第四十二話 〝唯一の存在〟の解禁
美しい、桜の夢を見る。
満開の花を惜しみなく雪のように散らし、瑠璃色の天へ吸い込まれていく。
〝芽吹いた葉で陽の光を浴び養分を蓄え、凍てつく冬を耐え生きる。そしてまた再び花を咲かせる。桜にはその可憐な見た目とは裏腹に、凄まじい生命力があるのですよ〟
耳に残る、遠く懐かしき愛する人の声に、目を閉じる。
その生命力に憧れ、花を愛で、葉を愛で、紅葉と雪化粧を愛で、そうして庭の桜と共に過ごしてきた。
でもあなたの桜は、もうないのです。
あなたも桜も、もう、死んだのです。
<いいえ、死んではいません。決して、死にはしません>
はっと瞼を開くと、花吹雪の中に一人佇む女性を見た。
栗色の絹髪に薄紅色の袿姿で、無邪気に小さな花びらと戯れている。
振り返り私を呼ぶ君は、琥珀色の瞳を細めて、笑った。
「――ま、拓磨よ。聞こえておるのか?」
心地よく温かな空間から呼び戻したのは、可愛らしさの欠片もない男の声であった。人の顔を真正面から覗き込んでいる相手は、正直に言えば今一番会いたくない人物だった。
「雅章殿……」
「おぉ、良かった。目覚めたというのは誠であったか。難儀だったな」
暁が屋敷に戻った後、どうやら眠っていたらしい。
私の様子を見た雅章殿は安堵したように溜め息を吐いた。
「私を治療してくれたそうで。礼を申す」
推測といえど不信感を持っている相手であるが、この男は師でもあり上官でもある。助けてもらった礼を言わないわけにはいかない。
雅章殿はその言葉を聞くと柔らかく微笑んだ。この裏で何か企んでいるのかと思うと、とんでもなく恐ろしい。
「気にすることはない、可愛い弟子ではないか。其方が死んでしまっては陰陽連は大打撃ぞ。それに私が毎日泣いて暮らせねばならぬ」
「はいはい、それはどーも」
一瞬にして、恐ろしいと思っている自分が阿呆臭く思えた。
「それで何用だ。任務の命令であれば断るぞ、私はまだ動けぬ」
「冷たいな、私がそんな意地悪を申したことあるか? 其方には安静にしていてもらうさ。しかし、きちんと意思表明は聞いておかなければな」
気だるく思い私は正午の明るい屋外の方に目をやっていたが、〝意思表明〟という言葉に再び雅章殿に視線を戻した。
何の意思のことを言っているのか? もし華葉のことであれば何と返す?
無意識に私は息を飲んだ。
「何の話だ」
「おや、蒼士から聞いていないのか? あの子が〝拓磨に宣戦布告してやりました!〟と意気揚々と言っていたから、てっきりそうだと思ったが」
そう言えば暁が発つ前に、蒼士が来て何か言っていたな。
全く興味がなくて何も聞いていなかったが。
私が「知らぬ」と端的に返事をすると、雅章殿は悟ったように苦笑し、改めて座り直して少し興奮気味に話を始めた。
「陰陽第一者の位、魁の選抜試験が始まるのだ」
「魁……? 何だそれは、初めて聞く」
「あぁ、蒼士も知らなかったが其方もか。だがその存在は聞いたことあるはずだ」
陰陽第一者の位、魁。
それは〝陰陽を司る唯一の者に与えられる称号〟であると雅章殿は言う。
私はすぐに、それが父上が言っていた「特別な陰陽術を使える資格を持つ者」のことであると分かった。その者のことを〝魁〟と言うらしい。
特別な陰陽術とは五行の気全てを混合して使う強力術である。噂では命の蘇生や転生まで行うことができると聞くが、果たしてどこまで本当かは定かではない。
しかしその資格を持つことは、かなり前に帝が停止していたのではなかったか。
「私が帝に提言して解禁させたのだ」
自慢げに言う雅章殿に私は顔をしかめた。
何故今更そんなものを解禁するのか。
「考えてみよ。其方ほどの陰陽師が雷龍ではない妖怪に打たれたのだ。雷龍に満たない妖力の相手であるぞ? ならば奴にはもっと強力な術で対抗せねば勝てるわけがない」
雷龍を倒すには、魁の資格を使うしかない。雅章殿はそう帝に進言したのだ。
初めは帝も躊躇していたが、雷龍という圧倒的な妖怪の存在があるのも事実であり、今のままでは討伐できない現状も彼は理解していた。帝の役目は都の安泰を守ること、そのために雷龍討伐は必須だ。
結局それが決め手となり、他の上流貴族も同意のもと解禁が決定した。
相当の事情があって停止していたのであろうに、そこは誰も責めなかったのか。
「魁を決めるには、それに相応しい才があると帝が認めなければ定められぬ。実績などは関係なく、帝の目の前で試験を行うんだ」
「で、蒼士がそれに参加するから、私に宣戦布告に来たと」
そう締めると雅章殿は「ご名答」と笑顔で口にした。
私が意識を失っている間に面倒なことになったものだ。
まぁ丁度季節はこれから夏本場。陽の気が高まり、妖怪の活動が少し低迷になるため、試験を行うならば今しかない。
だが、彼らはそもそも大きな勘違いをしている。
「拓磨も当然受けるであろう。ならば私が代わりに申し込みを――」
「受けぬぞ」
きっぱりとそう言うと、雅章殿の表情が固まったのが分かった。
いや、何故私がその試験を受ける前提で、この親子は盛り上がっているのか。
「何を申すか……。陰陽師唯一の称号であるぞ、言うなれば最強の証だ」
「私は強くはなりたいが、最強の称号が欲しいわけではない。その者が雷龍を倒せるのであれば、喜んで頼もう。受けぬと言ったら受けぬ」
私は端から〝陰陽師〟であれば良いのだ。
暁や雫と家族でいるため、陰陽師であり続ける。
陰陽師であるには、任務を遂行しなければならない。
しかし人とは関わりたくないから、妖怪討伐の任務である必要がある。
妖怪討伐の任務を受けるには、相当の心力と技術が必要とされる。
だから鍛錬をしてきたのであって、決して最強になりたいわけではない。
「……そうか、分かったよ」
断固として了解をせず衣を頭まで被った私に、雅章殿は残念そうに小さく呟いた。その場を立つ音が聞こえたので、私は鼻の上まで衣を捲る。
雅章殿は肩を落とし、平癒殿から出て行こうとしていた。
「其方がそう申すならば仕方なかろう。だがその気になったら教えてくれ」
ならぬわ。と喉まで出かけたが口にすることはなかった。
息子と同じで早く出ていってほしいと心から願うが、奴は出入り口の手前でこちらを振り返った。その口元は不敵に笑っている。
「あまり危ないことをするでないぞ、拓磨」
意味深なその言葉に、背中に寒気が走ったのは言うまでもない。
◇
「拓磨が……!? 本当か、暁!」
私は戻ってきた暁の報告を聞き、思わず身を乗り出して彼女の両肩を掴んだ。
暁は驚いたものの、少し笑って首を縦に振る。
『良かったですわ。私たちが消えない限りはご存命かと思っていましたけど』
『まだ傷が癒えたわけじゃないから、もう暫くはご療養が必要だけどね』
安堵する雫たちの隣で私は目からポロポロと涙を落とした。拓磨が死ぬはずないと信じていたものの、それでも怖くて仕方なかった。
私は拓磨を守れなかったのではないか、と。
『ちょっと! 私だって我慢したのに何で華葉が泣くのよ!?』
「すまない。安心したら勝手に……」
自然と零れ落ちるものを雫が指でなぞると、そっと抱きしめてくれた。それがまた安らぎを呼び、更に涙が溢れてしまう。
『あぁもう、落ち着きなさいな。話はこれだけじゃないのよ』
呆れた声で暁がそう言うと、必死に堪えながら私は雫から身を離した。その様子を確認した暁は小さく溜め息を吐き、私と雫を見た。
『拓磨様からの伝言。〝雅章殿には注意しろ〟って』
『注意しろ? 陰陽頭様に何かあるのかしら』
『さぁ、そこまでは』
雅章。
その名前には聞き覚えがあった。
〝何で聞いてないのよ!〟と文句を言っている雫の横で、私は急に立ち上がった。当然二人は肩を震わせて驚いている。
『ど、どうなさいましたの? 華葉』
「雅章……そいつ、私のことを知っている」
〝こんにちは、華葉さん。初めましての方が良いかな?〟
拓磨を連れていったあの男は、そう言う前に私の背中に触れていた。あれは式神擬態の護符を貼り直していたのだ。何も知らない者がそんなことをする理由がない。
奴は私の正体を知っている。
そう言うと暁と雫の顔から一気に血の気が引いた。
『恐らく拓磨様はそれに気づいたのですわ』
『じゃあ雅章様は知ってて華葉を容認してるってこと? ……愛弟子だから?』
二人は思考を巡らすが、我々がここで考えていても仕方がない。とりあえず護符の件は気を失って知らぬであろう拓磨に、再び暁が伝達しに行くことになった。
『宮中も立て込みそうよ。変な試験が始まるみたいだし』
「そうなのか」
『うん。拓磨様が目覚めた後、蒼士様が乗り込んできて――』
〝魁の選抜が始まるらしいぞ! 魁とは陰陽唯一の存在、陰陽師の最強となる称号だ。お前もどうせ受けるのであろうが、絶対に負けぬからな!?〟
『――って言ってたのよね。そんなの拓磨様が受けるとは思わないけど』
療養している拓磨に突っかかるとは、相変わらず容赦のない奴め。
選抜試験か。だが暁は心配していないようだし、気にすることではなさそうだ。
しかし暁が山鳥の姿になって出発しようとすると、雫が彼女を呼び止めた。
『お待ちになって、暁』
『もう、さっきも拓磨様に止められたんだけど』
笑っている暁と対照に、雫は小さく震えていた。
『私も、拓磨様の元へ連れてって』
『……え?』
それは決して〝会いたい〟という軽率な思いでないことは、彼女の蒼白な顔が物語っていた。




