第二十五話 憤怒の雨
バサバサと鳥が羽ばたく音が耳に入り、僕は少し上空の辺りを見上げた。音など耳にしなくとも、近寄ってきた〝気〟でそれが闇烏であることは分かっていたが。
奴は僕の目の前まで軽やかに降り立つと、ホワンと煙を立ち上げて人間の男の姿へと変えた。
「で、収穫はどうだ」
壁に寄りかかった状態で腕を組みながら、僕は闇烏に問いかけた。
『例の結界のこともあり、あまり近くには寄れぬが……目にしたことのない女が、気を操っていたことは確かだ』
「ふん、また女か。式神かどうかは兎も角、女ばかり身近に置きおって」
赤鳥も女、世話役の式神も女。奴は常に女に囲まれている。
何と羨ま……、いかがわしい奴め。
父上の命令で早速拓磨の様子を探りに来たが、奴は〝奴自身の心力を帯びぬ者を拒否する〟という結界を屋敷に張り巡らせており、容易に近寄ることが出来なかった。父上が今朝送った式神も突き返されている。
可愛そうに、奴に睨みを利かされて、泣きながら帰って来たらしいではないか。
拓磨の人間嫌いは知っているが、心力制限をするような結界を張ったのは今回が初めてだ。
奴は何故か雷龍に狙われているようだし、それを考えれば結界を強化するのは当然だが……そこまでするだろうか。心力の消費だって半端なかろう。
加えて術を使う式神の出現だ。山犬妖怪の月光術に倒れていなければ、僕もその式神の姿を目にできただろうに。それも心力を回復する術だと? 結界の強化はその式神が関係しているのか?
露骨に「何か隠してます」と匂わす真似をする阿呆でもないことくらい承知しているが、それにしたって不自然だ。
「お前に偵察させたところで、大した進展はなさそうだな」
『……かたじけない』
申し訳なさそうに頭を垂れる闇烏の様子に、僕は鼻で溜め息を吐いた。
仕方ない、どうせ奴のことだ。闇烏の存在は気づいているだろう。
「ここは正面突破と行くか」
『えぇっ!? の、乗り込む気か? 蒼士殿』
主人の行動が予想外だったのか、闇烏は珍しく唖然とした表情を浮かべて驚いていた。偵察をする本人が乗り込むという大胆な行動だ、無理もない。が、僕であればそれも違和感なかろう。
「門の前で騒げば、拓磨も出て来ざるを得ないだろう。丁度良い、奴には言いたいことが山ほどだしな」
拓磨が討伐任務を休んでいる間、僕は奴の分まで率先して任務に尽くしたのだ。礼くらい言わせても良かろう。そして次はお前の番だと僕の任務を押しつけてやるのだ。奴なら一つ二つくらい押しつけたところで朝飯前だ、問題ない。
久しく小競り合いをしていない鬱憤を晴らせることに、意気揚々と拓磨の屋敷に足を向けた。
だが、その願望が叶うことはなかった。
遠方から身に刺すように感じたその〝気〟に僕は足を止めた。
『蒼士殿』
闇烏も小さく僕を呼ぶ。思わず舌打ちが出た。
僕とて陰陽師だ。一度感じてしまったものを、無視するわけにはいかない。
「どうせ奴も来ることだろう。先に回って始末するぞ、闇烏」
僕は足の向く方向を変え、その気を感じた方へ走り出した。
妖気を感じるままに向かった場所には、既に何人かの陰陽師が交戦していた。
相手は鞭のような蔓を振り回す、鬼のような姿をした妖怪だった。鞭に長さがあるだけに間合いに入るのは難しく、共に応戦していた検非違使たちは容易に近づけないでいた。
妖力もそこそこ持っているようだが、これだけ揃って手も足も出ぬとは。……情けない。
「蒼士殿! お怪我はもう良いのですか?」
僕の姿を目にした一人の陰陽師がそう声を上げた。この者の心力は弱め。元々並より少し多めの心力しか持っていなさそうだが、ちゃんと鍛錬しているのか?
よくそれで討伐任務をしてこれたものだな。逆に褒めてやる。
「あぁ、見ての通りだ。お前たちは下がっていろ」
仲間に向かって〝邪魔〟とは言わぬが、顔に出たのか彼らはすごすごと後ろへ下がった。全く、陰陽師としての自尊心はないのか。
まぁ良い、取りあえずはこの目の前の鬼の妖怪だ。僕は冷静に妖怪に対峙した。
『何だ、安曇拓磨じゃないのか。だが多少は腕の立つ奴のようだな』
妖怪の言葉に僕は勿論、後ろに控えていた闇烏が過敏に反応を示した。
ただし互いに芽生えた感情は真逆のものだ。
「……あ?」
『あぁ、一番言ってはいけないことを……。拙者は知らぬぞ』
小さく震え上がった闇烏は、僕の背後にドス黒い炎が上がるのを見たに違いない。後ろの軟弱者たちに〝妖怪とはこう対するものだ〟と魅せる戦いをしてやろうと思ったが、その理性は一瞬にしてどこかへ吹き飛んでしまった。
吐き気がするほど、気分が悪い。
『さぁ、楽しませてく――』
「嘉納式陰陽術、天泣針……!」
護符を掲げた瞬間、空から無数の針の雨が降り注ぎ、妖怪の体中に突き刺さった。
全身水の針だらけになった妖怪は苦痛にもがき苦しみ、その目は僕に助けを請うているように見えた。
だが残念、もう遅い。
穏やかな昼下がりの初夏の空に、氷のように冷たい僕の声が響き渡った。
「嘉納式陰陽術、樹巣刃」
枝の玉に包まれた妖怪の血飛沫と断末魔に、周りにいた陰陽師や検非違使たちも声を失っていた。一方的に、そして残酷なまでに討伐を果たした僕は、闇烏に陰陽寮に戻ると告げた。
……奴の姿がない。それも気に障る。
『蒼士殿、拓磨殿の屋敷に乗り込むのでは……?』
「五月蠅い! そんな気分ではないわ! 今、奴の名を出すな忌々しい!」
闇烏を一掃すると、僕は彼の降臨を解除してしまった。
そして誰一人として声を上げることの出来なくなったこの惨状から、そそくさと立ち去った。
◇
私が視界を閉ざす生活を突如として始めてから、二日が経過した。
始めは暁たちが狼狽えて補助をしようとするのを何度も制していた。実際、視覚がなくなった分、歩けば何かにぶつかるし、物を掴もうにも何処にあるかも分からぬ状態だ。当然、怪我が絶えなかった。
だが一刻が過ぎれば、不思議な感覚に見舞われるようになった。
まず見えずとも寝殿内の風景が脳裏に描かれる。ここに柱がある、こっちには御簾がある。上げて足を出せば廂に出る。三歩ほど歩けば簀子に出て、その先に外への階段があり、庭へ降りることが出来る。
棚の位置や座具の位置などももう大体分かる。……いたずらに華葉がいじらなければ。
次は着替えだ。目隠しの状態では、服の上下や袴に足を入れる位置も手探りだ。流石に始めは雫の助言が必要であったが、今では触れれば指先の感覚で裏表すら分かる。生地の感触をこんなに良く探ったことはない。
そして食事。まず香りで献立が分かるようになる。あまり香りの立たない白粥さえ言い当てることが出来るようになってしまった。
当然味にも敏感になる。そもそも雫の作る料理は美味と思うが、塩味・甘味・辛味・苦味など感じながら食すと、より美味く感じたのだ。敏感すぎて「今日は塩がキツくないか?」と思わず口走り時々泣かれたりもした。
なるほど。五感はかなり極めた方だと自負していたつもりになっていたことを思い知った。
そしてそれは逆に、視覚にどれだけ頼っているのかが分り、見えるということに感謝したのだ。手ぬぐいを外して目を開いた時、これまで以上に視界に入る物が輝いて見えた。
「あぁ、何だか久しいな。お前たち」
そう口にすると、彼女たちは安心したように笑った。