第六十四話 氷結せし陰陽寮
暁が無事に戻ってから五日後の土曜日。
あの男との例の約束を果たすために私は陰陽寮へと足を運んだ。
珍しい人物の登場にすれ違う者は皆、人の顔を二度見しているようだが、気にすることなく颯爽と中央の広間へ立ち入っていく。以前に中は歩き回っており、間取りは分かっているため悩むことはない。
そもそも実に簡単な造りの屋敷であり、迷う方が難しいだろう。
男は既に広間の一角を陣取り、今か今かと私の到着を待ちわびていた。
そして私の気を察知するや否や、勢いよく振り返った。
「来たな、魁サマ。まさかお前が自らここに出向いてくる日が来ようとはな」
「……その呼び方は止めろ、帰るぞ」
不機嫌な表情で踵を返す素振りを見せると、蒼士は慌てて私を引き留めた。
意外と遊べる面白い男だ。
蒼士との約束場所を寮に指定したのは私だが、自宅とは違う雰囲気に居心地の悪さを感じた。香りも違うし、当たり前だが景色も違う。
人目を避けるなら私の屋敷でやるのが本来だろう。しかし何となく、この男と華葉を会わせたくない気持ちが勝り、自宅が無理なら私が選べる場所はここしかないという消去法での選択である。
「もう他に人は残っておらぬな? 今から教えるのは尊が考案した秘術。お前には特別に教えるが、他の者には他言無用とさせてもらう。勿論、雅章殿にもだ」
寮内には私と蒼士以外の者の気配は感じなかった。
本題に入る前にそう切り出すと、蒼士は少し怪訝な表情をした。
「父上にも? ……あ。だからお前、今日を選んだのか!」
そう、今日は内裏で議会が行われる日。だから陰陽頭である雅章殿も不在なのである。それを狙ってこの日に蒼士との約束を取り交わしたのだ。
父上が開発した心力生成の手法、相生循環生成を教えるために。
「不服なら止める。言っておくが、魁である私には他言したかどうかなど、すぐにお見通しだからな」
横目で蒼士を見れば、奴は恨めしそうに奥歯を噛んでいた。魁は五気混合術が唯一使用を認められた存在。それくらいは蒼士だって知っているが、どんな術が存在するのかは魁本人のみぞ知るところだ。
だがこれは虚勢を張っているだけである。使わないとは決めたものの、一応あの巻物には目を通した。聞いたこともない、歴代の陰陽師たちの血と汗の結晶を感じる術ばかりではあったが、そうそう都合の良いものなど存在しない。
――勿論、他の生き物を人に変える術も。
「貴様、都合の良いところは魁と自負しおって」
「違いはないだろう、私の特権だ。どうする、やるのかやらないのか?」
そう問い詰めたらば、蒼士は小さく舌打ちをして承諾の返事をした。
今日も外は見渡す限り白銀の世界である。雪音によって冬へと変えられた季節は、本来まだ初秋であるということを忘れそうになってしまう。
循環生成の方法を聞いた蒼士は、私の隣で目を瞑って白い息を吐きながら、ゆったりとした呼吸を繰り返していた。火桶の中で炭が爆ぜる音だけが響く静かな空間で、その様子を私は見届けている。
「どうだ、何か感じるか?」
「……いや、今のところ。しかしただ相生の思想で気を収集するだけで、本当に変わるのか?」
心力を生成しただけでは、違いは本人には良く分からないものである。術を使って初めてその威力を思い知ることができる。
私も初めは半信半疑であったが、今なら感覚を研ぎ澄ませれば違いは歴然。蒼士の中には濃い心力が時間を掛けて溜まっていく。流石に飲み込みは早いな。
「生成法もそうだが、心力に質の違いがあるのには驚いた。流石は歴代随一の天才陰陽師と謳われた安曇尊、恐れ入るわ」
「私も意外であった、お前が安曇の技術を素直に受け入れるとはな」
相生循環生成は一日に呼吸数で十回まで、という制限を蒼士には設けさせ、奴はそれを守り生成を止めた。これも〝破れば魁の特権でシメる〟という脅し付きである。この程度であれば、蒼士の今の心力ならば上限過多にもならず済むはずだ。
「勘違いをするな、受け入れたわけではない。嘉納と安曇はこの先も交わることは有り得ぬだろう。ただ僕にも陰陽師として民を守る義務がある。このままではあの妖怪どもには勝てぬということを、桛木との戦いで思い知っただけだ」
ふん、と鼻息混じりにそう言う蒼士に「そうか」と一言だけ返した。
この男の良いところは、己の中に決して曲げられぬ志があるということだと思う。家柄の闘争よりも民の命を優先とする蒼士であれば、この生成法を悪用することはないだろう。
「ならば私はそろそろ戻る。いいか、くれぐれも用法の制限は守ってくれ」
「くどいぞ拓磨、分かったと言っておろう」
蒼士の文句を聞き流し、屋敷に帰ろうとした時だった。
一筋の稲妻が雷鳴を轟かせて庭に落ち、瞬間的に閃光が走り目が眩んだ。
「なーんだ、もう帰るのか安曇拓磨。折角来たんだから俺と遊んでいけよ」
光の中から聞き馴染みのない声が響き、私と蒼士は目が慣れると同時に振り向くと、そこにいたのは赤茶色の髪をした童男……氷雨であった。途端に寮内に溢れる妖気に緊張が走る。
「貴様っ、ここの結界を破ったのか!?」
「こんな結界、破るなんて造作もないね。内裏の結界を破ったのも俺さ、雷龍様に雷の力を分けてもらっているからな。……ただ」
驚いている蒼士に対し、それまで嬉々として話していた氷雨の表情が曇った。
奴は鋭い視線を私に向け、面白くなさそうに続けた。
「安曇拓磨、お前の屋敷の結界だけはどうしても破れない。アレ、どうにかしてくんないかな。鬱陶しくて嫌になるんだけど」
そう言って人のことを指さす氷雨。こちらの方こそ鬱陶しくて嫌になるのだが。
どうやらご丁寧に、先に我が家にも挨拶をしに来てくれたらしい。あの結界は私の心力以外は通さぬ特殊なものであり、簡単に破られてたまるものか。
華葉に〝絶対に屋敷から出るな〟と言い聞かせておいて正解だった。
今頃は大層ご立腹であろうな。
「人の屋敷に勝手に押し入って、結界を破れとは随分なご身分だな。お前の雷龍様は礼儀は教えてくれなかったのか?」
口調では余裕を装っているが、身体は我ながら笑えるほどに強ばっていた。こうして話している間に、奴の妖気で周り一帯が凍り始めているのである。
一触即発の状況に私も蒼士も戦闘態勢に入った。
氷雨の口元に怪しい笑みが浮かぶ。
「いいさ、お前を殺せば済むことだ。――妖術、摧破たる氷槍!」
「安曇式陰陽術、鋼鐵結界ッ!」
発声の直後、氷雨の頭上に大きめの氷塊が数個浮かぶと、全て砕けた後に鋭い槍となって寮に降り注いできた。これはあの桛木の体を貫き命を絶った術である。
何とか私と蒼士の周囲一帯は金の気による結界で守っているが、その外では寮が無残にも破壊されていく。この結界が破られるのも時間の問題だろう。
だがこちらは二人だ。私が結界を張っている間に蒼士が攻撃に転じた。
「嘉納式陰陽術、百火箭!」
氷の槍に対し、蒼士は無数の火矢を放った。今日のこやつは冷静である。しかも今の蒼士の心力は僅かだが濃化されており、威力は通常より増している。
火矢は氷の槍を溶かすように打ち砕き、そのほとんどを霧散させた。予想外の蒼士の動きに氷雨は関心したように驚いていた。
「へぇ。思っていたよりやるな、嘉納蒼士。何かしたのか?」
「おぉ……、これほどまでに威力が上がるとは」
そして誰より自分の力に驚愕しているのは、蒼士本人だったりする。
だがこの程度で引き下がる相手ではない。
「面白い、少し本気を出してやる。妖術、獰猛たる氷晶!」
氷雨は今度は粒子の細かい氷を作ると、一帯に吹雪のように吹き荒れさせた。氷が当たった場所から徐々に凍り始め、建物は勿論、木々なども氷漬けにされていく。
鋼鐵結界でさえも凍結し始めていた。奴はこの術にとんでもない妖気を掛けており、私の術が押し負けているのだ。当然、私の心力も濃化させたものである。
「拓磨、割れるぞ! あの冷気を吸ったら終わりだぞ!?」
「分かっている……!」
ならば敢えてこちらから結界を外し、別の術を繰り出す。
「安曇式陰陽術、業火幽壁ッ!」
結界が切れる寸前に自分たちの周りを炎の壁で覆った。白狼との戦いで使った巨大な火壁である。立ち上る炎の熱に周囲の氷の粒子は溶けるものの、ほんの薄皮一枚挟んだ外側は変わらず氷の嵐だ。
我々の体が凍る心配はないが、守るばかりで未だ氷雨には一撃も入れられていない。それにこの火壁の中にいられるのも限度がある。
「ちっ……! 嘉納式陰陽術、火炎陣!」
「妖術ッ、牢固たる氷帽!」
見かねた蒼士が炎の渦で応戦に入ったが、氷雨は分厚い氷の塊で防御。蒼士の力では到底打ち破ることはできなかった。
火壁の熱で薄ら汗をかいている蒼士が悔しそうに顔を歪めた。この男には分かっているのだ、これ以上太刀打ちしたところで自分には歯が立たないと。
循環生成を取得したといえど蒼士は今日が初めてで、ましてや数回に限らせており劇的に変わったわけではないのだ。
そんな蒼士の頭に浮かんだのは、私が持つ〝特権〟のこと。
「……拓磨、五気混合術を使え。もうそれ以外に方法はない」
私はそれを隣で黙って聞いていた。普通なら誰もがそう提案するだろう。
だが私は――。
「断る」
「拓磨ッ、お前の心力なら今ならまだ十分撃てる! 何を躊躇するか!?」
分かっている、奴らを倒すためにこの資格が解禁されたことくらい。
それでも私は断固として、断る――!
「安曇式陰陽術、飛泉水冠……ッ!」
蒼士の言葉を無視して相手を水泡で覆う術を繰り出すと、思惑どおり氷雨は一瞬にして凍った水泡の中に閉じ込められ、そのまま地へと落ちた。
氷の吹雪は止み危機は脱したが、蒼士は納得のいかぬ顔で私を睨みつけていた。