第二十二話 結界は誰がために
朝方。来光を感じゆっくりを目を開き、その目映さに手をかざした。
新緑から吹き抜ける風が爽やかで心地が良い。
心力を貯めるための精神統一を行うのが、私の早朝の日課だった。まだ太陽が昇り始める前、桜の亡骸の前で茣蓙を引き、ヒンヤリとした空気を感じながら目を閉じる。
日中と比べれば静寂であり、より周囲の気に集中することができる。精神統一には最適だ。
来光も拝見し、もうひと集中と深呼吸をした時だった。
空の果て、こちらに向かうある気を感じた。
「……ほぉ、こんな朝から使いとは」
視界に入った一羽の烏の姿に、私は重い腰を上げた。
◇
〝先の妖怪討伐の成果に免じ、貴殿の討伐謹慎令を陰陽連として解除する。
今一度精進の心を怠らず、都の安泰を死守すべく、討伐任務に尽力せよ〟
『……ですって。なーんか都合良く使われた気がするんですけど』
『そう不満を口にするものではありませんわ、暁。謹慎などという不本意な枷が外れた。今はとりあえず、これを良しと思うのが一番ではありませんこと?』
廂に寝転がりながら仏頂面を浮かべる暁に、雫はそう諭した。
精神統一の修行を終え、一息入れていた数刻前。例の使いの烏によって運ばれた文に書かれていたのが先の文面である。
山犬の妖怪を討伐すれば謹慎の令を解くと言った約束を、陰陽連が正式に受諾し認めたということだろう。
あの討伐に関しては紆余曲折あったが、何はどうあれ、これで気の重い祈祷任務から解放されたわけだ。出来ればもう二度と携わりたくはないが。
無論、陰陽師という立場にある以上、必ずと言い切れないのは承知している。
『拓磨様が行うはずだったご祈祷は、雅章様が直々に代行してお受けになるようですわよ』
「であろうな。私が請け負った依頼だ、下級の陰陽師が代行では、貴族たちも黙ってはおらぬだろう」
それが分かっていて当然のように断る私も私だが。
約束は約束だ。
そもそも謹慎と言ってもあれは雅章殿が、心力を使い果たした私が短期間で回復できるようにと、休息措置のためにつけられた枷であったはずだ。
まるで私が何か不祥事をやらかしたような扱いで、どちらかと言えばそちらの方が気に障る。
『それにしても拓磨様、この文をどうやって受け取ったんですか?』
上半身を起こしながら、暁がそう不思議そうに尋ねた。
彼女が疑問に思うのも無理はない。雷龍との一戦以来、私はこの屋敷を囲う結界の威力を強くしているのだ。妖怪は勿論、私の心力を帯びている者でなければ通ることは出来ない、特別な術がかけてある。
……当然、ただの〝人〟は論外だ。
よって烏のような式神は、この結界をくぐることは不可能のはずだった。
「あぁ、それなら……」
<『安曇拓磨よ、其方に陰陽連から文だ。結界を解け』>
<「断る。どうしても渡したいのであれば、そこから投げ入れろ」>
<『んなっ……! 其方、小生が誰の使いか分かっているので――』>
<「投げろ」>
「……とまぁ、丁重に出迎えたまでだ」
雫が入れた茶を口にしながらあっさり答えると、彼女たちは苦笑いをしていた。
ちなみに最後の「投げろ」には鋭い睨みの豪華特典付きだ。
烏も阿呆ではない、反抗したところで最終的に自分の人形が破られるのは目に見えていたことだろう。あっさり文を投げ入れると弾丸の速さで引き返していった。
あの烏が陰陽連の使いであるなら問題かも知れぬが、奴は雅章殿の心力で動いていた。あの男ならば私の性格も全て把握しており、こうなることも分かっていた筈だ。仮に式神破りをしても謀反にもならないだろう。
いや、寮で泣いている可能性はあるが、知ったことではない。
『でも、どうしてそこまでして結界の強化を? 心力だってその分、消耗も多いんでしょうし』
瞳に不安の色を映す暁から、私を案ずる心の内が見て取れた。確かに強力な術であるほど心力への負担は大きい。
しかしそれなりの理由は三つある。
一つ目は言わずもがな、雷龍の存在だ。
この結界如きで雷龍を止めることは不可能だが、雷龍によって妖気を強化させられた妖怪からの襲撃ならば、防ぐことはできるだろう。
雷龍が自身の妖気の半分以上を与えるならば話は別だが、奴がそこまでするとも思えない。……あくまで〝今のところ〟だ。
そして二つ目は。
「……それは私が要因であろう、拓磨」
『華葉、起きていたんですの?』
突然聞こえてきた別の声に、私たちはその主の方へと視線を向けた。
つい先日家族の一員となった華葉には、対屋の一室を与えていた。そこは主人が住む中央の寝殿を囲むように作られた、家族が生活するための建物だ。
ちなみに暁と雫にも一応用意してあるが、彼女たちは護衛の意味でもあまり私の側から離れることはない。
いかにも寝起きと言わんばかりの跳ねた髪が可笑しい華葉だが、どこか複雑な表情でこちらを見下ろしていた。
「この結界は私を雷龍から隠すため……ではないか?」
華葉は雷龍との戦いで妖術を使っている。恐らくまだ奴は彼女の姿こそ確認できていないだろうが、自分を攻撃してきた妖術に疑問を抱くはずだ。まぁ奴の性格上、今頃はまだ私に破れた屈辱で発狂しているだろうが。
しかし奴はそれに気づいた時、彼女を探すだろう。己に刃向かう妖怪を始末するために。それには奴自身ではなく手下を放つのが効率が良い。
「確かに、雷龍の手下たちが其方を見つけるのを防ぐためもある。だが懸念すべきは、奴よりも人間……とりわけ陰陽師たちだ」
華葉は白狼との戦いの後、何人かの陰陽師に心力回復術を施していた。
下級の陰陽師であれば「凄い!」の一言で済むが、噂が上層にまで広がればそうはいかない。華葉には式神の気を纏わせることで偽装しているが、通常式神が術を使うなど有り得ないのだ。上層なら不審に思うだろう。
華葉が妖怪であると知られれば、彼女は勿論、匿っている私もただでは済まない。だからこそ、この屋敷には私以外の心力を帯びる者……つまり他のどんな陰陽師や式神でも通すわけにはいかないのだ。
「あの時、術を使ったのは間違いだった……拓磨はそう言いたいのか?」
それは怒りというより、どこか悲しげな声色だった。
そう、華葉が言うように本来は術を公に使うべきではなかったのだ。
だがそれ以前に。
「いや。其方の力がなければ、私も周りの陰陽師もどうなっていたか分からぬ。危険を犯したが、華葉のお陰で助かったのも事実だ」
「しかし、私のせいで拓磨に負担をかけては意味がなかろう」
どうやら華葉は、自分の不手際で私が不利の状況に追い込まれていると気にしているらしい。こちらを真っ直ぐに見下ろす琥珀色の瞳が、キラリと光る。
その様子に私は小さく溜め息を吐いた。
「まぁ落ち着け、そんなに悶々とするな。私自身に負荷をかけているのは、雷龍を倒すためでもあるのだ」
『どうゆうことですの?』
まるで「心力の負荷は意図的である」とも思える言葉に雫が不思議そうに尋ねた。
今最大の私の課題は雷龍を討つべく更に強くなることだ。
そしてそれこそ結界を強化した理由の三つ目。
「多量の心力を消費しながら、多量の心力を作り上げる。陰陽連様も〝今一度精進の心を怠らず〟とのご命令だ、早速取りかかろうではないか」
受け取ったばかりの文の内容を、こう都合良く解釈されるとは思っていまい。
だが命令には違いないであろう? 誰も妖怪退治に今すぐ行けとも言われておらぬしな。都合良く使ってくれたお返し、とでも申そうか。
まだ腑に落ちない三人娘が顔を見合わせる中、私は揚々と中庭へと足を運ぶのであった。