第三十七話 人という生き物
<約束守るから、華葉も私のことは〝美月〟って呼んで>
無邪気な笑顔でそう言って、小指を差し出す美月の姿が浮かぶ。私に対して何の謙遜もなく、明るく優しく接してくれた彼女。
私に「好きだ」と言ってくれた彼女。
妖怪であると言わなかったのは拓磨の指示だったが、黙っていたことを私は美月に謝りたかった。でももう謝るどころか、彼女に会うことも許されなかった。理由は至極簡潔、私がその〝妖怪〟であるが故だ。
妖怪と馴れ合うことは、人間にとって不徳であるらしい。
何だそれは、私は美月に何もしていないのに。寧ろ彼女を救ったではないか。
だって〝ゆびきりげんまん〟したんだ、私も美月を助けると。
それに比べてあの者たちは何だ。自分が構ってもらえないから美月を使って呪う。苦しむ美月を差し置いて、周りの目を気にする。……私なんかより、あの者たちの方がよっぽど道理に反しているではないか。疚しいのはどっちだ。
人というだけで、妖怪というだけで、こんなにも格差が生まれる。
私は、好きで妖怪として生きているわけではない……!
頬に流れる雫は雨なのか別のものか。私にはもう何か分からない。
「なぁ拓磨、答えてくれ。私は何故妖怪なのだ……ッ」
どうしようもない問いかけをしているのは分かっている。だが、そう叫ばずにはいられなかった。私は自分が何処から来たのかも、何故ここへ来たのかも知らない。自分が妖怪である生い立ちも覚えていない。
本当に自分は妖怪なのか? ――そう疑ったところで、己が持つ妖気と操る術がそうであると証明しているではないか。何と愚かな疑問か。
「それは、私が人である所以も同じことだ。生き物が何故その生き物であるのかなど、誰も知らずに生きている」
拓磨は私の問いかけにそう答えた。それもそうだ、初めから知った上で生まれてくる者など存在しない。分かりきっていたことなのに、答えとして出されると落胆する自分がそこにいた。自分で聞いておきながら、ほとほと呆れる。
「すまない。お前に美月を預けなければ、お前が傷つくこともなかった。私が毒に対応できていれば、お前が妖術を使うこともなかった」
そう言って拓磨は軽く頭を下げた。
私は首を横に振り、拓磨のせいではないと言いたかったのだが、彼は「だが」と続けたので口をつぐんだ。
「これだけは覚えておけ、華葉。……人に期待するな。奴らは脆く弱い存在なのだ、己のためなら簡単に裏切り踏みつける」
そこから感じた僅かな憎しみの念に、拓磨が人を嫌う理由が見えた気がした。私は彼の過去をよく知らぬが、恐らくはその言葉の通り裏切られた辛い事情があるのだろう。微かに力の込められた彼の拳に、雨の雫が滴るのを見た。
しかし忘れてはならないのは、拓磨自身も人であるということ。彼には「私を敵だと認知したなら葬れ」と伝えてあるが、敵でなかったとしても己のためなら最後には私を裏切るのだろうか。
「なら拓磨も、いずれ私を捨てるか?」
単刀直入に問いかけた声が静寂の空間に響く。拓磨は目を閉じると暫く黙った。
そして再び茶味がかった黒目に囚われると、私は小さく息を飲んだ。
「いや……。私はお前を疚しい妖怪だとは思っていない。都中の人間どもがお前を妖怪と敵視したとしても、お前が今のままである限り、私は見捨てたりなどせぬ」
その時、冷え切った私の中に何か温かいモノが流れ込み、体の中心が震えた気がした。降り注ぐ雨は冷たいはずなのに頬が熱く感じる。
この気持ちは何と言い表せれば良いのだろう。思考を巡らせて考えたものの思いつかなかったが、ただ一つ分かるのは私には拓磨がやはり大切だということだ。
〝探しなさい、あなたが目覚めた意味を。
――守りなさい。私と、あなたの大切なあの人を〟
雷龍と対峙したあの時、私の中で誰かがこう言った。
私が拓磨を守るための存在ならば、妖怪として目覚めた意味は何なのか。そしてこの声は誰なのか。それを知れば何かが変わるのだろうか。
私はもっと自分のことが知りたい。
「まぁ、お前の正体には見当が付いているしな」
「……は?」
突然の拓磨の爆弾発言に「どうゆうことだ」と尋ねたかったのだが、それはバタバタと翼が羽ばたく音に遮られた。何かと思って上を見上げれば、すっかり見慣れた朱色の山鳥が目にも止まらぬ早さでこちらに飛来し舞い降りたのだ。
いつにも増して豪速だ、頭から突っ込んだらどうするのか。そんな心配を他所に、彼女はヒラリと鮮やかに人の姿に変わると、手にしていた傘を素早く広げた。
『どうして傘も差さず歩いていらっしゃるのですかっ! 風邪でも引かれたらどうするんですか!?』
……あぁ、なるほど。そうゆうことか。
相変わらずの彼女の様子に思わず気が抜けた。
「いや、返すのが面倒で借りなかったのだ」
拓磨の命令に背いてまで部屋に籠もっていたというのに、突然現れた暁に何事もなかったように拓磨は会話を交わした。確かに「様子を見る」と言われたが、こうもあっけらかんとしていると対応に困るのだが。
『もう! 早く帰りますよ!! ……華葉もほら、突っ立ってないで』
「許してくれるのか? 暁」
正直帰ってもまだ怒っているだろうとヒヤヒヤしていたのだ。暁は苦虫を噛みつぶしたような顔をして私を振り返った。居場所だけはしっかりと拓磨の隣を確保している。
『イジけてるのは私らしくないから辞めただけ。今回は拓磨様を守るためだったとして認めるけど、拓磨様の式神はあなただけじゃないこと、覚えておいて』
恐ろしく雨よりも冷たい目だった。それが暁の拓磨に対する感情には、私は遠く及ばないと教えられた気がした。何故か私はそれを悲しいと思わず、少し悔しいと思ったのだ。拓磨が困った顔で暁を小突いているのも、何だか胸がざわめく。
拓磨の話の続きが気になるが……。取りあえず今は余計な詮索は止めて、私は二人の後に続いた。
しかし一旦、ひっそりと足を止める。
来た道を振り返り、その先にいるであろう少女の姿を思い出す。
例えお前にとって私が忌むべき存在でも、私にとってお前と過ごした楽しかった一時は宝物だ。
「元気でな、美月。……それから、すまなかった」
風に乗った声が、どうか美月に届きますように。
◇
誰か……!
誰か早く母上を!
どうして誰もいないんだ、父上は何処へ行ったんだ!?
僕が守らなきゃ。父上がいないなら、僕が母上を……っ。
――――母上……!!
「は……っ!」
天井に右腕を伸ばした状態で目を覚ます。薄暗い空間に生暖かい空気を感じる。
嫌に懐かしい夢を見た。暫くあんな悪夢など見なかったのに、昨日あんな話をしたせいか。
まだ太陽は昇っていないが、丁度いつも目覚める時刻ぐらいか。ならばとゆっくり腰を上げて上着を羽織り、天蓋を潜った。
すると直ぐ目の前の床で式神娘たちが、珍しく三人仲良く川の字になって眠っていた。昨日は帰ってから「仲直りですわ!」と雫がご馳走を広げており、予期せず宴会が開かれたのだ。暁が迎えに来た時点で雫が何らかの助言をしたことは悟っていたが、まさかここまで尽力してくれるとは。
様子を見ると言ったものの、ここ最近の暁のことは私も気がかりだった。家族と言うからには互いに背中合わせであるよりも、当然円満である方が良いに決まっている。
一段落付いたことにまずは安堵し、彼女たちを起さぬよう御簾の外に出た。
今日は桜の麓まで行かずに、ここの簀子で五行収集と励もうではないか。
そう決めるや否や、その場で胡座をかいて目を閉じた。
五行相生に伴う気の収集は、実は今日が始めてではない。美月の呪討伐の前、少し時間があったため、あの空き時間に試していたのだ。
結果は終わってみての通りだ。心力の持ちが雲泥の差に違う。陰陽術の発動に使う心力が減り、結界壁と複数の術の連発を経ても、最終的に五芒結星まで難なく発動することができた。何より、あの収集で既に金の気を掌握していた経緯は大きい。
これも父上が残した〝安曇陰陽記〟のお陰だ。あの書物は今後のためにも読み込んだ方が良いだろう。
やはり父上は偉大な陰陽師だ。そう思うたびに一つの疑念に駆られる。
……ならばどうして、と。
<人に期待するな。奴らは脆く弱い存在なのだ、己のためなら簡単に裏切り踏みつける>
あれは華葉に向けた警告ではなく、日頃自らに言い聞かせている言葉だった。
父上。どうして、私と母上を見捨て姿を消したのか。
父上だけではない。皆、私たちを見捨てた。
人など信用に足りぬ存在だ。そう改めて結論づけたところで意識を集中し、鍛錬に入るのだった。




