第四十六話 鬼の居ぬ間に
また拓磨様を振り切って飛び出してきてしまった。そう思いながら眼下に広がる都を見下ろし、果てしない青の天空を飛行する。
見回りなんて桜の葉を集める時にやったようなものだし、口実にすぎない。それは恐らく拓磨様にも勘づかれている。
それでもあの方に、あんな困った顔をさせてしまったことに、いたたまれなくなって逃げてきたのだ。いい加減このへそ曲がりな性格をどうにかして、大人にならなきゃいけないのは分かっている。
だけど、私は。
『拓磨様にとって、私はずっと式神だもんね……』
これまでもこれからも、それは永遠に変わることはない。
私は山鳥で、既にその身は滅んでいて、拓磨様の力で蘇っているだけの存在。
それでも私は、あなたのことが好きなのです。
あなたに助けられた、あの日から、ずっと。
◇
僕の屋敷は父上が陰陽頭を務めていることもあり、陰陽寮の比較的すぐ傍にある。だがその利点に傲ることなく、日頃から早朝より父上と共に寮へ出仕している。誰よりも早く今日の任務の確認をした後、寮内で心力生成や修行に励んだりしているのだ。僕こそ他の模範と言えよう。
夏になり陽の気が強まり、出現する妖怪の数は減少傾向にあった。かといって零ではないし、相変わらず雷龍の影響でそれなりの妖力を持った奴らが現れることもあるから、気を抜いて良いわけではない。
ま。拓磨は療養中だし、必然的に妖怪が出れば真っ先にこの僕が駆けつけ、早々に討伐を果たすが故、他の討伐陰陽師は暇を持て余しているであろうがな。
しかし今日は朝から静かで、卜占の任務も少し後の刻からの予定であったため、僕は別件を済ますために外に出た。だが、ふと懐を探ると大事なものが見当らない。
しまった、屋敷に忘れたか。できれば戻りたくないのだが、やむを得ん。
物が物なだけに、闇烏を使うわけにもいかない。目的のために朝から奴はまだ召喚もしていなかった。
渋々一度屋敷へ戻ってきたが、自分の敷地だというのに僕は物音を立てないようにソロソロと渡殿を進んで自室に入り、例の物を机の上に見つけて懐に入れると、また同様に戻っていくのだ。
仕方あるまい。これには理由がある。
何せあのお方に見つかったら色々面倒――。
「あら、蒼士。こんな時間に珍しいわね、何をしているのかしら?」
ッドォオオオ、キィイイイイ!!
……という心音が聞こえそうなほど、僕は身体を跳ね上がらせた。
まずい、この声は。
恐る恐る振り返ると、そこには予想どおりのあのお方が和やかに立っていた。
「ごご、ご機嫌麗しゅうごごございます、ははは母上……」
「まぁ、何を言っているの? おかしな子ねぇ。なかなか顔を見せてくれないから、寂しいではありませんか」
優雅に扇を仰ぎながら母上は、僕と同じつり気味の目を細くして上品に笑った。
彼女が僕の母上・葵である。実のところ僕が朝早くに屋敷を出るのも、遅くまで寮に留まるのも、この母と二人にならないための策略である。
決して拓磨のように嫌いというわけではない。
ただただ面倒なのである。
「見るたびに父上に似て男前になりますね、蒼士」
「光栄です、母上。あの僕、急いでおり――」
「ふふふ。それでお前は、いつになったら妻を持つのかしら? お前なら女子などすぐに落とせましょうに、母は心配でなりません」
……これだ。母上は僕が元服してからというものの、何かと婚姻、婚姻とせがんでくるのだ。男子たるものその気がないわけではないが、今は陰陽の責務に集中したく、正室のことは頭にない。
だが歳も十八となり、そろそろ真剣に考えねばと申す母上の気持ちが分からぬほど、僕は親不孝者ではない。単純に女に接する機会が少ないのと、さほど女に興味がないというのが正直なところだ。
つい先日までは、そうだった。
「良い女子がおらぬなら、父上に頼んで私が選んであげましょう」
「母上――」
「どこの女子が良いかしら。しかし下級貴族の娘などに、可愛い蒼士を渡したくはないわね。中納言様の娘はまだ婿がおらぬそうだけれど、あの娘は傲慢と聞くし」
「あの、母上っ!」
なかなか聞く耳を持ってくれない母上に、少々荒めの声を上げてしまった。母上が驚いたのは勿論だが、僕自身も自分から出た大声に驚き、思わず咄嗟に口を押さえた。その時、衝撃で懐に入れた物がハラリと床に落ちたのだ。
それに先に気づいたのは無情にも母上だった。
「おや、何か落ちましたよ」
母上は落ちた紙を拾い、何気なく開く。
否、開こうとして、僕のどんな術より迅速に、彼女の手からそれを奪い返した。
「わぁあああッ、ナンデモナイデース!」
「何ですか騒がしい……あ。」
これが女の勘というものなのか、母上はやけに嬉しそうにニンマリと笑った。
「お前もしやそれは……、女子への文なのですね? それならそうと申しても良いじゃない。それでどこの誰なの。帝のお付きの娘? お役人の娘? それとも」
「ちちち違います。これは父上に頼まれて……」
「もう、照れなくても良いから教えなさいな」
ダメだ、全く聞いてくれやしない。
こうなったらもう奥の手である。
「式神召喚、闇烏ッ!」
発声の直後に姿を現した闇烏は、目の前の状況に困惑した表情を見せた。こいつも僕が母上と一緒にいる姿を見ることは滅多にないであろう。
しかしそんなことに構っていられない。僕は自分と闇烏の立ち位置を入れ替えると、奴の肩を掴んで短い命令を下した。
「あとは頼む」
『は……?』
返事を聞くより早く僕は母上に直角に一礼をすると、呼び止める声も聞こえぬ振りをして、一目散にその場から逃げ出したのである。
逃げるのは好きではないが、それは時と場合によると改めて実感した。
その後二人がどうなったかは、僕はあまり聞きたくない。
何とか母上から逃れた僕は、ある男の屋敷へと向かっていた。
幸い取り返した和紙は少しよれたものの、破れることはなかった。これは父上の頼みというのは嘘であり、奇しくも母上の読みどおりのものである。
何年かぶりに女子に文を書いた。だが勘違いしないでほしいのは、これは僕が女に惚れたからではない。そうと見せかけて近づいて、あの女の正体を暴くためだ。
屋敷の主は丁度今、寮の平癒殿で療養中。接触するには今が好機。
そう。
今この僕が向かっているのは、安曇拓磨の屋敷である。
「父上は気にするなと言うが……乗りかかった船だ。正体を暴かねば落ち着かぬ」
そう口では言うものの、できるだけ人目に触れぬよう奴の屋敷へ足を運ぶ。
何だか邪な気持ちに駆られて、見られてはならぬ気がするのだ。
「ば、馬鹿馬鹿しい。あの女は奴の式神(仮)であろうがっ」
誰も何も言われていないのに、そんな独り言まで口にする始末。
拓磨の屋敷の前まで来たが、以前と変わらず強力な結界に覆われていた。倒れたくせにこれだけの結界も式神も持続させているとは、奴はどこまで心力を高めたのか。
和邇が現れた時も、僕は奴の赤鳥の式神に邪魔をされてその現場に直面することはできなかった。あの女のことも然り、奴の今の実力について僕はこの目で見る機会をとことん失っている。
ようやく魁の試験で真っ向から競えると思ったが、拓磨は試験に出ないと父上から知らされた時は腸が煮えくりかえったものだ。
僕に負けて恥じることを恐れたのか? 僕は今だってお前に劣っていると思ったことはない。
まぁ良い、拓磨のことは後だ。
それより今はあの女……さて、どうやって引きずり出そうか。
そう考えていた時だった。突然拓磨の屋敷の門が開いたのだ。
「!!」
「!?」
視界に飛び込んできたのは正しくあの式神の女、華葉であった。水を撒きにきたのか手には桶と柄杓を持っていた。
想定外のこととはいえ、何故か体中の血液が顔面に集まったように、顔が熱くなるのを感じた。華葉は華葉で僕の姿を見るなり、すぐに門を叩き締めていた。
「な、何故お前がこんなところにいる!? 拓磨なら今はおらぬぞ!」
「ししし知っておるわ! 奴に用があって来たのではない!」
……しまった、正直に言ってどうする。母上のせいで調子が狂っている。
「なら何をしに来た。また私のことを探りにきたのか? 生憎だが私は拓磨から、お前には関わるなと指示を受けている。話すことは何もない、とっとと帰るんだな」
門の向こうから華葉の無慈悲な言葉が聞こえた。
だが残念ながら帰れと言われて素直に従うほど、度胸のない男ではない。
「関わるなだと? ほーう、僕に正体が分かると何か不都合でもあるのか?」
「知らぬ、私は拓磨の言うことを聞くだけだ。掃除が進まぬだろう、早く帰れ!」
そんなに彼女と僕を遠ざけたいのか、拓磨め。どうやらこの女は相当、奴にとって特別な存在であるらしい。いくら式神とて、そこまでする必要があるだろうか。
それに式神は術を使えないとされているが、この女はそれを扱うと聞く。ならばこの女は既に式神ではないのは明白なのだ。
式神でない者を、人嫌いの拓磨が匿う理由など、ただ一つ。
「あぁ分かったぞ、華葉。お前の正体は……」
僕が発した声に、門の向こうから息を飲む音が聞こえた。
そうだ、お前の正体は恐らく――。




