◇番外◇ 月下に聞こゆ余花の声
陰陽師・安曇拓磨とその従者が帰宅した後の大納言邸では、爆弾発言を繰り広げた奥方に対して、主人である大納言が詰め寄っていた。
「おい。……さっきのは何だ」
「さっきのは、と申しますと?」
主人の問いかけに対し、奥方は淡々と応えた。
「とぼけるな。お前が呪の正体であるということだ」
少し声を荒げているというのに、奥方はなおも涼しい顔つきで扇を仰いでいた。実の娘を苦しめておいて、この罪悪感のなさは何なのだろうか。
先の訪問者、安曇拓磨によって娘である美月姫に取り憑いていた呪は、昨晩無事に討伐されていた。
しかし呪の正体が気になった大納言は、早々に拓磨を呼びつけてそれを問いただしたのである。ところが明かされた真相は彼の想像を遙かに超えていた。
娘に呪をかけたのは、自らの妻であり、娘の母でもある目の前の女であったのだ。
それも彼女は自分でそれを自白するときた。
大納言は全く状況が飲み込めずにいた。
「それなら解決したのですから、もう良いではありませぬか。申したはずですよ、あなたが美月ばかり構うので嫉妬したと」
「愚かな、それで娘を呪う者が何処にいるのか?」
その一言に奥方は一瞬にして表情を引き締めると、扇を勢いよく閉じた。
「愚かなのはどちらですか。あなたが大納言という位を手にしているのは、私の父上のお陰に他なりません。父上に私を永遠に寵愛するとお約束したにも関わらず、美月に鼻の下を伸ばすなどとは……恥さらしも良いところです」
捲し立てながら迫ってくる妻から逃れようと体勢を引く大納言だが、ついに置き畳の上に押し倒された状態になった。
優しく上半身を撫でる奥方に、大納言はたじろぐのみである。
「鼻の下を伸ばすなど……そそそのようなことは、いたして、おらぬっ」
「ひどいお方。私はこんなにも愛しているのに」
金魚のように情けなく口を動かす大納言に、奥方が唇を重ねようとした時だった。
着物の擦れる音と、閉まっていた御簾が風もないのに大きく揺れたのを、彼女は逃さなかった。母屋の外で息を潜めているであろう人物に微笑すると、奥方は体をゆっくり起してその者を呼んだ。
「そこにいるのでしょう、美月。お入りなさい」
そう呼びかけられ彼女は戸惑ったものの、無視をするわけにもいかず体を萎縮させながら御簾を潜った。
顔を伏せながら美月は二人の前に腰を下ろすと、両手を前につき頭を下げた。
「どこから聞いていたのですか?」
「……何も聞いておりませぬ。御簾を開いたら母君様たちが仲睦まじくしておられたので、驚いてしまったのです。申し訳ございません」
そう言いながら美月は小刻みに震えていた。
彼女にとって母は、刃向かうことのできない絶対的存在であった。幼い頃から大納言の娘として厳しく育てられ、共に笑い遊ぶことなど一切なかった。褒められることも一度としてなかった。
それを不憫に思っていたのが、父である大納言である。母が厳しい分、せめて自分は娘にとって優しい存在であろうと接した結果、奥方に嫉妬を買うことになろうとは。
「分かりました、顔をお上げなさい美月」
母の言葉に美月は恐る恐る面を上げた。
「其方、体調はもう問題ありませんね?」
「はい。安曇拓磨様方が、私の中の悪い者を退治してくださったと存じております」
「結構。ですが其方の体調不良は、実はあの者たちのせいなのです。もう二度と会ってはなりませぬ。彼らのことは早々にお忘れなさい」
何も知らぬであろう美月に、奥方は全ての責任を拓磨たちに押しつけてそう告げた。それと言うのも先に拓磨が従者を連れて屋敷を訪れた際、あることを他言しない代わりに自分たちの前にはもう姿を現さないことを条件としたのだ。
ところがいつもは黙って言うことを聞く美月でも、流石にこの言いつけには疑問を抱いた。
「恐れながら母君様、私には拓磨様のせいだとは思えませぬ。それに……」
「其方が思わずともそれが現実なのです。それとも私が嘘を申しているとでも?」
萎縮していた美月の体が更に小さくなり、彼女は首を横に振った。
横で見ていた大納言が口を出そうと試みるが、自分に向けられた一瞬の視線に押し黙る。家の中では〝大納言〟の名目など役には立たない。
「其方は母の言うことを聞いていれば良いのです。其方も良い歳なのですから、父君と戯れるのは控えて、お歌の勉学に励みなさいな」
美月は〝かしこまりました〟と呟くと、その場を後にして自室に戻っていった。その背中を大納言は心配そうにただ見つめるしかない。
奥方の美月に対する厳しい姿勢は、この平安京という都で生きるための母としての愛の鞭なのか、それともただの嫉妬心からなのか。くだらない質問をすると自分もまた叱責されるため、彼がその問いかけをすることはなかった。
ただ大納言は、奥方が拓磨と交換条件で、今後自分たちと謁見することを断固として断る理由は分からずにいた。拓磨が腕の立つ善良な陰陽師であることは有名であるし、美月の呪討伐を彼が担うのを喜んだほどだ。
「呪は拓磨たちのせい」というのが奥方自身の罪を隠す嘘だということは承知しているものの、何故美月に忘れさせる必要があるのか。
確か彼女は、拓磨が連れていた式神である従者の一人にとても懐いていた。どうも奥方はその従者を美月から遠ざけたがっているように大納言には思えた。
しかし従者であれ貴族の娘と親しくなること自体には、何ら問題はない。
その従者、華葉が本当に式神であれば。
「朝廷の議会が控えているのです、口止めは確実にいたしませんと。ねぇ、あなた」
「あ、あぁ……。そうだな」
確かに拓磨たちとは「大納言の娘が呪にかかったこと」と、「その正体が奥方であるということ」を他言しないというもの約束もしている。大納言の娘が呪にかかるなど、朝廷で悪い噂を立てる良い餌であるからだ。
帝の信頼を失うことがあってはならない。大納言という地位を失えば、今のような贅沢な生活はできなくなるのだから。そしてその地位を狙う者はごまんといる。
だが奥方はこれを陰陽師の守秘義務として当然とし、わざわざ「謁見禁止」の条件を出した。……何のために?
――そう、それこそ奥方と美月のみが知るあること。
大納言も知っていれば、奥方と同じ対応をしたに違いない。
華葉の正体は式神ではなく、人にとって恐るる存在である妖怪なのだから。
◇
自室に戻った私は、母君様のお言いつけどおりに文机に向かって和歌をしたためる稽古に励んでいた。美しい文字で和歌を書くことが女性にとって必修であるのだ。
でもそれもすぐに飽きてしまい、御簾越しに見える庭の景色を眺めていた。昼間なら御簾は表から中の様子は見えずとも、中から外の様子は丸見えなのだ。
午後になって外は小雨が降り注いでいた。
暇を潰すお手玉も、母君様の言いつけとして女房に取り上げられてしまった。
〝其方の体調不良は、実はあの者たちのせいなのです。もう二度と会ってはなりませぬ。彼らのことは早々にお忘れなさい〟
先ほどの母君様の言葉が脳裏を過ぎる。
私の中にいた悪いやつが拓磨様たちのせいだなんて信じられない。悪いやつがどんなに暴れても、私自身が傷つかないように命がけで助けてくれたのだ。
最終的に悪いやつを追い出してくれたのは、拓磨様ではなく桜の術を操る従者さんだ。琥珀の目が輝く美人さんで、男の人みたいな話し方だけど綺麗な声で、お手玉がとても上手な女の人。私を助けると約束し、それを果たしてくれた。
彼女は、拓磨様のような陰陽師が操る〝式神〟と聞いていた。
でも実際は。
〝美月、華葉だ。聞こえるか? この通り私は妖怪だ、黙っていたことをお前に謝りたい。だから呪なんかに負けるな、戻ってこい〟
暗闇の中で縛り付けられていた私は、そんな声を聞いた。
彼女は……華葉は、本当は妖怪だったのだ。
妖怪は怖い。人を襲うと聞く。
でも、だから何? 華葉は違う、優しかった。私を助けてくれたもの。
そんなの私、全然気にしないよ。
もしかしたら母君様もこれを知っているのかもしれない。だからあんなことを仰ったのだと思う。だとしたら誤解だと言いたいけれど、そんなこと言えるわけがない。
幼い頃から母君様は私に厳しくて、反抗することなど許してはくれなかった。遊んでもらった記憶もない。代わりに父君様が遊び相手をしてくださったけれど、それも先ほど禁じられてしまった。
苦しい、母君様に全て奪われてしまう。
父君様も。時間も。自由も。
友達も。
〝私は美月も好きだぞ。美月は私のこと好きじゃないのか?〟
誰かに好きと言ってもらえたのは初めてだった。
一緒に遊んで、笑って、恋の話ができる大好きな友達ができたと思ったのに。
「華葉……。謝りたいって言ったくせに、来てくれないじゃない。嘘つきだなぁ」
否、式神か妖怪かなんてどうでもいい。私の方こそ嘘つきだ。
だって私は〝華葉〟が好きなのだから。
「会いたいよ、華葉」
文机に突っ伏し、雨の音に耳を傾ける。
その時、確かに私はその声を聞いたのだ。
<元気でな、美月。……それから、すまなかった>
「――!」
驚いて顔を上げるが何処にもその人の姿はない。でも私はその声が彼女のものであると確信した。私を助けるいう約束を果たした彼女は、最後の約束も守ったのだ。
「うん、華葉も元気でね」
今度は私の声が届くように、掌を器のようにしてふぅっと息を吹く。
私は筆を再び手にした。勉学に励み賢い女性になれば、この屋敷から出られるかもしれない。そうすれば母君様からも解放される。そう思えば頑張れる気がした。
御簾が風に乗ってふわりと揺れる。
雨の匂いに混じり、感じるはずのない春の花の匂いを嗅いだ。
もう負けないからね、私。大好きな華葉に、いつかまた会うために――。




