第九話 謎の妖怪
この妖怪の娘は口を聞かぬようだった。
散々飯を食い散らかした後、特に暴れる様子もなく、ただ真っ直ぐとこちらを見て正座しているのみだ。質問をしても返事はなく、始めは何か黙秘しているのかと思ったが、どうやら言葉を知らぬのだと理解した。
確かに〝外見が人なのだから言葉も当然分かる〟と思うのは、こちらの一方的な決めつけに過ぎない。そもそも人型の妖怪自体が珍しいのだが……大体、握り飯を貪り食うのにも驚いたものだ。
それにしても先ほどから気になるのが、この妖怪の〝気〟だ。
『何だかこの子、妖気強くなりましたね』
暁の言葉に私も「あぁ」と短い返事をした。妖気に敏感な暁なら、私以上に強くそれを感じていたのだろう。
空腹が満たされたお陰かは知らぬが、初めに会った時よりもこの妖怪は妖気の強さを増していた。と言っても雷龍のように圧迫するものではなく、包み込むような優しさの中に、凜とした気高さを感じる妖気だった。これが妖気かと思うほどの心地よさに、何処か懐かしさすら感じる。
あまりの妖怪らしくなさに〝妖怪に憑かれた人間ではないのか〟と疑うが、憑かれた人間は目が不気味に赤く染まるはずである。ところがこの娘は、透き通った琥珀色に金を散りばめた虹彩と、猫のような縦長の瞳孔の目だった。
吸い込まれそうなほど美しいものだが、それは彼女が正真正銘妖怪であると物語っていた。
妖怪であるのは間違いない。だが、今のところ我々に危害を加える様子もない。
あくまで〝今のところ〟だ。
『どうされます? ずっと屋敷に置いておくのも……一応、妖怪ですし』
「分かっている。しかし外へ放り出せば途端に他の陰陽師に討伐されるだろう。妖怪であろうと、害もないのに無駄な殺生をするのは、私は好まぬ」
陰陽師が妖怪を助けるなど聞いたこともないが、前例がないだけで実際には有り得るのかも知れぬ。思えばこれまでの討伐は奴らを有害と決めつけて、こちらが一方的に仕掛けていることもあった。同じ生物であるならば、あるいは和解も出来たのかも分からぬ。
……否、これまでにこんな穏やかな妖気を感じたこともない。それに悩んだところで、今更どうにも出来ない。討伐任務がなくなれば苦しむのは他でもない私だ。
ひとまずこの案件はお預けだ。今はそれより明日のことを思うと、気が重くて仕方ない。
「雫、私は明朝から祈祷の役目で屋敷を空ける。この妖怪の面倒はお前に任せる」
『承知いたしましたわ。でも拓磨様……ご祈祷の任務など、本当にお受けになりますの?』
普段討伐任務しか受けていない主に、疑いを持っている訳ではないものの、心配の面持ちで見上げる雫。当然私も陰陽師であるが故、祭事や占術なども心得ている。
ただ問題はそこではなく、相手が〝人〟であるということ。正直腹の底から嫌気が込み上げるのだが、陰陽頭に「命令だ」と言われた以上背く訳にもいかない。
私は念のためと護符を数枚雫に手渡しながら、小さく溜め息を吐いた。
「仕方あるまい。一貴族の屋敷で上げるのみと聞くし、大した面倒ごとにはならぬであろう。仲介役に暁を仕えさせるしな」
〝あくまで自分は人と会話をしない〟という主の意思に、暁と雫はこっそり目を合わせ苦笑いをした。その様子を妖怪の娘が、琥珀の瞳を瞬かせながら不思議そうに眺めている。
その後暁と雫に妖怪を見張らせ、私は束の間の床に就いた。
一族とそれに仕える者たちがいるのみで、数刻耐えれば良いのだと、この時はそう思っていた。
明朝。
依頼主と知らされていた二条に住むある大臣の屋敷に向かい、私と暁は絶句した。
宴でも催しているか? と思えるほどの人だかりだ。大臣の屋敷を囲い、近所の庶民や通りの向こうに住む貴族まで群がっていた。その様子に思わず背筋が凍り付く。
……おい、聞いていた話と全然違うのだが陰陽頭よ。怒りのあまり、頭の中で雅章殿を流水呪縛で絞め上げた。
「これはこれは拓磨殿、よくいらして下さった!」
この屋敷の家人らしき人物が、手もみをしながら外で呆然と立ち尽くす私を迎えに来た。
暁が代わりに挨拶し、取りあえず人混みをかき分けて屋敷の中へと案内される。しかし庭の中までも、祈祷を上げる祭場を囲むように人だかりが出来ていた。
「いやー、拓磨殿のご祈祷が我が屋敷に決まり、大臣も大喜びですぞ! 優秀と名高い陰陽師の貴殿のご祈祷とあらば是非受けたいと、陰陽寮には希望が殺到したと聞くではないか」
流石ですな! と扇を仰ぎながら、褒めているのかお世辞なのか分からぬが、家人は高らかに笑い声を上げた。既に帰宅したいばかりの私は当然綺麗に聞き流していたが。
要するに普段祈祷など上げないのが裏目となり、争奪戦と化した切符を勝ち取ったこの屋敷に、せめてこの目にだけでもと集まったのがこの野次馬共らしい。
当然だが祈祷はこの屋敷のみではない。その切符を手にした者は他にも存在し、祈祷任務は短くともあと二日も続く予定だ。
もしや毎回この状況なのか? 悍ましくて白目を剥きそうだった。
そんな私の様子など知る由もなく、祈祷準備は着々と進み気づくと私は祭壇の前にしっかりと腰を座らせていた。ここまで来るともう破れかぶれだ。周りの目を振り払うようにして、私は目の前の祭壇に集中した。
我々が行う祈祷は主に「祭祀」を示し、神を祭る儀式を行うものだ。無病息災や豊作を願ったり、呪いを跳ね返すなどの目的でこの祭祀は行われる。全く、都の人間どもは何をするにも祈祷だの占いだのに頼るのだから面倒だ。
神を祭り、祭文を読み上げ、粛々と儀式は進んでいった。普段この任務を受けない私にとってはかなり久しいものであったが、それを感じさせない我ながら上出来の儀式であった。
『安曇拓磨様のご祈祷はこれにて終了となります。こちらは拓磨様の霊符でございます、お納めください』
「うむ。ここのところ家内が病に伏せがちでな、祭祀をせねばと思うておったところに、今回の話を耳にしたのだ。此度は実に幸運であった」
嬉々と話す大臣と愛想笑いをする暁の会話を背に、私は帰りの支度をしていた。出来れば一刻も早くここから立ち去りたいもの。どの道、祭祀料も寮を通して収入を得るのみ。長居は無用だ。
「もう帰るのか、拓磨殿。宴会を用意してあるぞ、ゆるりとして参ったらどうだ」
大臣のその言葉にやむを得ず「私は下戸だ」と伝えようとした時だった。
突如として体に走った妖気の気配に、私も暁も反射的に身構えた。しかし見上げた時には既に、屋敷を取り囲む野次馬の頭上を飛び交って、目の前で巨大な影が太陽を遮った。
「――っ!? 鵺……!」
目を疑った。視線の先に跳び込んできたのは、奇怪な姿をする鵺という妖怪であった。猿の顔、狸の胴体、虎の手足、蛇の尾……こんな異形な姿とあらば、誰だって悲鳴を上げたくなるものだ。
周囲の野次馬はあっという間に逃げ去って行った。大臣たちも腰を抜かし、慌てるように屋敷の中へ跳び込んでいく。人で溢れていた庭には、もはや私と暁だけの姿しかない。
馬鹿な、鵺は別名「夜鳥」と呼ばれる妖怪だ。こんな日中早くに現れるなど、有り得ぬ。
それをさて置いても今の状況は非常に不味い。討伐任務を禁じられているのは勿論、鵺を倒すほどの心力は回復していない。精々ここの人間を守るための結界を張るだけで精一杯だ。
『拓磨様……!』
「暁、助けを呼んで来い! 気を感じて誰か近くには居るはずだ!」
私を残して行くことに首を横に振った暁だが、再度険しい顔で「早く!」と促すと、彼女は朱色の山鳥へ変身し空へ舞い上がった。
辺りにはただ、緊迫とした空気のみが広がっていた。