第二十七話 安曇陰陽記
意味もなく足早に陰陽寮へと向かう僕。
逃げるように奴の屋敷から去ってしまった醜態に、僕自身が後で転げるほど後悔するのであろうが、今はそんなことを懸念している余裕はない。
顔が熱い。
『蒼士殿、一体どうなされた。あの式神を探るのでは……?』
人の姿では僕と併走するのがやっとのため、烏の姿で飛行する闇烏に声をかけられるが応えることはなかった。
五月蠅い、そんなこと分かっているのだ。僕だって自分の行動が理解できておらぬと言うのに。
くそ、拓磨め。あれが式神だと?
あのような美姫で、この僕を惑わせおって。
◇
心力生成の精神統一鍛錬を開始して、五感鍛錬の成果は期待以上に、それも即刻で感じることができた。
五感鍛錬前の比ではない。目を閉じれば、他の感覚がそれを補おうとするように身体が順応している。敏感になった分、僅かな気だけで心力が溢れて体中を巡っている感覚だ。まるで全身が呼吸をしているように錯覚さえする。
今消費している心力は、暁と雫の式神常駐と強化結界の二つ。先日の生成と消費同時鍛錬の時に比べれば消費量は少ないが、この状況でこれだけの心力が作れるようになっただけでも大健闘だ。
ちなみに華葉に施している式神擬態の術は、彼女に貼り付けた護符自体が式神の気を発しているので心力を使うことはない。逆に言えば剥がれた時点で効力を失う。
半刻ほど鍛錬を続ければ、五割程度の心力を回復させることができた。短時間でこれほど集められるのは期待以上だ。
こうなってくると、早く五芒結星を発動した状況下での鍛錬にもう一度挑戦してみたくなるもの。逸る気持ちを抑え、あと半刻ほどは集中していようと深呼吸をした。
しかし今日はやけに静かだ。鍛錬の成果と言えば違いはないが、小鳥のさえずりや屋敷内に流れる小さな川のせせらぎが、いつも以上に鮮明に聞こえる。
否。いつも絶えず聞こえる〝声〟がない。
そこで私はパッと目を開いた。寝殿の方に目を懲らせば、そこにいる彼女たちは日向で書物を読んだり寝転がっていたりするものの、いつもの楽しそうな笑い声はない。言わずもがな、あの空気を作ってしまったのは他でもない私だ。
鍛錬を始める前、気が動転していたとは言え彼女たちに当たり散らかしてしまったのは、主として不甲斐なき失態。
そうと分かれば、やることは一つだ。
「急々如律令、幻影創造」
少しずる賢い気もするが私にはこれしか取り柄がない。頭の中に描いた風景を、彼女たちが見下ろす庭一面に幻影として映し出した。
春に咲き誇る黄色い小さき花――布知奈(蒲公英)の絨毯と、それに群がり舞う唐蝶(揚羽蝶)。
ヒラヒラと視界を浮遊する影に最初に気づいたのは、四肢を放り出し廂で空を呆然と眺めていた暁であった。
『え……蝶?』
その声に雫と華葉も顔を上げる。本格的な夏に差し掛かろうというこの時期に、有り得ない光景が広がっているが、彼女たちがそれを不審がることはなかった。沈んでいた表情に微笑みが浮かぶと、私は幻影の布知奈畑を通り抜けて彼女たちの前に立った。
『拓磨様、これ……』
「お前たちにあんな顔をさせてしまった詫びだ。冷たくあしらってすまなかった」
頭を下げれば彼女たちは少し困惑した。
『お気になさらないでくださいませ。どなたにでもご気分が乗らない時はありますわ』
「よく分からないが、蒼士とやらに腹が立ったのであろう。拓磨の機嫌が直ったのなら、それで構わない。この景色で私ももう忘れた」
確かにそうだが……しかし、私自身も何故あのような感情になったのか分からぬ。
陰陽術に頼るという卑怯な手を使ってしまったが、取りあえず彼女たちの笑顔は取り戻せたようだ。思わず安堵の溜め息が零れた。
彼女たちが〝もう十分満足です〟と口にしたので、私は幻影を解除した。
『……あのっ、拓――』
『そうですわ、拓磨様。探していた書を見つけたのですわ』
暁が何か言いかけた気がしたが、雫が嬉しそうにある書物を差し出してきたので、先にそちらに気を取られてしまった。それは黒表紙に達筆で〝安曇陰陽記〟と記されている。間違いなく父上の手だ。
確かに私は雫に父上の残した書物を探させていたが、期待するようなものが出てくるかは半信半疑であった。何せ姿を眩ませた際、同時に書物で溢れかえっていた父上の部屋……つまり今、私が主として使っているこの寝殿内はほとんど綺麗になっていたのだ。
本人がやったのか、はたまた何者かが盗んだのかは知らぬ。残ったものは私が引き継ぐ際、寝殿の隣に位置している塗籠と呼ばれる保管部屋の一角にまとめておいた。
燃やして捨てようと思ったが、一応な。あの男が残した短歌などに興味はない。
「良く見つけたな、出来したぞ雫」
『いえ、実は……見つけたのはお母様の部屋からですわ』
母上の? 何故母上の部屋から父上の書が。
疑問を持ちながらも触りに目を通してみる。
「ほぅ……」
流石は都随一と呼ばれた陰陽師、これほどまでに細かく陰陽について記された書物はそうないであろう。自ら学ぶためでもあったのだろうが、陰陽道の歴史から安曇に伝わる家系陰陽術についてまで書き残されている。
なるほど、これは安曇にとって他の家系に流出させるわけにはいかない秘伝書。万一のためにも陰陽寮には当然のこと、自らの寝殿にも置いていなかったのだ。
「まぁ、あのクソ親父は対屋(妻子の住居)は特に結界を強化していたからな」
平然と言いのけると雫たちは笑顔を強ばらせた。私に言わせれば家族を守るため、それくらい当たり前だが。
毒を吐きながらも次々と目を通す中で、私はとある箇所で紙を捲る手を止めた。
それは陰陽術における心力についての記載だった。
<陰陽術の発動は使用術の属性五行の〝気〟を要す。更に心力を上乗せ、術の持続や威力の増強を図りけり>
ここまでは基本知識だ。余程座学を怠った者でない限りは理解しているであろう。私は更にその先を読んだ。
<心力を上乗せするも威力の増強に限界点が生じる者あり。調査を進めるにおき、心力に〝濃度〟の存在を発見す。
濃度を上げれば術の基本威力自体が向上、上乗せすれば更なる威力向上、および少量での持続が可能となり>
「……何?」
「何だ。何か分かったのか?」
突然反応を示した私に華葉が書物を覗き込んできた。
雫に教わりながら母上の書物の半分以上を読破してしまった彼女は、文字を読み上げることなどお手のものだ。
「濃度の上昇には、陰陽五行の気に常に触れ相生の思想を良く理解すること必至……? 何だ、相生とは」
『まぁ。初めての単語でしたかしら?』
教え子の疑問に雫が直ぐさま反応した。……流石は華葉の〝師〟である。
『相生とは、五行の要素それぞれが順に別の物を生み、循環していくという思想ですわ。木が燃えて火を生み、燃えた火が灰となり土を生み、土から鉱物を摂り……という具合に。ですわね? 拓磨様』
式神でありながら、雫は陰陽道を良く理解している。その博識さには時々私も舌を巻くほどだ。
五行の気に常に触れ、相生の思想を理解せよ、ということは。
「あぁ。その相生の輪廻に基づき、心力生成の鍛錬で五行の気を順に収集すれば、濃度の高い心力……つまり、より強い心力が生まれるというわけだ」
これができれば、無理に消費をしながら生成しなくとも、雷龍と互角に戦えるかも知れない。無論、同時生成ができれば良いに超したことはないが、方法の糸口が分かっていることを取り入れる方が急ぐ身としてもありがたい。
……が、父上は何故これを開示していなかったのか。私に対する当て付けならさて置き、あの男は陰陽頭であった人物だ。陰陽寮の者たちにすら開示していないのは不自然である。
何か欠点でもあるのだろうか。しかしそんな記述はない。……まぁ良い、やってみれば分かることだ。
だが、早速取りかかろうと腕を鳴らしたところで、大体厄介事はやってくるものだ。
空から、文が降ってきた。いつかの朝ように。