第十三話 闇夜に映える春の花
ここ数日での拓磨様のご心労がとても心配ですわ。
「いろは」の表を前にしかめ面をする妖怪さんを見つめながら、私は小さな溜め息を吐きました。この妖怪さんのこともですけれど、今は妖怪討伐の任務を外され祈祷任務に励む拓磨様を気にせずはいられませんの。
只でさえお母様の形見の桜を失い心に深い傷を受けておられるのに、苦手な〝人〟を相手にお仕事なさっているのですから、気疲れしても至極当然のこと。私も暁も庭の桜を見上げる拓磨様の、凜々しい横顔をこの廂から眺めるのがとても好きでしたのに……今はその姿も悲しそうなのです。
拓磨様は都でも色男と名高いのですわ、知っていらして? 絹のような黒髪に、何もかも見透かされるような切れ長の茶味がかった黒目。形良いお口から発せられる、心地よい中低音の声色。お人嫌いでなければ間違いなく今頃、何人もの姫君様に囲まれていたことでしょう。
お母様もかなりの容姿端麗と伺っておりますので、その血をしっかり受け継いでいるのでしょうね。私が式神として召喚される前にお亡くなりになっていたので、お会いしたことはないのですが。
口数は少なく、あまり表情も豊かではありませんが、それでも花や自然を心から愛する拓磨様が私も暁も大好きなのです。式神の主としてでなく、一人の殿方としてお慕いしているのですわ。
その大切な方の元気がないのですから、ここは式神の私たちが何とかしなくては。
「いー、おー、あー、いー……」
『あら、お上手ですわね。まだ舌足らずですけど』
この妖怪を保護するのも拓磨様のお優しさ。危害もないのに成敗する必要はないというお考えなのですが、陰陽師として妖怪と対する立場に悩んでいるご様子。そんな拓磨様にこの子の名前を考えて欲しいだなんて、私も無責任なことを頼んだものですわ。
何か少しでも気が紛れて、心が休める時間を与えられたら良いのですが……私の拙い頭では、なかなか名案など浮かびませんの。
『困りましたわね……』
再び細い息が口から無意識に出た時、目の前を小さな物体がひらひらと舞い降りたのです。それを見た妖怪さんが、「これは何?」と言わんばかりに指で突いては不思議そうに首を傾げており、何とも愛らしことですわ。
……あ、そうですわ。やっといいこと思いつきましてよ。
『妖怪さん? ちょっと手伝ってくれますこと?』
「むぅ?」
今度は私の顔を眺めては首を傾げる妖怪さんに、私は心を躍らせながら微笑み返すのです。
さぁ! 拓磨様が帰ってくる前に、一仕事ですわよ、雫!
気がつくと日は西に傾き始めていた。予定ではもう少し早く終わるはずであったのだが、祭祀が終わったかと思うと、あれもこれもと占いを押しつけられこんな時間になってしまった。当然後でたっぷりと謝礼はいただくが、そこでも人の醜い言い争いを繰り広げられて気分は最悪だった。
大体、親族一同集まれば、それだけ違った占いの結果が出るのも当然のこと。誰に合わせるだとか誰が損をするだとか、そんなもの私には関係のない話なのだが、面白くない結果が出ると占い自体なかったことにされる。無論、占いの結果に偽りはないが、信じる・信じないは奴らの勝手だ。とは言え露骨に信用されないのも、気持ちの良いものではない。
『あの人たち酷いですね。拓磨様の占いが当たらない訳ないですのに』
帰り道、私の代わりに憤怒する暁の言葉がせめてもの救いだった。人間よりも式神の彼女たちの方が、よっぽどまともだ。
「怒っても仕方あるまい。後でどうなろうが、私の知ったことではないしな」
『そうですけど……もう、あの人たち皆、占いを無視して地獄に落ちればいいんです!』
いや、それはあまりにも……しかし何だかすっきりした気分になるのは気のせいか。
私の疲労を気遣ってか、いつもは陰陽寮へ任務報告に向かう暁も、同じ方向へ向かって歩いていた。確かに特別急ぐ報告もないわけだが、こうして二人共に帰路に就くのも久しぶりで悪くない。
それに日が暮れる刻は悲観的になるものだが、暁の爛漫とした表情がそれを和らげてくれている。今日も一日人を相手に疲弊しているが、いつもより夕日に向かう足取りが軽い気がする。
そんな彼女たちを持続できるかは私の力にかかっている。この他愛ない日常を終わらせないためにも、私は陰陽師として精進し続けていかなければならない。こんなところで終わるわけにはいかないのだと改めて実感する。
祈祷任務終了まであと二日……これは暁の失態で伸びた分だが、それを攻めても仕方のないこと。歯を食いしばってでも乗り越えるしかないのだ。それまで蒼士たちの体力が持つかは不明だが、決めたのは他でもない陰陽頭なのだから、討伐班が壊滅しようが私が気にする必要はない。
この身に感じる妖気が、毎日途切れることなく続いているとしても。
屋敷に帰宅した私と暁だが、寝殿内がやけに静かなことにすぐに気がついた。いつも廂のど真ん中で寝息を立てているあの妖怪の姿さえない。
まさか妖怪にやられたのか? しかし寝殿内が荒らされた形跡もない。胸騒ぎがして表へ向かおうと踵を返した時、頭上から白いものがはらりと落ちていくのが見えた。同時に鼻を掠める春の香り。
すると今度は大量の白いものがハラハラと目の前を舞い散っていくのを目にした。日の落ちた漆黒の空に、それは美しく良く映えた。よく見なくとも分かる、これは桜の花びらだ。
『お帰りなさいませ! 拓磨様』
花びらの雨を降らす正体は、雫と妖怪の娘であった。何処からか集めてきた笊の中の大量の花びらを廂の外で散らしている。かなり人工的な様に笑いが込み上げてくるのだが、それでも疲弊した心を癒やすには十分の光景だった。
思えば庭の桜を失い、今年は花見らしいことは何一つしていなかった。毎年恒例に小さな宴を開くのを、暁も雫も楽しみにしていたに違いない。花びらを散らす雫も、それを追いかける暁もとても楽しそうであった。
ここで多少心力を使っても、この大切な家族の為ならば……。
「急々如律令・幻影創造」
そう唱えると、廂のすぐ目の前にそこにはないはずの桜の木が姿を現した。庭にあった桜と瓜二つのそれは、私の頭の中にある記憶を映し出した幻だ。満開の花を咲かせ、闇の中に薄紅色が光って見えるそれに、暁も雫も目を輝かせて歓声を上げた。
『うわぁ! 拓磨様、ありがとうござます!』
『綺麗……やっぱり桜は、この姿でありませんと物足りませんわね』
「いや、そうゆうつもりではなかったのだが……」
雫の言葉に、折角の彼女の行為を台無しにしてしまったと慌てたが、彼女は満面の笑顔で『怒っているわけではありませんわ』とお礼の言葉を口にした。
あの妖怪も木の元まで駆け寄って、幻の大樹を呆然と見上げていた。花びらを拾う際に桜の木は目にしているであろうに、やはりこの桜は特別な何かを放っているのだろうか。それにしても雫たちが集めた花びらが舞い上がる効果もあり、とても幻とは思えない出来だ。この幻影を維持するのも心力を使うが、もう少しこのままにしておきたい。
艶やかで幻想的な夜は、静かに更けていく筈だった。
突然の訪問者がこの屋敷に駆け込んで来るまでは。