第三十一話 お前のことが好きらしい
美月と手を繋ぎながら寝殿の方へ戻ると、拓磨は簀子(客人が座る場所)の上で、少し俯き加減に目を閉じた状態で座禅を組んでいた。
流石に私ももう分かる、これは心力を貯めるための精神統一だ。
寝殿内には拓磨以外の人の姿はなかった。静かな空間で没入しているのか、彼は微動だにしない。緩やかな風が吹くと、絹糸のような前髪が靡く隙間から顔が覗いた。
人間の言う〝見た目が良い〟とかはよく分からないが、拓磨は綺麗な顔立ちをしていると思う。
寝ているわけじゃ、ないよな? 話しかけたら迷惑だろうか。
「……拓磨、さっきはすまなかった。もうお前を疑ったりしない。だから――」
返事はない。澄ませた感覚を五行の気に絞っているのだろう。
それでもいい。これは私が言いたいだけだ。
「――まだ、お前の傍にいさせてくれ」
それだけ告げて、私は邪魔にならないように美月を連れて東対へと向かった。
いくら美月と行動を共にしていると言え、対屋の中にまで押し入るわけにはいかない。でも美月がお付きの女房に交渉すると、孫廂(廂の更に外側に作られた廂)に腰を下ろすことを許してもらえた。
そこで再び手玉の練習に励んだ美月は見る見る上達し、あっという間に四つを操ってしまったのだ。
「凄いな、私が覚えた時より早いかも知れない」
御簾が閉められているため廂の内側とは遮断されていたが、口が聞けないことになっている私は、一応声を小さくしてそう言った。
「華葉の教え方が上手いからだよ。……ねぇ、華葉?」
可愛い目を向ける問いかけに「もっと教えて」と言うのだろうと思った。
困ったな、私も四つの扱いまでしか雫に教わっていない。かと言って期待の込められた瞳を無下にはできないし、二人で投げ合いでもするか。
そして美月は何故か暫くソワソワした後、照れくさそうに口を開いた。
「もしかして華葉は、拓磨様が好きなの?」
「…………はい?」
思いもしなかった問いに間の抜けた声を出してしまった。何だそれは、手玉の話ではないのか。しかし美月は興味津々にこちらの顔を見上げている。
そんなこと聞いてどうする、気になるものか? 本当に人間は不思議だ。
「好き、というのはよく分からないが……何故そう思う」
「だって、さっきも拓磨様をじっと見てたじゃない。それに傍にいたいってことは、好きだからなのでしょう?」
美月はグイグイ私の方に寄ってくる。確かに綺麗な顔だと思って凝視はしていたが、それが好きということなのか? それなら今も美月を見つめているが。
「私は拓磨に借りがあるからな、それを返すまでは行動を共にしたいと思っている。それが美月の言う〝好き〟ということなら、そうなのではないか?」
「うーん、借りとか分からないけど、きっとそう! いいなぁ、好きな人がいて」
すっかり手玉のことはそっちのけで、美月は手すりに肘をついてその上に顎を乗せた。手玉をするよりも好きな人の話をする方が余程楽しいらしい。
「いや、だとしたら私は美月も好きだぞ。美月は私のこと好きじゃないのか?」
「私も華葉大好きだよ! でも私が言ってるのは、そうゆうのじゃなくて――」
「華葉、美月」
美月の語りに熱が入ってきた時、庭の方から声がかかった。驚いて顔を上げると、拓磨が少し呆れ気味な表情で立っており、それを見た美月が慌てて顔を半分隠した。
いや、儀式だったとは言えさっきまで拓磨にも顔を出していただろう。急にまたどうした。
「た、拓磨様……お話聞かれていたのですか?」
「さぁ、何を話していたのかまでは。それよりもう日暮れだ、じき呪が覚醒する。今夜で決着をつけるぞ」
拓磨がそう言うと、美月は返事をして散らばっていた手玉を集め、逃げるように対屋の奥へと片付けに行ってしまった。
急に一人になった私は、仕方なく孫廂から庭へと足を下ろした。
……が、かなり気まずい。精神統一している拓磨にこっそりと謝ったが、恐らく耳に入っていないだろう。なのに拓磨は何事もなかったように平然とした顔をしていて、それが逆に怖かった。
「……怒ってないのか? お前に暴言を吐いたのに」
沈黙に絶えきれず、恐る恐る問う。
「私もお前にきちんと説明していなかったしな。それに〝もうお前を疑ったりしない〟のであろう?」
「うぐっ、聞いていたのか。意地汚い奴だな」
流石、この短い期間に五感の鍛錬を重ねているだけある。あの時、拓磨との間には多少の距離があったはずだが、聴覚を鍛えた彼には僅かな音でも捉えることができてしまうようだ。
ある意味人間離れであるが、それは言うまい。
待て。ということは、美月との会話も聞こえていたのでは?
ならば、と単刀直入に聞いた。
「私はお前のことが好きらしいぞ」
興味本位、どんな反応をするか見たかった。
だが拓磨は暫くの沈黙の後、小さく溜め息を吐いた。
「そうか。だがそれは、美月の言っていた〝好き〟とは違うものだ」
それだけ口にすると、拓磨は踵を返して寝殿前の庭の方へと引き返していった。
何だ、やっぱり聞いていたのか。それなら別にそうと言えば良いのに、何が不都合なのか。私も美月も拓磨も、皆「好き」と言えば良い。
美月は喜んだのに、何が違うというんだ? お前は喜んでくれぬのか。
――〝好き〟とは、一体何なのだ。
◇
美月が戻ってくる間、私は再び白砂に五芒星を書き直していた。相手の力量は分かっていないが、今夜中に片をつけるつもりでいる。美月のためにもあまり長期戦にしたくない。
多少なりの自信があるのは、先ほどの儀式でちょっとした手がかりがあったからである。既に数刻前に調査を放っており、上手くいけば今夜の解決は充分見込めるだろう。
だからその調査役を担った暁は、今この場にいない。
仲介役の彼女を外に出すのはかなり悩んだが、この際やむを得ない。必要なことは先に大納言に伝えてもらったし、最悪美月を挟めば何とかなる。暁本人には『拓磨様を残していくなんて嫌です』とかなり渋られたが。
早期解決すれば、この屋敷に通う必要もなくなるのだ。一時の人との会話を我慢するか、日を跨いで任務を延長するか、どちらか選ぶなら迷わず前者だ。
黙々と儀式の準備をする傍ら、話し相手のいなくなってしまった華葉は階段に腰をかけて、静かに夕暮れを眺めていた。
先ほど私は二人の会話を耳にしてしまった。悪いとは思ったが、聞こえてしまったものは仕方がない。五感鍛錬も難点はつきものだ。
華葉が私を好きだと言ったようだが、あれは美月の言っていた類いのものではない。人として、家族として。どちらかの意味と捉えるべきだ。ましてや相手は妖怪、その類いであるはずがない。
そう理解しているのに、それを聞いた時、心の奥が一瞬揺れた気がした。
無意識に胸の辺りをキュッと握る。
まったく、今朝蒼士と会ってから、どうも調子が変だ。
「美月は大丈夫なのか?」
人の気を他所に華葉にそう聞かれ、私はその邪念を一旦捨てた。
冷静を装い普通に話す。
「恐らく。呪に毎晩冒され体が傷つけられても、両親に気遣って何も言わぬ娘だ。精神の強さはあるようだが、幼子に限界は近いだろう。早く取り除いてやらねば」
そう言うものの、先ほどは私の声がまだ届く程度にしか呪の影響を受けておらず、次はそう上手くいかないのは分かっていた。あと少しの苦しみを乗り越えられるかは、美月次第。ここは彼女を信じるしかない。
すると華葉は意気揚々と気合いの入った声を上げた。
「拓磨、私も必ず助けると美月と約束した。私にも何かできないか?」
「残念ながら、さっきと同じだ。〝私を疑わず〟見守ることだな」
そう言うと華葉は不服そうに頬を膨らませた。だが今回はこれでいい、華葉の妖術に頼る必要はないだろう。
彼女が妖怪と知られれば、彼女は勿論、私の陰陽師としての生命も危うくなる。無論これは大前提だ。
しかし私が懸念するのは、それだけではない。
自分が妖怪であるとはどうゆうことか、彼女はまだ理解していない。
〝私は美月も好きだぞ。美月は私のこと好きじゃないのか?〟
〝私も華葉大好きだよ!〟
嬉しそうな二人の会話。華葉に美月を任せた私だ、この関係を壊したくはない。
だが現実はそう上手くいくものではなかった。
突然、敷の奥から悲鳴と共に私を呼ぶ声が響いたのだ。
「拓磨殿ッ! 美月姫が……!」
現れた家人の姿に慌てて屋敷の中へと飛び入った。まだ陽は僅かに残っているというのに……呪め、危険を察知して早々に出てきたか。
案内されるままに廊下を走ると、次第に呻き声が聞こえ始め、辿り着いた部屋の中で美月が苦しそうに藻掻いていた。予定とはかなり異なるが、こうなったら手遅れだ。
「全員部屋から離れろッ、ここで制する!」
その叫びを聞いた他の者たちは一斉に部屋から立ち退いた。そこに自分と美月の二人になると、私はここから出られなくするために陰陽術の結界壁を発動した。
顔を上げた頃にはすっかり美月の面影はなく、不気味な顔が私を見上げる。
「耐えろ、美月」
はだけた着物の裾からは、痛々しい痣が顔を覗かせていた。