第三十話 ゆびきりげんまん
陰の気が濃くなるにつれて、美月の様子が変わってきた。
両手を前に着くと苦しそうに呼吸を繰り返し、額に角のような膨らみができてきた。心配そうに美月の名を呼んで近づこうとする華葉を静止すると、彼女は私を睨んできた。
「拓磨! 美月は子供なのだぞ!?」
「分かっている。だが奴を引きずり出さねば何も分からぬ。悪いが少しの間辛抱してもらう」
生憎、呪討伐は今すぐに何とか出来るものではない。夜になれば呪は狂ったように暴れ回り、まともな会話もできなくなるのだ。今、呪の支配が弱いうちに術者の情報を聞き出せるだけ吐かせ、術者本体を叩かなければこの娘はまた同じ呪にかかってしまう。
その為の必要な手段だ、と華葉に告げれば彼女は悔しそうに口を噤んだ。私は引き続き美月に心力を送った。
「グっ……ア……」
声色も美月のものではなくなってきた。随分〝奴〟を表に引きずり出せたようだ。私の術から逃れようともがくが、結界が張ってあり美月の体では身動きは取れない。陰陽術の五芒結星と違い簡易的な結界だが、対象が人であれば十分だ。
「苦しいか。楽になりたればお前の正体を言え」
「うゥ……誰ガお前ナどニ」
反抗的な目で見上げてくる呪に冷酷な視線を送る。
「そうか、残念だ。ならば仕方あるまいな」
そう言うと私はとある念を送りながら、呪を拘束する力を更に上げた。呻き声は雄叫び声へと変わり、苦しさのあまり奴の口元から唾液が零れる。
かと思った瞬間、私は華葉に胸ぐらを掴まれた。
「いい加減にしろッ! やり過ぎだ、術を解け!」
『華葉、止めなさい!!』
慌てて暁が仲裁に入るが、その時呪の様子が更に豹変した。口元を押さえ、頬を膨らませ何かを溜め込むと、結界を突き破り一気にそれを空中へ解き放ったのだ。
それは夥しい数の魑魅魍魎だった。揃いも揃ってこちらへ目がけて一斉に襲ってくる様に、小さく舌打ちをした。……隙を突かれたか。
華葉の腕を引き剥がすと、暁がすかさず華葉を捕えて共に背後へと下がった。
それを気配で確認しつつ前を見据え、護符へ手を伸ばす。
「安曇式陰陽術、羽衣水斬ッ!」
水を薄い膜状に広ろげ、広範囲に渡って斬撃を加えた。その一撃で魑魅魍魎は一掃したが、全意識をこちらに集中したお陰で、呪へ掛けていた術が解けてしまった。
横へ揺らいだ小さな身体に駆け寄り、倒れる直前に腹を抱きかかえて受け止めた。意識はないが呼吸は穏やかで、表情は元の美月に戻っている。心の中で安堵の溜め息を吐くと、美月からある香りが僅かに漂ったことに気がついた。
……この匂い、どこかで。
そう思った矢先、背後で弾くような破裂音に驚き振り返ると、暁が華葉の頬を平手打ちにしていた。
華葉は頬を弾かれたまま微動だにしない。
『あなた自分が何したか――』
「よせ、暁」
短く制すれば暁は直ぐに言葉を止めたが、拳を強く握りしめていた。
暁の言い分は分かっている。彼女は私が呪に絞め殺すと見せかけて口を割ろうとしていたことも、その成果が出ずともあれ以上美月に負担をかけるつもりはなかったことも、理解していただろう。
しかし我々と行動を共にするようになってまだ日の浅い華葉に、言葉もなく分かるはずもない。そもそも華葉は人ではなく妖怪だ、己の感情のままに動くのが本能である。
自分と親しくなった美月が苦しんでいるから、その身を案じた。最悪私が美月ごと奴を始末しただろうと思われても仕方がない。妖怪であればそう思う。
時が止まったような静寂の中で、腕の中にいる美月が目を覚ました。
「怒りたいのは私の方だ。……見損なったぞ、拓磨」
消えそうなほど小さく呟くと、華葉はこちらに一切目もくれず庭の方へと足早に歩いていった。
◇
信じられぬ、あんなにも平然と美月を苦しめるとは。
やはり陰陽師である拓磨にとって、敵は敵でしかないのか。相手を倒せば美月の身体などどうなっても良いということか……?
呪を探るためとは聞いていたが、あそこで止めなければ美月はどうなっていたか分からない。しかし私のせいで全てが台無しになった空気だった。何故、私が叩かれなければならぬ!
「あぁっ、もう!」
憤りを抑えきれず、中島に掛かる小さな橋の手すりを思いっきり叩きつけた。するとその衝撃で目前の水面に見えていた魚影が、川底へと姿を消した。
拓磨の屋敷にも中島はあるが、あの枯れてしまった桜のみが立つ小さな島が一つだけだ。対してこの屋敷には橋が三つかかるほど中島がいくつもあり、大きな池もある。これだけでもこの屋敷の主は金持ちの権力者ということは、私にも分かった。
これだけ立派な家柄だ、美月は可愛がられているに違いない。事実あの子には笑顔が絶えない。
そんな美月を簡単に始末しようとした……、見逃せるわけがない。
「華葉」
まさか、もともと美月を助ける気など毛頭なかったのでは?
拓磨は人間嫌いだと聞くし、人にも容赦ないのだとすれば有り得ない話ではないが――。
「華葉……、華葉!!」
「っわぁあああ!?」
物思いに耽っている途中、自分を呼ぶ声に気づき心臓が飛び出たと思うほど驚いて声を上げてしまった。勢いよく声の方を振り向けば、同じく私の声に驚いた顔でその人物は直立していた。
「美月……、休んでなくて大丈夫なのか!?」
それは気を失って拓磨が抱いていたはずの美月だった。
顔色などに問題はないように見えるが、それにしたって今の今まであんな無理を強いられていたのだ。まだ体は辛いだろうに。
「まだちょっと頭が痛いけど平気。それにね華葉、拓磨様は悪いことしてないよ」
その一言で、見ていたのか聞いていたのかは分からぬが、美月は先ほどの始終を知っているのだと理解した。だが私は美月のその言葉に少し向かっ腹が立った。
「拓磨はお前を殺そうとしたのだぞ、何を言っている」
「ううん。拓磨様はあれ以上何もするつもりなかったの。それに、ずっと私を励まして下さっていたわ」
いつ? どの場面で? そんな素振りは少しもなかったが。
呆気に取られている私に美月は続けた。
「私の中の悪い奴が出てきている時、私は頭がぼーっとしてるの。でも皆の声は聞こえてて、頭の中でずっと拓磨様は〝負けるな〟とか〝強くするがもう少しだ、頑張れ〟とか言ってくれてたの」
……あの男、涼しい顔してそんなことを。だが励ましたからと言って何だ、そんなものいくらでも言えるではないか。そう思っていると美月は腹をさすった。
「ここね、ずっと痛かったの。父君さまにも母君さまにもご心配お掛けしたくなくて、誰にも言えなかった。でも拓磨様が撫でてくれてから痛くなくて、まるで神様みたいね」
<私は気を察知して、その状態を把握することができる。生きていればこうして心力で回復することも可能だ>
<ほーう、流石だな>
数日前に庭で鍛錬に付き合っていた時、傷ついた小鳥を拓磨が治癒したことがあった。あの時にそんな会話をした覚えがある。
拓磨はあの一瞬で美月の体の状態を感知し、更に治癒したのだ。幼子の小さな体ならば、大した時間も要さないのだろう。
あの男は無駄な殺生は好まぬ。
だから私も殺されることなく、放り出されもしなかった。
そんな拓磨が無意味に美月を殺すわけがないと、何故私は分からなかったのだ。
拓磨は、ちゃんと、美月を救おうとしていたのに。
「あんの、言葉足らずの陰陽馬鹿……ッ」
違う、馬鹿は私だ。これではどちらが子供か分からぬではないか。
橋の手すりに再度力を込めて離す。そして一度だけ深呼吸をし、美月と視線を合わすためにしゃがんだ。目の前には小指を立てた右手を差し出す。
「美月、私もお前を助ける。ゆーびきーりげーんまん、だ」
美月はすぐに自分の小指を絡めると、満面の笑みを浮かべた。