第十六話 激闘の末の真実
残りの体力を振り絞って身を翻し、一の点を刻んだ場所から対角方向へ向かうようにして走った。
と言うのも、露骨に向かっては何をしているか勘の良い妖怪なら悟られるため、うろうろと蛇行を繰り返しながら行うことが適するからだ。
五行の気を込めた五つの印を刻み、点を結ぶ。
私は、我々陰陽師たちが現在使うことの出来る、最大の術の一つを使おうとしていた。
時に陰陽術で応戦もしながら、次の場所へ辿り着く。
一点目は木の気。そして二点目は――。
(二の点、黄土……ッ!)
右手を地に着き印を刻んだところで肩に強い痛みが走った。反射的に肩を押さえると、薄青の狩衣に徐々に血が滲んでいく。
どうやら奴の鋭い爪が入ったようだ。
『どうした陰陽師、疲れて動きがままなっておらぬではないか』
こちらが息が上がっているのに対し、この余裕の表情だ。
心なしか腹立たしい。
立て続けて振りかざされる反対の爪攻撃を何とか避け、痛みに耐えながら隣の四の点に向かった。
順番は影響しない、最後に五つ揃っていれば問題はない。あるとすれば、全ての気を拾えるかにかかっている。
(四の点、赤火!)
今度は右足で踏み切ると同時に印を刻む。
火の気を取り入れるのは今は容易だ。何せ辺り一面を壮大に取り囲んでくれているのだから。
反対にあと二つが厄介なのだが……。
足下の大きな影に気がつき、頭上から跳び込んでくる山犬を転がるように避けたが、今度は奴の爪が頬を掠めた。こちらを徐々に追い込んできている。
……急がねば。
三の点に向かいながら水の気を探った。水は普段より空気の中に含まれており、いつもなら容易に感じられるものだ。
しかし、ここは巨大な炎の壁の中。強すぎる火に水は侮られてしまう。
僅かに残る水の気配を感じ取り、左足で印を刻んだ。
(三の点、黒水ッ!)
『ちょこまかと動き回りおって……!』
間髪入れず、振り返り様に再度跳び込んでくる山犬に陰陽術を放った。
「安曇式陰陽術、葉刃螺旋っ!」
木の葉の渦を生み出し、敵の目を撹乱すると同時に体中に無数の傷を刻む術だ。
最後の気は普段からも探すのが難しく、ここは少しでも時間を稼ぎたい。
『くっ、小賢しい術を!』
奴が木の葉と戯れている間に、五点目で目を閉じ全神経を集中させる。
ここで視界を閉ざすのは自殺行為だが、今しくじれば全てが水の泡となるのだ。
探せ、自然の中に眠る〝金〟の気を。
心臓の音は五月蠅く、葉刃螺旋をまき散らす山犬の声が聞こえる。しかしそれは、なかなか姿を現わさない。
葉刃螺旋が破られた気配がする。視界の撹乱作用も長くは続かない。
足音が聞こえる。
焦るな、落ち着け。
――――捉えた……!
(五の点、白金……!)
目を見開いたと同時に、襲ってくる山犬をかわしながら何とか左手で印を刻んだ。
だがそのまま奴の後ろ足が腹に命中し、私の体は呆気なく弧を描きながら吹き飛ばされた。
石ころのように地面に転がる私の体を、瞬時に追いかけてきた山犬の前足が踏みつけた。
「うぐっ……!」
『もう良い、鬼ごっこは飽きた。なぶり殺してやろうと思ったが、ここまで頑張った褒美だ。其方は魂ごと葬り去ってくれる』
かすみ始めた視界に怪しく光る月が映った。息は苦しく、前足の爪が脇腹の辺りに食い込んでいく。
私は覆い被さっている山犬を睨みつけた。
あぁ、葬り去ってくれよう。
誘うまでもなくこの場所を選んだのは……、お前だ。
『妖術、月光の御柱!』
「急々如律令! 五芒結星!!」
山犬の術発動に被せるように私も陰陽術を発声した。
五芒結星。自らを守るためではなく、敵の動きを封じる最も強力な結界術。
もう勝利を確信していた奴は、突然地面に赤白く光る星の形が現れ、瞬間に全く身動きが取れなくなり慌てふためいた。
しかし焦っているのは私も同じであった。体を捕える足の力は緩んでいるのだが、爪が引っかかり上手く抜け出せない。
月の光はもう奴の頭上まで降りてきていた。このままでは奴諸共に、仲良く消滅してしまうではないか。最も、想定し得ないことでもなかったが。
こんなところで、私は……。
視界が閃光で真っ白になり半ば諦めかけた時だった。
体が強く引っ張られる感覚になり、そのまま地面に放り投げ出されたのだ。
反射的に何とか左腕で受け身を取って目を開けると、視線の先に山犬が消えゆく瞬間を見た。
『おのれ、安曇拓磨ー!!』
恨みを込めた言葉を吐き、続いて凄まじい叫び声を上げながら、奴の宣言通りその肉体は魂ごと光の中に消え去っていった。
冗談抜きに危なかった。だがどうやら間一髪、助かったらしい。
極限の緊張のせいで心臓がまだ早鐘を打っており、呼吸も些か苦しかった。
しかしあの体が引っ張られる感覚は何だったのだろうか。
考える間もなく、私はすぐ側に人影があることに気がつき顔を上げると、数日前の鵺の戦いと同じように、この場にいないはずの者が呆れた顔で立っていた。
「お前……どうしてここに」
「たくま きけん だから きた」
いつの間に言葉を話すようになったのか、片言ではあるがはっきりとそう口にした。屋敷にいるはずのあの妖怪の娘が、何故かまたここにいるのだ。
訳が分からず開いた口が塞がらなかった。
周りにはまだ火壁が轟々と燃え続けている。
この場所に来れたとしても、この壁の中に入ることは陰陽師とて困難のはずだ。だがこの娘は、一切の負傷もなく呑気な顔で突っ立っていた。
どうやって入った? と問うより早く娘が山犬が消えた方向を指さした。
釣られてそちらに目を向けると、何か小さいものがひらひらと舞い、地に落ちるのが見えた。
仕方なく痛む右肩と脇腹を押さえながら、覚束ない足取りでその場所へ向かうと、それを目にした瞬間に強い衝撃が体中に走った。
それは小さな人型の紙だった。
見覚えがある、なんて代物じゃない。私も日常当然のようにそれを用いているのだから。
式神を召喚する人札として。
瞬間、私はあの山犬の正体を悟った。全身から力が抜けていくのを感じ、その場に足から崩れ跪いた。
何故もっと早く気づかなかったのだろうか。否、気づいたところで他に方法などあっただろうか。残念ながらそんな自信もないが。
父上が従えていた式神は心優しい白い狼だ。父上が雷龍に支配されてから、当然共に消滅したものと思っていた。
父上は苦手であったが、円らな青い瞳が可愛いかったあの式神とは、まるで兄弟のように仲が良かったのだ。
あんな逆毛を立て、狂気を振り乱し人に危害するような奴ではない。
「……たくま?」
背後から問いかけてくる娘に言葉を返すことはなかった。
人札を見るまで気づけなかった私への失望感と、あのような惨いことをした〝奴〟への怒りで体は震え、感情を押し殺すように歯を食いしばることしかできないのだ。
怒りの収まりがつかずに無意識に拳を振り上げた。しかしそれを地面に叩きつけられることはなかった。
代わりに上半身を温かいものが覆い、懐かしい春の香りに包まれていた。
すると不思議と体中に込められた力が抜けていき、振り上げた拳は力なく垂れ下がってしまった。激しい鼓動も呼吸も落ち着きを見せ、目を閉じると穏やかな優しい〝気〟に深い安堵すら感じる。
何故だろう、私はこの〝気〟を以前から知っている気がする。
「いまは ねろ」
片言の声を耳にしながら、限界に達した体力と精神の双方の疲労感もあり、私は娘の腕の中で意識を失った。
式神は主に仕えることを自ら望び、この世に留まった精霊だ。
その式神すら闇に落とし利用するとは。
雷龍よ、私はお前を絶対に許しはしない。