第十話 心力の駆け引き
「急々如律令、 結果壁!」
呪文発声の後、二条大臣の屋敷を重厚な結界が覆った。
〝結界壁〟は心力さえあれば誰でも使える、陰陽師共通の術だ。通常の結界よりも頑丈で多少の攻撃では破られることはない。ただしあくまで〝多少の〟だ。
鵺は知力は低いものの妖力が高く、たったの一撃が大きな負傷となり得る。果たしでどの程度持ち堪えるかは定かではない。まずそれ以前に結界を持続するには当然心力を消耗し続けることになり、先にそれが尽きる可能性の方が高いだろう。
今心力を切らせば、助けを呼ぶ暁も、屋敷であの妖怪の面倒を見る雫も再び消え去ってしまう。それだけは避けなければならぬ。
豪快に暴れてやりたい気持ちを抑え、ここは今ある心力を守りに徹して使用する他あるまい。
『ヒョー、ヒョー……!』
強面な見た目に比べてひ弱そうなこの鳴き声が鵺のものだ。しかしその不気味な高音は超音波を帯びており、耳にすると鼓膜や脳内を突き刺すような痛みが襲う。
結界壁を挟んでいる故、直接耳にしない分打撃は小さい。だがそれでも屋敷の中の何人かが、苦しそうな表情でうずくまっていた。
更に鵺は鳴き声を上げながら、容赦なく体当たりで結界を破ろうとしていた。超音波で結界壁も共鳴して震えており、二段攻撃に耐えゆるべく自然と結界へ込める心力を増大させた。
「くっ……!急げよ、暁」
体当たりでは破れぬと悟ったのか、鵺は次に鋭い爪を持った虎の前足で叩き壊そうとしていた。だからと言ってこれ以上心力を上げる訳にもいかぬ。また破られると懸念した時、ついに暁が私を呼ぶ声がしたのだ。
待ちわびたその声に勢いよく顔を上げるが、彼女が連れてきた人物を見て仰天した。それは人物に驚いたと言うよりも、その成りが意外であったからである。
「嘉納式陰陽術、水砲丸!」
奴は複数の水の塊の弾丸を放つ術を発動させ、鵺に打撃を与えた。その一発が後頭部へ直撃すると、鵺は呻き声を上げて結界壁にぶつかるように倒れた。どうやら脳震盪を起こしたらしく、なかなか立ち上がれずにいる。
一先ずの一撃に、術を使った主は得意げに鼻を鳴らした。
「よー、拓磨。お前、心力を使い果たしたらしいな……。結界張るだけで精一杯とは情けない奴め」
「蒼士、やはりお前が来たか。しかし……其方も大丈夫か?」
妖気を察知し辿ってきた陰陽師がいるならば、それは蒼士である可能性が高いだろうとは読んでいた。しかし奴の口は相変わらず皮肉そのものだが、その表情はかなり疲労しているように見える。
私は雅章殿の「雷龍襲撃から妖怪の妖力が上がった」という話を思い出した。ここ数日、数を増やし昼夜問わず襲ってくるようになった妖怪が、更に強さも増しているのだ。
想定外の事態に正規の討伐班以外も討伐任務に当たっているようだが、不慣れな連中の力など、大して当てにならないのは目に見えている。とあれば、正規討伐班に膨大な負荷がかかるのは必至。
そして私が不在の今、その筆頭に立つのが蒼士だ。
奴の性格上、率先して任務に当たっていることだろう。疲労が溜まるのも無理はない。
「安心しろ……僕が討伐班にいる限り、お前など居ぬとも事足りておるわ」
口先だけは一丁前だがそこにいつもの覇気はなく、蒼士から感じる奴の心力も十分と言えるものではない。いつもなら頭上で浮遊している奴の式神の烏も今日は不在だ。それほど心力の消耗を懸念しているらしい。
しかし奴も陰陽師としては手練れの人間、ここでそう簡単には引き下がるまい。
「ここで鵺とは良い機会じゃないか。お前の目の前で打ち破って、僕の方が優秀であることを見せつけてやろうぞ……!」
ようやく起き上がることのできた鵺が、蒼士に標的を定め体の向きを変えた。
そして蒼士は自分を奮い立たせるように雄叫び声を上げると、前傾姿勢で護符を構えた。
「嘉納式陰陽術、砂爆塵!」
蒼士は地面から砂埃を竜巻のように巻き上げ、鵺を撹乱させる作戦に出た。砂嵐に鵺は思うように身動きが取れなくなったが、鳴き声で超音波を発声させてはそれを分散して隙を作り、蛇の尾を縦横無尽に振り回して応戦した。
だが蒼士は蛇の頭が飛びかかってくる前に、奴も砂爆塵を上手く操り、目を眩ませて何とか避けている。
しかしこちらから判断できるのはそれくらいだった。砂嵐の豪風の内部で繰り広げられている戦いに、隙間から僅かに見える状況しか掴めないのだ。
加えて結界壁も砂爆塵の巻き添えを食らっており、当然鵺の鳴き声の影響も相まって気を抜く余裕がない。いい加減何か手を打たねば、どちらも無駄に力尽きるだけだ。
更に人を呼ぶか? ……駄目だ、並の陰陽師が来たところで足手まといだ。
後ろの家人に戦わすか? ……無駄だ、完全に恐怖で心が折れている。
手立てが見つからず、思わず舌打ちをした。するとそんな私に空から再び暁の声がかかった。
『拓磨様、あれ……!』
別の陰陽師が妖気を察して現れたのだろうか? と暁の視線の先を追うが、そこにあったのは予想外の姿だった。
砂爆塵が僅かに届かぬ間合いの外側。冷静な顔つきで佇んでいたのは、屋敷に雫と共に置いてきたはずの妖怪の娘であった。暁は彼女の僅かな妖気を察知して知らせたのだ。
私は娘のあまりの無表情さに、最悪な想像をして背中が凍り付いた。
(妖怪として目覚めたか? ならば雫は……。式神が破られれば、式神返しとして私にも影響は出るはずだが)
人の不安を知ってか知らずか、妖怪の娘は間合いの外から私に向かって手をかざしたのだ。やはり妖怪は妖怪であったか……この状況で妖術を発動されれば一溜まりもない。
もはや心力が尽きることを覚悟で戦う他ないと、奥歯を噛みしめた。
ところが事態は私の想定を大きく覆した。
手をかざした娘は一向に攻撃に転ずる気配がなく、身動きを取らない。不思議に思っていた時、何故か急に自分に力が沸いてくる感触がしたのだ。
何だ……?
良く見れば娘は僅かに淡い紅色の光を醸し出しており、同じように屋敷の庭の木々まで発光していた。共鳴しているのか? 力……まさか。
「そうか、これは〝気〟だ」
娘を通して、木々の気が私に結集してきているのだ。自らの意思もなく気を集めるなど有り得ない。だが現に、そんな思考を働かせている間にも、集まった気で身体の内側から心力が勝手にみなぎって来ている。
未だ正体の分からぬあの娘を警戒したいところだが、一刻を争う戦渦、私とてこの機会を逃すはずがない。
今ならば、陰陽術が使える。
「安曇式陰陽術、根楼白槍……!」
集まった気全力を持って発動した渾身の一撃だった。地下の太い根が鵺の足下から無数に溢れ、奴を貫くとそのまま高らかに空へ向かってぐんぐん伸びた。
砂爆塵の攻撃範囲をも超えたそれは当然蒼士の目にも映り、突然起こった出来事に混乱が隠せない奴は、空を見上げて呆然としていた。
動きは封じた、あとは片を付けるのみ。――鵺、其方には悪いが。
「安曇式陰陽術、葉受千光!」
瞬間、鵺を貫いていた木根から葉が芽吹き、そこへ陽の光が集中した。本来夜型の妖怪である鵺は日光に照らされ、見る見るうちに焼け爛れると、あの鳴き声を残響に根ごと消滅した。
あれは目にしても気分の良い様ではない。屋敷の人間が全て部屋の内部に隠れていて幸いした。
やがて砂爆塵の名残の煙も収まり、苦々しい表情をする蒼士と目が合った。
あぁ、これは何処かで見た光景だ。
「悪いな、蒼士。横取りしてしまって」
いつかの仕返しとばかりに小さく笑うと、蒼士は砂まみれの顔で悔しそうに舌打ちをした。