第八話 暫しの休息
「式神召喚・暁、雫」
黄昏の刻(十九時頃)。まだ西の空には、僅かに太陽の名残のような明るさが見える。
屋敷に帰宅して以降、心力回復に努めた甲斐あって、微量の心力で発動できる術なら使えるまでになった。幼い頃から身体に無理させてまで修行しただけあり、数時間の集中なら朝飯前だ。
ここまで来て最初に使う術となれば、やはり式神召喚以外に私に選択肢などない。
無論、解除してしまったことを咎められる覚悟もしていた。
しかし、それぞれの人形から姿を現した彼女たちは想定と違い、私の顔が目に入った瞬間に今にも泣きそうな顔をした。
『拓磨様……!』
『ご無事で何よりですわ!』
躊躇することなく飛びついて来る二人を、少々戸惑いながらもしっかりと胸に受け止めた。
心配させたのも当然か。暁は雷龍との激戦の真っ只中、最も気になる場面で召喚解除されてしまったのだから。そして雫に至っては呼び出されたのはほぼ二日ぶりとなる。そこまで間が空くことなど、彼女を召喚してからは一度もなかったのだ。
「悪かった、心配させたな」
あまり胸に泣きつかれるのは性に合わないが……それが大切な家族ならば、悪い気はしない。こんなに気持ちが温かくなるのは久しぶりであった。
だが、団欒の空気はそう長く続かなかった。
『本当、良かったですわ。お身体にも目立った外傷はないようです、し……』
〝それ〟に先に気づいたのは雫の方だった。再会を喜び合う中で視界に入ったのは、寝具の上に横になる見知らぬ娘の姿だったのだ。隠す必要はないのだが、まず余所者を屋敷に入れることがほぼ皆無のため、すっかり頭から抜けていた。
雫の視線に気づいた暁がそれに続くと、二人の顔から血の気が一気に引いた。しまった、と思ったがもう手遅れだ。震える肩が振り返り、私が主ということなど忘れ、鬼のような形相で睨まれた。
『拓磨様どうゆうことですの!? 私たちに断りもなく縁談とは薄情では!?』
『私たちが心配している間、姫様と……ち、ち、契りを交わしていただなんて、拓磨様の裏切り者ぉーっ!』
猿のような甲高い声で怒濤のように捲し立てられ、私の足下に縋って赤子のように泣き喚く暁と雫。だがこれは全くの濡れ衣で、一方的な悪者扱いを受けている。大体、口にするのも躊躇う言葉なら、言わなければいいものを。
先ほどまでの和やかな時間は何処へやら、自然と腹の底から深い溜め息が出た。
「あのなぁ……お前たち、僅かな時間で気も分からなくなったのか? 冷静になれ、あの娘は妖怪だ。一応言っておくが契ってなどおらぬぞ」
私の一言にぴたりと動きを止めた二人は、思い出したように感覚を研ぎ澄ませた。恐らく二人にははっきりと妖気が感じ取れたはずだ。それに暁は妖気に敏感のはずなのだが、何故今まで気づかなかったのか。まぁ、私に会えた安堵のあまりと言われれば、それはそれで嬉しい気もするが。
冷静になった二人は涼しい顔をすると、何事もなかったかのようにその場を立ち上がった。
『さて。そろそろお食事の準備をいたしますわ』
『私は見回りのお時間ですので』
満面の笑みで立ち去ろうとする式神娘たちを、逃すはずもなく。
「……待て。誰が薄情な裏切り者だと?」
今度は私が睨む番だった。
かくして金縛りにでも遭ったかのように身動きの取れなくなった二人に、主の説教時間が始まった。
すっかり暗くなり月明かりが照らす頃、夜風に吹かれながら酒を嗜むように杯の白湯を口にしていた。
花見などの際もよく杯を手にしているが、いつだって中身は白湯だ。討伐任務に支障を出さない配慮に思われるが、単純に私は下戸である。
それにしても、よく眠る妖怪だ。暁たちが泣き喚いていた時も、私が一時間余すことなく懇々と説教を垂れていた時も目を覚ますことはなかった。そう思いながら未だ寝床で横になる妖怪を一見した。
しかし油断は禁物。一応結界は張ってあるが、特に夜は妖怪が最も活発になる刻だ。いつ目を覚ますやも知れぬと注意は怠らなかった。
長い説教の後、べそをかきながら作られた雫の食事を口にしながら、これまでの経緯を彼女たちに話した。雫が耳にするのは初であるため、まずは父上のことから雷龍のこと。そして母上の桜を失ったこと、寮でのこと、討伐任務禁止令が出ていること。そして、庭でこの娘を見つけたこと。
桜の話で初めてその姿を目にしたのか、二人とも言葉を失っていた。呼び出されてから安堵・憤怒・消沈と感情移行が忙しく、外を見る余裕がなかったようだ。
『それで、これからどうなさいますの?』
食事の片付けを終えた雫が背後から声をかけた。
雫は主に屋敷のことを世話する式神だ。家事は勿論だが、私の代わりに書類を目通ししたりもするため、文字を覚えるよう母上が残した書物を読み漁らせた。
お陰で私よりも様々な知識を持つ雫は、巫女のような青い衣服に「下げ美豆良」という両耳で輪を作って垂らす髪型をしている。本来幼い男児にするものだが、幼顔に似合いそうであったのでそうさせた。
「正直分からぬ。雷龍はまた現れるだろうが、今のままでは勝ち目はない。かと言って、ただ心力を上げても勝てるかどうか……」
元々強い妖力を持っていた雷龍は、父上の心力も手に入れている。言わずもがな今都で一番最強なのは奴だ。多少心力を上げたところで、奴にとっては雀の涙に過ぎない。
陰陽師何人かでかかればあるいは勝機があるかも知れぬが、他人と手を組むなど御免だ。それに陰陽師なら誰でも良い訳ではない。蒼士ほどの力のある者でなければ意味がないが、まず蒼士自身もその気にはならぬだろう。
詰まるところ、今は何の手立てもない。ということだ。
『私が陰陽術を使えれば……』
暫しの沈黙の中、暁がそうぽつりと呟いた。
ありがたい気持ちだが式神は心力を貯めることが出来ない。彼女に出来ることは、妖怪の居所を探るのと飛行偵察くらい。あと強いて言えば嘴攻撃だ。微力な手助けしか出来ないことを、暁は下唇を噛んで悔やんだ。
「悩んだところで仕方ない。取りあえず今は、明日からの祈祷任務をどうやり過ごすだ」
天を仰いだ後、視線を寝殿の奥へと送ったところで思わず緊張が走った。目を見開いた私の様子に暁と雫が振り返ると、あの妖怪の娘が虚ろな目つきでこちらを見下ろし立っていた。
二人が弾かれたように慌てて私の後ろに隠れると、私も護符を取り出し構えた。出来れば寝殿の中であまり暴れたくはないが……やむを得ぬ。
「安曇式陰陽術、流水――」
まず一旦拘束しようと術を唱え始めたが、それは雷鳴のような轟音によってかき消された。〝雷鳴〟と言ったがそれは雷龍が放つような音などではなく、いかような陰陽術でも妖術でもない。
それはとんでもなく大きな腹の虫の音であった。
……この妖怪からか?
『この子、お腹空いてます?』
暁が私の肩から顔を覗かせて妖怪の娘を眺めた。対峙する間も狂ったようにグーグーとそれは鳴り続けている。張り詰めた空気は一転し、一向に攻撃をしてくる気配もない腹の虫娘に、私たちは呆れて顔を見合わせた。
あの目つきも睨みを利かしていたのではなく、空腹に虚ろになっていただけ。
全く、拍子抜けも甚だしい。
『仕方ありませんわね。お待ちになって、妖怪さん』
若い娘の姿も相まって、すっかり警戒心もなくした雫は、何か食べ物を取りに寝殿の奥へ消えていった。
何だか今日は緊張したり緩んだりで疲労感が半端ない。溜め息の数だけ寿命が縮まると噂に聞くが、だとすれば今日だけで何日分縮んだのかと、無駄なことを考えてしまった。
そして私たちはその後、無心で握り飯を貪り食う妖怪の娘を、ただただ見守るのであった。