された重さおよそ15キロのブーケは直線を描き、不運にも婆ちゃんの下へと飛んで行ったのだ。無論、ただの老婆にそんなものをキャッチ出来る訳もなく、ドライブ回転で加速する巨大ブーケに婆ちゃんは文字通りデッドボールしたのであった。当時出願シーズンだった僕はそのニュースを聞き衝撃のあまり自打球し、担架で運ばれた。そこで代打として選ばれたのが姉であったが、姉は僕との性別が異なっていることを全くもって考慮していなく、結果的に僕が立った4打席は全て女子大であった。当然、男性である僕はそれらの試験を受けられる訳もなく、だからと言って受けない訳にもいかず、イレギュラーバウンドしたこの状況を打開するためにも、僕は*替え球受験というあらかた反則技とも言える手を使い、出願したすべての大学の受験に成功したのであった。おかげで4年間女装してまで大学に通わなければならなくなった僕は、そんな迷惑を被ったせいかどうも婆ちゃんの墓参りに行く気がせず、こうして今椀子うどんを食べにきているのだ。


食卓の右側には山のように椀子が積まれ、僕の真横には椀子をハイペースで提供するにはまだまだ半人前といった肉付きの男が、顰めっ面でスタンバイしている。するとその男は、何の前触れも無く、

「それでは参ります。1と2と3と4」とカウントダウンを始めた。

 途端、厨房に戻っていたはずの老婆が前傾姿勢で登場し、

「おぉん、普通下げんねん。上げんな、上げんな」と言ったかと思えば、それは益々形を変形させ、最終的には

「again and again and again…」にまで変貌を遂げていた。

 周辺の客はこのケイオティックな状況に置かれたせいか、みな食い逃げを覚悟に脱走していったのだが、僕だけはこのagainのリズムがどこか心地良く、気づけばもう既に椀子うどんを口にしていた。次第に薄れていく客の悲鳴、それでも尚止まることを知らないagain等。僕はそのリズムに合わせて、続け様に、5、6、7と次々に皿を口へと運んでいった。すると、やや30を過ぎたぐらいで、ある違和感に気が付いた。本来皿が片付けられるであろう場所に、大量のうどんが横たわっていたのだ。まさか、これは今から僕が更に食べようといているうどんなのか、将又は1日の廃棄の分なのであろうか。だとしたらなんて勿体無い事をしているんだ、このまま僕が勢いで全て丸呑みしてやろうかなどと考えながら、ふと窓の外を眺めると、そこでは反射した僕が椀子うどんの椀子の方を頬張っていた。なぜ今までこれに気づいていなかったのだろう。親知らずを含めた僕の32本の健康的は歯等は全て砕け、口内から溢れ出る大量の血が僕の手から下半身、更には食卓までに到達していた。店内の客が総じて逃げ出たのも、きっとこのせいだろう。しかしこのままではどうにもオチがつかないと考えた僕は、リズムキープをし続ける老婆を少し黙らせようと、入り口にいたワンコまでもを捕食してやった。すると予想通り老婆の態度は急変し、身につけていたエプロンでボクシンググローブを作り、僕目がけてハイキックを入れてきた。どうせならせっかくグローブで覆った手を使えよと思ったが、そんな事をツッコむ暇もなく、その後も逃げに逃げ回り、遂には屋島の瀬戸際まで来ていた。多少とはいえ、僕の番犬殺傷罪に加担した身であるのにも関わらず、何をふんぞり返って僕の目も前に立ちはだかっているのだろうかと、込み上がって来る怒りのままに老婆を崖から突き落とそうとしたのが最後、瀬戸内海に沈んでいたのは僕の方であった。


「兄ちゃん、兄ちゃん!」

 風音と共に聞こえたのは少女の声であった。それはどこか心配を孕んだ様でもあり、またどこか愉悦を匂わせる言葉でもあった。あれから何時間、いや何日が経過したのだろうか。崖から突き落とされてからの記憶は無論、それ以前の記憶さえも曖昧であった。しかしこうしてまだ僕のことを兄として慕い、その生存を保証してくれる者が目の前にいることに微かに生きる希望を見出した僕は、残る体力の全てを振り絞りその少女の面を見ようと、うつ伏せ状態の身体をひっくり返した。

「兄ちゃん大丈夫?汗やばいで」

 微かに開いた目蓋の隙間にはこちらを必死に覗こうとする妹の姿があった。

「お母さんが駅まで車で送ってくれるって。急いで準備!」

状況の整理が付かず暫くの間放心していた。肉体は確かにベッドの上にあり、視界は確かに僕の部屋を映し出している。

「夢か」

起きたと同時に夢の記憶が消え始め、何を見ていたのか定かではないが、寝起きとは思えないほど心身共に疲労の絶頂であった。しかし今は考える事をやめ準備に取り掛かった。今日は大学の合格発表日だ。色々あって女子大しか受けられなかった僕は女装という準備過程で人一倍時間が掛かるため、誰よりも早く起きる必要があった。

「急げ急げ!化粧は車ん中でしたらええ!」

そうしてお母さんに言われるがまま車に乗り込んだ僕は、緊張と焦りを連れて不安な未来へと足を踏み入れるのであった。


 

*替え球 文脈に合わせた文字に変換している。

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