第十四話 月明かりの刺客
屋敷に近づく人の気配を感じた私は、念のため既に寝息を立てていた妖怪の娘の背にそっと護符を貼り付けた。
これには式神の気を帯びさせており、気を感じる者に妖怪と悟られぬよう偽装を施したのだ。
程なくして予想通り、血相を変えた男がこの屋敷へ跳び込んできた。深夜の訪問者……否、招かれざる客と言うべきか。
何故こんな刻に人の屋敷へ訪れたのか、理由は聞かずとも分かっていた。
日付が変わった頃より、都から身に刺さるような強い妖気を感じていた上、この男が陰陽師というのもまた然りだ。
「安曇拓磨殿! お願いです、力をお貸しくだされ!」
彼自身もかなり負傷しており息も切れ切れで、おまけにこの者から感じる心力は僅か。恐らくここへ来る直前まで死力を尽くして戦ってきたのであろう。
この男が余程の出来損ないでない限り、今回の妖怪は相当の強さだというのは直ぐに分かった。
しかし慌てて雫が介抱する様子を、私は白湯を口にしながら冷めた表情で見つめていた。
力を貸すも何も、私は陰陽頭直々に討伐を禁じられているのだ。助けを求められたからと言って、安易に出陣する訳にはいかない。
もうこれ以上、祈祷任務を押しつけられるのは御免だ。
「どんな妖怪かは知らぬが、私の境遇をご存じであろう。私に言っても無駄だ、他の陰陽師を当たれ」
「やはり話が早い……勿論、其方が討伐を禁じられているのは承知している。しかし、我々の力ではもはや太刀打ち出来ぬ故、其方の力が必要なのです! こうしている間にも奴は……」
男は今も続く修羅場を想像したのか、小さく身震いをさせた。
彼からは微量であるが血のにおいも感じており、恐らく今回の戦いは死者も出ている。
私とて凶暴な妖怪を野放しにするほど冷酷ではないが、討伐禁止の枷が体に重くのし掛かる。駄目なものは駄目だと自分に言い聞かせるように、私はこの男に背を向けた。
「申し訳ないが応じられぬ。時間もないであろう、早く他を当たれ」
そう言われ彼は酷く落胆したが、陰陽頭の命には背けない私の身の上も理解し、渋々屋敷を出て行こうとした。
暁も雫も、本当に良いのかと私と男を交互に見て落ち着かない様子だ。
無意識に握った拳に力が入る。
その時、男とは別の気配が寝殿の中に突然現れ、私は再び男を振り返った。
『拓磨殿、雅章様からのご伝言ですぞ』
それは前にもこの屋敷を訪れ、私に陰陽寮へ出仕するよう迫ったあの老人式神の姿だった。
奴は雅章殿に仕える式神だ。その奴が私の元へ現れたということは――。
『蒼士様が負傷した。状態は酷く、早期の回復は見込めないとのこと。直ぐに妖怪討伐に向かわれよ。無事倒せば、残りの祈祷任務の命は解除するとのご命令だ』
……黙って聞いてみれば何と勝手な。自分の息子の落とし前を私に付けろと言うのか。
妙に腹立たしい気持ちになり舌打ちをしたが、幸か不幸か枷はなくなったというわけだ。複雑な気分で小さな溜め息を吐き、私は袖を翻した。
命令だと? 全て其方の都合ではないか、雅章殿。
「暁、援護を頼む。雫はその娘から目を離すな。そしてお前は直ぐに妖怪の元へ案内しろ」
「え、あ、はい。……拓磨殿、いつの間に式神を増やしておられたのですか?」
妖怪の娘を横目に、男はそう私に問いかけた。娘は寝ぼけているのか、近くへ寄った雫に縋るように抱きついていた。
護符の効果が出ている。妖怪とは気づかれていないようだと、内心安堵した。
だが今は無駄話をしている場合ではないと、男の背を軽く叩き私は現場まで急ぐよう促すのだった。
暗がりの都の中を暁と共に駆けながら、私は身に受ける妖気が次第に強くなるのを感じていた。それは当然暁も同じで、彼女も『近い』と小さく口にした。
案内で前を走る男が指さした先を見ると、白い巨体が暴れ狂う姿を目にした。近づくにつれ、その正体が鮮明になってくる。
人の倍はある体、鋭い牙と爪、青白く光る目。傷つけた人の返り血で、逆立てた毛並みは所々赤く染まっていた。
「あれは……」
それは通常の三倍はあろう大きな山犬の妖怪であった。
近づく者はあっけなく前足で叩き倒され、槍で刺さしてもその程度では効果はないのか、柄を口でへし折られて人ごと遠くへ突き飛ばされていた。
辺りには先に警護に当たっていた検非違使たちの亡骸が散らばっており、目を覆いたくなるような惨状だ。
禁止令など出ていなければ、この妖気を感じた瞬間に私もここへ来ていたはずであろう。
悔やんだところで仕方がない。今はこれ以上被害が出ぬよう努めるのみだ。
「お前、まだ術は使えるか?」
「多少であらばお役に立てるかと」
ドンと胸を叩く男だが、その様子に私は「いや」と続けた。
ほとんど心力の残っていないこの陰陽師に戦いを強いれば、逆に足手まといだ。
「こちらには手出し無用だ。お前は周囲の者を守るに徹しろ」
私の言葉に男は何か言いたげだったが、私はまた人間に突進する山犬の姿が目に入ると、咄嗟に護符を手にした。
この距離ならば間に合うはずだ。
「急々如律令、結界壁!」
「駄目です! そいつに結界壁は通じません……!」
発声と同時に男に口を挟まれたが、取りあえず結界壁は無事に山犬の足下にいる者たちを取り囲んだ。
しかし結界の内部にいる者は恐怖に身を縮めて、天に祈るように跪いた。
そして男の言葉の意味を問うより早く、地を揺らすほどの低い声が響き渡った。
『妖術、月光の御柱……!』
瞬間。
月明かりのような朧な光の柱が天から伸び、結界壁で守った者の上に降り注いだ。
かと思うと、雄叫びと共にその姿は薄まり、まるで蒸発したかのように煙と共に跡形もなく消え去ったのだ。結界壁など物ともしていない。
心臓が大きく脈を打った。
何と恐ろしい妖術だ、奴は月の気を妖気として得ている。
奇しくも今宵は満月だ。……否、それともこれも計算の内か。
『また陰陽師が来たか。どれ、其方はどう楽しませてくれるか』
ぺろりと舌を出し楽しそうに奴はこちらを見た。
間合いを取って奴と対峙する。近づいてみて改めて分かる奴の妖力の大きさは、雷龍までは行かずとも先日の鵺を遙かに上回っていた。
これでは並の陰陽師では歯が立たぬであろう、蒼士すら深手を負ったのだ。
思わず生唾を飲みながら私は辺りを見渡した。夜は妖怪に有利だが、こちらにも昼間には使えぬ手が使える。
無事に目的の物を見つけると、私はいつの間にか人の背後に隠れている先ほどの陰陽師に再度指示を出した。
「先ほど申した通り、お前は結界で守りに徹しろ」
あの妖術を見ても尚、変わらぬその命令に男は目を丸くした。
それを気にすることなく、今度は暁に目配せで男と間合いの外側を見やった。彼女は心配そうな表情をするも小さく頷く。
勝てる自信があるわけでもないが、一か八かやるしかない。
意を決して私は山犬との間合いを詰めるように駆けだした。
「結界を張れ! 早くッ!」
『馬鹿め、無駄だと言っておろう!』
暁に私の進行方向とは逆に引っ張られた男は、言われるまま訳も分からず結界壁を巡らせた。
それを確認すると、山犬がほくそ笑みながら先ほどの妖術を発動する寸前、私は護符を掲げた。
夜は、明かりの為に町中に火が灯る。
……火の〝気〟を感じる。
「安曇式陰陽術、業火幽壁……!」
発声の直後、私と山犬を取り囲むように炎が昇り、円形の壁を作り上げた。中からは外の様子は見えず、これではあの一点集中の妖術で結界壁ごと男を消し殺すのは不可能であろう。
結界を急いで張るよう指示したのは、この炎から身を守るためでもあった。
轟々と音を立てて高く燃え上がる炎を見渡し、山犬は鼻息を一つ吐いた。
さぁ、本番はここからだ……。