第五十一話 宣戦布告
住み慣れた我が家に戻った私は雫に湯浴みを勧められたが、それに従うことはなかった。その気はあったのだが状況が急変したのである。
湯殿に向かう直前に山鳥姿の暁が飛び込んできて、都の北西で多数の妖怪が暴れていると報告したのだ。
暁とは共に帰宅するはずだったが、私が魁の試験を受けると言ったことが気に食わなかったらしく、機嫌を損ね何処かへ行ってしまっていた。その先で彼女は妖怪の発見に至ったようだ。
今朝から都は静かで、陰陽師たちはほぼ卜占やら祈祷やらに出払っていた。動けるのは私しかおらず、加えて華葉は念のため屋敷に置いてきたため、私と暁だけで対処しなければならない。
別に他の者の手助けなど端から不要であり、それは問題ないのだが。
「安曇式陰陽術、羽衣水斬……!」
薄い水の膜で広範囲に斬撃を加えた。単純に、とにかく数が多い。視界に入るだけでも三十体はおり、その全てが小猿のような姿の妖怪である。
視界に入る半数ほどを蹴散らしても、ほぼ同数の仲間がすぐに湧いてきてキリがない状態だ。果たしてどれだけの数を引き連れてきたのか。
群れを成して来たのであれば、どこかに親玉がいるはずだ。そいつを叩けば残りは勝手に散るであろうが。
『拓磨様、あそこ!』
耳障りな甲高い声に囲まれ嫌気を覚えながら、私は空から聞こえる暁の声に視線を傾けた。その先では小猿たちよりも遙かに巨体な老猿が、民家を破壊していたのだ。恐らくあの老猿が親玉とみて間違いないだろう。
民家の中で震えながら身を潜めている夫婦が悲鳴を上げる。老猿は女の姿を見つけるとニヤリと笑って彼女に突進した。
「急々如律令、結界壁!」
寸でのところで彼らを覆った結界に激突し、老猿は大道芸のような見事な転倒を見せた。ところが石頭なのか奴はすぐに起き上がると振り返って、私を鋭く睨んだ。
『其方が安曇拓磨かの』
そしてお決まりの台詞である。
「そう言うお前は妖怪・狒々であるな?」
『ご名答じゃ。まったく、ようやく解放されたというのに女子の一人も楽しめぬとは……。雷龍様のご命令じゃ、仕方あるまい。まずは其方から始末するとしよう』
文句を垂れながらそう言うと、狒々は自ら破壊した民家の巨大な木片を軽々と持ち上げ、こちらへ目がけて投げつけてきた。狒々の特徴の一つはこの怪力である。次いで女子好きというのも聞いたことあるが、奴を見る限り噂に偽りはないらしい。
「安曇式陰陽術、根楼白槍!」
木片と共に群がってくる手下の子猿たち諸共、串刺しにして撃退する。だがこれでは白槍が伸びてくる点の攻撃に限ってしまい効率が悪すぎる。もっと奴らを一カ所に集め、まとめて術にかければ良いのだが。
その時、手助けに来たのか暁がヒラリと舞いながら人の姿へと変化し、私の前に降り立った。だが喧嘩別れしたままのせいか、彼女は決して目を合わせようとはしなかった。機嫌が治ったわけではないらしい。
すると少し先で、それを見ていた狒々の目の色が変わった。
『おい、その女子は其方の式神か?』
「……だったら何だ」
聞き返すや否や、狒々は再び薄気味悪くニタァと笑うと、我々へ突進してきたのだ。笑うと分厚く大きな唇が目まで覆ってしまうが前は見えているのか、それとも気を頼りに前進しているのか、一直線に向かってくるのが男の私でも気色悪い。
この女好きの助平ジジイが。
『気に入った! その式神、儂によこせぇええッ!』
『い……いやぁああ! 拓磨様、何とかしてくださいぃ!』
機嫌が悪いのを忘れて暁は私へと縋る。〝飛べば良いではないか〟と思うのだが、今それを言うとまたふて腐れるのが関の山だ。ここは黙ると決め込んだ。
都合良く、親玉に続けと言わんばかりに小猿たちも一斉に飛びかかってきた。女好き助平爺のお陰で、猿共が一カ所に集まる絶好の機会到来である。
一網打尽にするには、心力をより多く必要とする術の方が早い。
『どけぇえッ、貴様らぁあ!!』
「安曇式陰陽術――」
五感鍛錬の効果もあり、その気を探るのは以前よりも容易い。
それは、陰陽師が最も避けがちになる五行の気・金。
土の中の僅かなその気が、身体の中に流れ込む。
「――桔梗白銅!!」
刹那。
五芒結星のように地面に大きく私を中心に五芒星が描かれると、白銀の光を放って輝きだした。真っ直ぐに突進してくる狒々の軍団がその光に触れた瞬間、そこから焼けるように皮膚が霧散して無へと帰してゆく。小猿の多くは既に大半が消えていた。
金の気は掌握が難しい分、威力は他の気の比ではない。それなりに心力の消費も覚悟しなければならないが、今の私には十分過ぎるほど満ち足りている。
そもそも小猿は勿論、親玉である狒々も図体の割りに妖気をそんなに有してはいなかったのだ。この程度の妖怪に手を焼くはずがない。
ならば奴は何のために現れたのか。……否、何のために刺客に出されたのか。今や雷龍が服従していない妖怪など存在しないであろう。現に奴は〝雷龍様のご命令〟と口走っているのだ。
『くそぉ! 覚えておれ、安曇たく……』
言葉の途中で狒々は身体の全てが消え去ってしまった。覚えておれも何も無に帰すのだから、残念だがもう二度と会うことはないだろう。
とりあえず討伐を終え、辺りには再び静寂が訪れた。民家は何軒か倒壊されたが中の人間は皆無事のようで、一先ず胸をなで下ろした。
そのようやく訪れた静寂の中に、聞き覚えのある声が響いたのは直後だった。
「拓磨……! 僕の行動範囲で妖怪討伐とは良い度胸だな!?」
また別の面倒な猿が現れたようである。
そうか、この男。今日はこの近辺で任務をしていたのか。
「別に。私以外は出払っていると見受けたからだ」
「毎度毎度、僕から手柄を横取りしおって。つくづく気に食わない奴め」
そう言えばこの猿……もとい蒼士は、前回の和邇討伐でも暁に阻止されて参戦することなく終わりを告げた。雑魚程度なら日常的に湧いて出るから相手をしているであろうが、この男は大物を仕留めたいのである。
それなら私の前に駆けつけてくれれば喜んで譲るのだが、そんなことをこの男に言っても火に油を注ぐようなものである。
「大きな顔をしていられるのも今のうちだ。僕が魁になったら奴らの標的はこの僕に向かい僕は英雄に……いや待て、それだけじゃ面白くないな」
まるで子供が好みの玩具を手にしたように、蒼士は不敵な笑みを浮かべた。
私がその魁の試験を受けることになったのは、まだ奴には伝わっていないだろう。受かる気は更々なく言う必要もないが、後々五月蠅そうだから告げておくか。
「蒼士、その試験だが実は……」
「良いことを思いついたぞ、拓磨。僕が魁になったあかつきには、華葉は僕に譲れ」
蒼士に言いかけた言葉を私は全て飲み込んだ。全身が凍り付くのを感じる。
今、奴は何と言った?
「阿呆か、彼女は私の式神だ。譲るも何もあるものか」
「貴様こそ惚けるな、もう僕には正体が割れているぞ。華葉は巫女、人間であろうが。式神擬態で隠すなど小賢しい真似を」
それを聞いて私は頭が痛くなった。変なところは合っているが、前提が大ハズレである。一体どこから巫女が出てきたのか……いや、そんなことはこの際どうでもいい。蒼士が華葉を欲するとは思いもしなかったのだ。
奴が華葉を目にしたのは白狼との戦いで謹慎が解けた日の後、あの一度きりのはずだ。嫌な予感はしていたが、とんでもない悪い虫が付いてしまった。
無論、彼女は式神ではない。故に私に縛られているわけではない。
華葉には何処にでも行ける自由がある。
「付き合っておれぬ、帰るぞ暁」
「僕は本気だぞ! 彼女には文も送ってある、僕はあの娘を正室に迎える!」
宣戦布告。私にはこの男の言葉がそのように受け取れた。
魁の試験を受けると言いに来た時の比ではない。そう煩わしく思いながら蒼士の目を真っ直ぐに見据えた。
文を送っただと? いつ、どこで。そんな報告は一切受けていない。
確かに私には彼女を縛る権利はないが、体中がそれを拒絶するかのように熱くなるのを感じ、淡い春の香りが鼻を掠めていった。
この香りがあの男の手に渡るなど、どうにも不愉快に思うは何故だ。
「……帰る」
「おい、拓磨! 約束だぞ、必ず勝ち取ってやるからな!!」
こちらの気に構うことなく叫ぶ蒼士の声を背に、私は屋敷へと歩を進めた。
――ムシャクシャする。
「華葉」
帰宅して早々、私は彼女に与えた部屋に押しかけた。
頬を紅潮させ驚いている彼女は、文字の練習をしていたらしく文台の上の和紙に拙い字を書き連ねている。それが更に私の頭に血を昇らせた。……文の返事でも書こうというのか。
「本当だったのか」
「……拓磨?」
不思議そうに首を傾げる華葉の腕を少々乱暴に掴み上げると、懐から一枚の紙が舞い落ちた。それに気づいた彼女が慌てて拾おうとするが、その前に奪って目を通す。
―― おぼつかな 君知るらめや 音もなく うつろう春花の結ぶ心を ――
それは紛うことなき恋の文。
紛うことなき、蒼士の書であった。
「違う、これは……拓――ッ」
気がついた時。
涙ながらにあることを訴える彼女と、馬乗りになりそれを見下ろす自分がいた。
誰かを組み敷いたのは、これが初めてのことであった。




