第六十五話 赤鳥、夕暮れに還る
今晩、拓磨が帰ってきたら計画していた宴会をやるという話になっていた。朝から雫は準備に大忙しで、私も暁もそれを手伝っている。
暁の好物〝零余子〟は、昨日のうちに暁本人に採ってきてもらった。私が行くと言ったが拓磨が断じて許してくれなかったのだ。見かねた暁が呆れながらも『私が行くわよ』と言ってくれた。
零余子の季節にはまだ少し早かったらしく、収穫数はほんの一握りだった。でも皆で少しずつ食べれば問題ない。私は初めて口にするから、どんな味か楽しみだ。
そんな時に雷鳴と共に、身の毛がよだつような妖気が上空に降りかかった。だが拓磨の屋敷には強力な結界が張ってあり、それ以上は何も起きなかった。
私は拓磨に鬼の形相で「絶対に外に出るな」を念を押されていたため身を乗り出すことはなかったが、あの妖気は以前に姿を見た〝氷雨〟という子供の妖怪だ。
妖気はしばらく上空を浮遊して去った。
あのまま帰ったとは思えない。もし拓磨を追ったのだとしたら……。
「離してくれ、雫! 拓磨が危険なんだ!!」
『いいえ、絶対に嫌ですわ。式神擬態の護符も剥がさせませんことよ』
拓磨の言いつけを守るために、どんなにお願いしても雫は手を離してくれなかった。妖気を放出しなければ、花びらに分散することもできないらしい。
『いいよ、私が行くから。華葉も雫もここで待ってて』
藻掻いている私の隣を通り過ぎていったのは暁だった。ひらりと身を翻して姿を山鳥に変えると、翼をはためかせて廂に立った。
いつ見ても美しい茜の濃淡色。彼女に〝暁〟と名付けた拓磨の感性には舌を巻く。朝焼けも似合うが、私は夕焼けに反射する暁の翼も好きだけどな。
「すまない。戻ったら宴会だ、絶対に皆で楽しむんだからな!」
『気をつけて、暁。拓磨様をお願いしますわ』
軽く振り返った暁の表情は分からないけど、彼女は確かに笑っていた。
◇
どうにかして氷雨を捕えることはできたが、私も蒼士も緊張感からその場に座り込んだ。奴の妖術で寮は見るも無惨な様である。これを修復するのは骨が折れそうだ。
しかし私はその前に、隣の爆発寸前の男と戦わなければならなかった。
「拓磨、貴様……何故、五気混合術を使わぬ。今回はたまたま勝てたが、次はどうだか分からぬぞ! まさかと思うが、まだ頭に入っておらぬとは言うまいな?」
業火幽閉のせいで顔中が煤だらけの奴に言われても迫力に欠けるが、恐らく自分も同じ顔をしているのだから笑うのは必死に堪えた。
何故、私が五気混合術を使わぬのか。それに答えたらこの男は魁の存在価値をどう捉えるであろうか。
否、蒼士ならば〝己を犠牲にしてでも責務を果たすべきだ〟と言いかねない。
阿呆らしい、それを阻止するために曾祖父上は自ら犠牲になったのだ。これ以上、魁なんぞに命を捧げて堪るか。
「お前に答える必要はない」
「何だと……!?」
私の胸ぐらを掴み食ってかかってくる蒼士を黙って見上げた。
奴が憤慨するのも分かる。自分が辞退してまで譲った資格を私は無下にしている。そうさせるために、この男は引き下がったのではないのだ。
奴の怒りが静まるかは分からぬが、喧嘩覚悟で正直に言ってみるか。
仕方なくそう決めた刹那。
「――妖術、忌まわしの六花」
まるでそっと言葉を置いたが如きの呟くような声がした。
その表現とは裏腹に直後、豪雪が渦を巻いて再び寮を襲ったのだ。
幼い女子の声に、雪の妖術――雪音である。
「ぐっ……、次から次へと!」
私から手を離した蒼士が煩わしそうに叫んだ。冷たい暴風に混ざる雪が顔に当たると細かい切り傷ができていく。咄嗟に結界壁を発動したが、どこまで持つか。
この術で氷雨を覆っていた水泡の氷も破壊され、雪音は弟を抱えてこちらを睨みつけて吠えた。
「よくも弟に辱めを。調子に乗るでないぞ、安曇拓磨!」
雪音は己の莫大な妖気を解放すると、荒れ狂う雪を更に増量させた。結界壁は敢えなく消失し、私と蒼士に襲いかかる。
その上に抱えられている氷雨も全てを凍らせる〝獰猛たる氷晶〟を展開させ、我々の足元から凍結が始まったのだ。息をすれば喉すら凍ることは必至であり、口元を押さえて呼吸を止めた。
凍結付着は足を完全に覆った。蒼士が視線であれを使えと訴えている。
頭から足の先が焼けるように痛み、息が苦しい。
「このまま死ねッ、人間ども!」
<今日は宴会だ、拓磨。早く帰ってこいよ!>
<拓磨様、お帰りをお待ちしておりますわ>
<私も楽しみにしてます、拓磨様……>
――――――。
あぁ、さっさと終わらせて帰ろう。私の家族が待っている。
「急々如律令ッ、緋の翔・光り焔……!!」
五気混合術、発動。
私の周りから目映いほどの緋色の光が放出され、熱波で二人の妖術を打ち消していく。そして波圧によって吹き飛ばされた姉弟は寮の外壁に激突し、皮膚が熱に灼かれ煙を上げていた。
「っ――これが、魁の力」
「うぅ。一旦引こうぞ、氷雨」
二人は足元がふらつきながらも立ち上がると、雪を巻き上げて一瞬で姿を消した。
それを見届けた私も膝から崩れ落ち、虚を見つめる。
使ってしまった、己に禁じた術を。……使わねば私も蒼士も命はなかった。
しかし途端に五行の怒りの話を思い出し、反射的に身構えた。
「ど、どうした拓磨。大丈夫か? やはり使えるではないか、勿体ぶるでないわ」
怒りは収まったらしい蒼士が私の傍に駆け寄ってきた。奴もやつれた顔をしているが別状はなさそうだ。だが今はこの男に構っている場合ではない。
「離れろ蒼士、私に近づくなッ!」
「はぁ? 何をわけの分からぬことを」
最初は小馬鹿にしていた蒼士だったが、私がふざけているわけでもないと分かると、少し距離を置いて押し黙った。
だが暫く経っても何か起こる気配もなく、自分の体にも特に異常は発しなかった。
どうゆうことだ。五行気の怒りはなくなったのか……?
「何なのだ、僕にも分かるように説明しろ」
再び苛つき始めた蒼士を差し置いて、私はその場から立ち上がった。
やはり体には何もない。自分に何もないとすれば、急に屋敷のことが心配になった。氷雨は私の屋敷も襲撃している。動けるうちに早く帰らなければ。
「すまない蒼士、また後日話す」
「お、おい。これを僕一人で直せというのか? 拓磨っ!」
引き留めようとする奴の手を振り払い、私は自宅へと駆け出した。
◇
満ち足りていた妖気が引き、懇々と降り注いでいた雪が止んだ。山鳥の姿で飛び出したものの豪雪の中での飛行は困難で、やむなく人の姿に戻って拓磨様の元へ向かっていた。既に太陽は西に傾き始めていて、空がにわかに赤く染まっている。
拓磨様は陰陽寮に行くと仰っていたけど、私はできればそこには行きたくなかった。寮にはあの方、雅章様がいる。拓磨様の前であの話をされたら、私はどうしたら良いのだろう。
でもそんなことは言っていられない、あの妖気と拓磨様は戦っていたはず。一緒に帰って皆で宴会をすると約束した。その席に拓磨様がいないなんて嫌だ。
勝手にいなくなった私を誰も咎めることなく、温かく迎えてくれた。
拓磨様も雫も、そして華葉も。もう誰の悲しむ顔を見たくはない。
私は安曇拓磨様の忠実な式神・暁。大切な人をお守りするのが私の使命。
『……あ』
陰陽寮から少し手前の道を走っていると、ある人の背中が目に入った。
陰陽頭、嘉納雅章様――。そうか、今日はあの方は内裏で会議にご出席されていたのだ。だから拓磨様はこの日に寮に。
『雅章様』
彼は急ぎ足で寮に向かっていたけれど、私の声を聞いて立ち止まってくれた。どうやら雅章様も会議を抜けだして、急いでお戻りになられたようだ。
妖気は引いているから恐らくもう討伐されたか、あるいは引き返しただろうけど。
「あぁ、暁。どうしてこんなところに?」
ここで〝拓磨様をお迎えに〟と言ってはいけない。恐らく拓磨様は雅章様に内緒で寮へ足をお運びになっている。ならば私はここでこの方を足止めしなければ。
丁度良い。私も雅章様には、お伝えしなければならないことがある。
『ま、雅章様にご報告があって参りました』
「ほう。すると手に入ったんだな? 例のあれが」
雅章様は嬉しそうに笑みを浮かべた。この方の言う〝あれ〟とは安曇陰陽記のことだ。書名はご存じないと思うけれど、安曇に伝わる何かがあると彼は読んでいた。
一度は私もあの書を探したけれど、結局見つからなかった。
でももう、見つける必要はない。私にはもう必要ない。
『……申し訳ございません、雅章様。やっぱり私には拓磨様を裏切れません』
深々と頭を下げて私は続けた。
『まだ拓磨様を好きという気持ちを、どうしたら良いかは分かりません。でも私はあの方のお傍にいられるだけで幸せなんです。彼を裏切れば、もうそれも叶わないでしょう。それに――』
〝私は暁とも、もっと仲良くなりたいんだ〟
あの時の華葉の言葉が未だに頭から離れなかった。私も華葉のことを恨めしく思ってばかりで何も知らないのだ。あの子のことを理解するには、彼女の言うとおりもっと話をするべきなんだ。
そうすればいつか、華葉のことも好きになれるかもしれない。
『だから、ごめんなさいっ。雅章様!』
そう言ってもう一度頭を下げて、雅章様の顔もよく見ずに再び寮へと走り出した。
何だか足取りがさっきよりも軽くなった気がする。
でもそこで私の視界が歪んだ。
「……呪詛陰陽術、漆黒ノ魔煙」
『え……?』
自分の体から黒煙が上がっていた。
胸が苦しくなり、体が溶けていくのが分かる。
「愚かな式神が。最初から期待などしておらぬが……もう良い、消えろ」
すれ違いざまに雅章様は見たこともない冷酷な目を向け、私を残して立ち去った。
嫌だよ、絶対に帰るって約束したもの。二人が待ってるのに!
そんな思いとは裏腹に意識は遠のき、視界に映る茜色の夕日が次第に滲む。これはきっと皆を裏切ろうとした罰。
ごめんね。雫、華葉。
あぁ、拓磨様。
大好きな拓磨様。ごめんなさい、最後までおつ――――。




