第三十二話 呪詛陰陽術
まさか、この期に及んで安曇拓磨が出てくるとは。
聞いてないぞ……どうなっているのだ?
「まぁ良い、この男も邪魔者の一人だ。殺してしまえ」
陰陽連では二人の名が上位を独占しており、長らくその地位は不動である。
一人は嘉納蒼士――、陰陽頭・雅章様のご子息だ。そしてもう一人がこの安曇拓磨。特に拓磨は今、都で最強と謳われる陰陽師。
この男を倒し上位の椅子が一つ空けば、私にも上層へのし上がる機会が回ってくる。何故なら私はあのお方に期待されて今こうしているからだ。一位は無理でも、二位の地位くらいなら夢ではない。
そうだ、臆することはない。こちらには人質もいるではないか。
「さぁ来い。……ただお前が本気を出せば、この幼女は死ぬぞ?」
呪いの護符に心力を込めると、それは不気味と赤紫色に光りだした。
◇
美月の姿は昼下がりに術をかけた時よりも、完全に鬼そのものと化していた。背丈こそは小さいものの、とても幼女とは思えぬ形相だ。何をそんなに恨んでいるのか、憎しみに震える気を差すように感じる。
「耐エロ? コノ状況デ娘ノ体ヲ心配カ、安曇拓磨ヤ」
どいつもこいつも人の名だけは知りおって。表に出る機会は誰よりも少ないと思うのだが、一体どの口が言いふらしているのやら。
とりあえず脳裏に浮かんだ満面の笑みの師を一発殴り飛ばした。
「ようやくまともにご対面か。さっきは手荒い挨拶のみだったからな、内気な奴だと思っていた。自己紹介ぐらいしたらどうだ」
「フン、無駄口ヲ叩ケルノモ今ノウチダ!」
鋭利な刃物の如くに爪を伸ばした美月の手が、空を裂く。結界壁の外で見守る屋敷の者たちが悲鳴を上げる中、私はそれを避けながら隙を伺っていた。
だが体が小さい分、動きが俊敏で小回りが利き、基本的に大技の多い陰陽術はかなり不利だ。
「安曇式陰陽術、流水呪縛!」
そうくれば最初に試みるのはやはり、相手の動きを封じることだった。ここは結界壁の中、派手に暴れても部屋自体を破壊することはない。多少の破損は心力を集中させて修復すれば済む話だ。幸い、先ほど少し心力充填する時間もあり余裕がある。
だが分かっている、奴がそう簡単に捕まってなどくれぬことを。
さっさと儀式を始めるべきだった。
「クク……。呪詛陰陽術、泥土ノ傀儡」
奴は流水呪縛の隙間を縫うように走りながら陰陽術を発動した。床から泥が湧き上がり複数の人型を成してこちらへ襲いかかってくるではないか。……呪らしい悪趣味な術だ。
美月は心力を持っていないから本来陰陽術は使えないが、呪をかける術者が護符を通して心力を送ることで使わせる闇の術が存在する。それが呪詛陰陽術だ。儀式であれば使わせる間もなく終わらせていたのだが、文句を言っても仕方あるまい。
この傀儡、流水呪縛を受けて液体化しても一度分散し、また濃い泥として這い上がり再び人型になる曲者だ。相克・土克水(土は水に打ち勝つという思想)の関係を上手く利用している。
なるほど、相手もただの下種な陰陽師ではないようだ。
ならばその動力を奪うまで。
「安曇式陰陽術、根楼白槍……!」
木の根の槍を無数に突き出し、傀儡を貫く。貫いた根先から術の養分……すなわち動力となる心力を吸い出し泥土を枯渇させる。こちらも木克土という相克の関係。
さぁ、どうする。更に金克木で打ち勝つか?
……無論、そうはさせぬがな。
相手が一瞬怯んだ隙に、同じ術で奴の体を巻き付け拘束した。数本の根先で奴の喉元を狙い定め停止させる。自由を奪われた美月《呪》の体はそのまま前に倒れて転がった。
護符を取り出し構えながら、横に立ち奴を見下ろした。赤く充血した目が鋭くこちらを睨んでいる。
「もう疲れたであろう? その辺にしておけ」
呪詛陰陽術は通常よりも心力の消費が激しい。連日の呪詛に加え、あれだけの数の傀儡を操ればかなり消耗しているだろう。護符を目の前に差し出し〝終わりだ〟と無言の圧力をかける。
呪詛返しをするには呪本体が表に出ている間に、本人に護符を取り付けてから術をかける必要があった。この丸められた状態なら呪詛返しなど容易い。
だがこの状況で奴は口元を釣り上げ、ほくそ笑んだ。
「甘イナ」
その瞬間奴は横たわったまま大口を開けると、私の顔に目がけて黒い煙のようなものを吹きかけた。咄嗟に身を翻して奴との距離を置いたが、止まることなく吐き出されるそれは空気より重く、奇しくも結界で囲んだ空間の底に溜まっていく。
その正体にいち早く気付いたのは、外で交戦を見守っている華葉だった。
「拓磨ッ、毒だ!!」
「っく……!」
声を出すなという命に背き、華葉は叫んだ。
彼女の声に反射的に袖の裾で口元を覆うものの、先ほどの一撃で既に微量を吸い込んだらしく、足に思うように力が入らなくなっていた。まだ奥の手を持っていたか。
「呪詛陰陽術・漆黒ノ魔煙――、神経ニ効ク毒ダ。オ前ガ完全ニ動ケナクナッタ時、八ツ裂キニシテクレル」
「安曇式陰陽術、葉刀螺旋……!!」
木の葉の竜巻を作るこの術で、煙を一か所に巻き上げる作戦に出た。
だがどうする。今のところ毒煙は一か所に集まっているが、奴は毒を吐き続けており、すぐに巻き上げる限界量に達する。既に膝から下は感覚がないに等しく、微量を吸ってこの効果だ。多量に吸えば完全に動けなくなり、陰陽術も使えない。
だからと言って結界に空気穴でも開ければ、外側にいる屋敷の者たちに被害が加わる上、穴から結界を壊されかねない。人に危害が加わる方が面倒だから御免被る。
そうしている間にも奴は体を拘束していた木枝を爪で引き裂いてしまった。あの螺旋を奴ごと巻き込めばあるいは……。
いや、駄目だ。葉刀螺旋はそもそも斬撃術、もう《《美月を》》極力傷を付けたくはない。
「ホラホラ、ドウシタ。早ク大技ヲ使エヨ」
当然それは奴の狙いどおりであり、奴は喉の奥で笑い声を上げた。呪の向こうにいるのは同胞である陰陽師だが、あんな外道に転がされているとは、この上なく不愉快だ。
「コノ体ヲ気ニシテイテモ、オ前ガ死ヌダケゾ! 呪詛陰陽術、泥土ノ傀儡!」
「ッ美月、もう止めてくれ! 拓磨を殺さないでくれ……!」
華葉の悲痛な声が響く中、四方を再び傀儡に囲まれた。根楼白槍で応戦するが傀儡は次から次へと湧き、おまけに葉刀螺旋に捨て身で乱入してその旋風を妨害しており、毒煙がまた広く充満し始めていた。
これではキリがない。少しでも奴に近づかなければ呪詛返しもできぬ。まずこの厄介な毒煙を何とかせねば……。
その時、結界の外で何かが分散し、すぐ目の前に突然白い紙切れのようなものが舞った。かと思うと瞬く間にそれは人の姿を型取り〝人〟そのものに変化した。
懐かしい春の香りと、栗色の長い髪が宙を漂う。それが彼女だと気づくのに時間はかからなかった。
結界壁をすり抜けてきたのか……!?
「華葉……ッ!」
声をかけたが華葉は返事をしなかった。その目は虚ろで私を見下ろしている。
〝華葉〟の意識がない。まさか、この後に及んで妖怪の本能が覚醒したとは言うまいな? これ以上の負荷は流石に無理だ。
しかし私の不安を他所に、華葉はその目を美月《呪》の方へと向けると、無言のまま手をかざした。どうやら対象は私ではないようだ。それで彼女は式神として私を守るために行動を共にしており、その気持ちが精神を凌駕したのだと理解した。
だが、よせ。折角ここまで隠してきたのに、全て台無しではないか。
私のため? 華葉のため? 確かに前提はそうだが、もうそれだけではない。
お前は美月が好きなのだろう? 美月もお前を好いたのであろう?
分かっているのか、その正体を明かす代償を。
無情にも立ちこめる妖気に奥歯を噛みしめた。
「ちっ……! 結界壁、陰様式!!」
叫んだ瞬間に結界の内外が、黒い幕を下ろしたかのように遮断された。せめて一般人の目からは隠すべく、結界壁の外側を黒く変えたのだ。彼らでも式神は術を使う存在ではないことくらい知っている。
この手法は普段どの陰陽師たちにもあまり使われていない。黒にする必要性がないのと、単純に心力の消費がこちらの方が大きいためである。あと暗闇までにはならないが、視界が若干悪くなるのも不人気の理由。
<拓磨様、大好きです!>
<拓磨様、ずっとお仕えいたしますわ>
脳裏に屈託のない笑顔の暁と雫が浮かぶ。
すまないな、お前たち。
華葉と美月を引き合わせたのは私だ。「こんなに仲が良くなるとは思わなかった」というのはただの言い訳にすぎない。この結果は私にも責任がある。
まだ望みを捨てるつもりはないが、然るべき報いを受ける覚悟をするべきか。
薄闇に浮かんだ黄金に光る華葉の瞳を、私は複雑な思いで見上げた。




