つみとが
「朗報!!」
ばぁん、とドアを威勢良く開きながら狼が大声を上げる。
「......なに」
「俺すっっっげぇツイてるかもしんねぇ!!天の女神に愛されてんだなぁ...信じられねぇよほんと...お前もそう思うよなぁ!」
「ショッピングチャンネルじゃねぇんだからよさっさと喋ってくれねぇかな」
闖入者はちぎれんばかりに尻尾を振りながら笑顔でまくしたてる。この状況に特筆するとすれば、今は朝の5時で、俺は惰眠を貪る真っ最中だった。
「あっすまんすまん!今日はお前寝てる時間だもんな」
「毎日寝てる時間だよ」
「...お前毎日寝てんの?」
「お前寝てねえのかよ...どうりでいっつもキマってると思った...」
「ファッションセンスが?」
「頭が」
へへへ、と自慢のソフトモヒカンをなでつけながら部屋に侵入してくる彼の名はヨミ。こいつは未だに勘違いをしていて、俺は別にそのアホみたいに立ち上がった髪を褒めたわけでなくどちらかといえばその髪の付け根の頭の方について言ったのだが、彼の頭にはバチバチに逆立ったモヒカンを保持する苗床としての機能はあっても、残念なことに皮肉を解する機能がなかった。
よく見れば彼はずぶ濡れで、耳先から鼻先から、コートやブーツまでもがじっとりと色が変わっている。窓からは激しく雨の音が聞こえてくる。傘もささずに走ってきたのだろう。
俺の安眠を踏みにじる不届き者は、ドカドカとブーツを踏みならしながら部屋へ入って来た。転がしていた雑誌や脱いだシャツなんかが見事にヨミ汁によってビタビタになっていくが、彼にはそれは見えていないようだ。水滴が床の木材に染み込んで道を作っていく。
入眠中に突如として部屋を訪れてひとしきり騒ぎ、通った後には水たまりができる妖怪。塩でも撒きたい気分にため息が漏れる。
「タオル」
「うん?」
「椅子にかかってるから使えよ」
「助かる!急に降り出してなぁ」
「傘持ってかなかったのかよ」
「いけるって思ったんだよなぁ。早く動けば避けられそうだよな」
「いや、俺は思ったことはないけど」
闖入者はざくざくと荒く頭を拭い、着ていた上着を脱ぎ捨て、じっとり湿ったTシャツも脱ぎ半裸になった。
引き締まった彼の体。ずぶ濡れの被毛が筋肉に張り付き、体格の良さが際立つ。戦う男の肉体美というやつだ。首から上は、まあ......という感じだが。
「俺の聖域に...」
「いいだろ別に。俺だぜ。朝飯持ってきたぞ」
そう言いながら彼は意味もなく体を左右に揺らした。薄桜色の毛並みが揺れ、春の嵐ににめちゃくちゃに揺さぶられている桜の木みたいになっていた。ついでに飯の入っている袋までガサガサ揺れている。
「食おうぜ食おうぜーーなあなぁーー」
「飯がグチャグチャになる前に袋置いてくれよ...頼むから......」
ヨミは調子の外れた歌を歌いながらドカドカとダイニングへ向かい、壁を強くバンバンと叩くようにして電気のスイッチを入れた。
繰り返すようだが朝の5時である。外なんてまだ真っ暗で、いつもの起床時間に合わせているアラームもまだ夢の中なのだ。
「あ、湯沸かしていいか?茶もあるぞ、ほら」
「いいぞ。そこ、その左のコンロ空いてるから使え。ヤカン出てるから」
「了解であります!」
どっかりと腰を下ろした彼はうきうきと袋の中身を広げる。
サンドイッチにサラダボウル、スープの筒がふたつ、オレンジが三つ。茶葉の袋がひとつ、ふたつ、みつつ、よっつ。
「待て待て待て茶が多いぞ茶が」
袋から次々に飛び出す茶の数に俺は五度見する。
「えっそうか?明日の分も買おうと思って」
「そう言って昨日も五袋買ってきたんだよお前は」
悪びれない顔で、無機質なプリントのアルミパックを袋へ戻していく。
気に入ったものを大量に買う習性のある彼のせいで、我が家にはこの味の茶葉がもう四十を超えている。もはやこれは売るほどある。定番商品の常備在庫である。
「もう十分蓄えたろ...」
「飲みてぇ!ってなった時にないと困るだろ?」
「お前それ全部飲むの?」
ひとしきり並べた茶の方は見向きもせず、勝手知ったるというふうに皿や食器を並べる。この食器も彼専用だ。棚の大部分を占めるそれにムカつくので今度紙皿か何かと交換してやろうかと思っている。
かくして、自分の家みたいに振る舞う彼に朝っぱらから叩き起こされた怒りはすっかりとなりを潜めてしまった。
「あっこれすげぇ美味い」
席に着くなり、いただきますの一言もなくサラダを口へ運ぶヨミ。
「何入ってんだよ、その白いの」
「豆。肌にいいからこれにしたんだよ。いいだろ」
「ニメートルの大男がOLみたいな理由でサラダ選んでんじゃねえよ」
モソモソと青葉を頬張る。抱えるほどの大きなボウルに入っているそれは恐らく複数人で食すことを想定されているサイズのものだが、ヨミはその森みたいな見た目のボウルを抱えて順調にたいらげていく。脳裏には森林伐採の四文字が過る。
そもそも被毛で地肌の見えない我々にいいも悪いもない。
「お前、今日なんか予定あんの」
「うん?ないなぁ。呼び出しもないよ、多分」
笑顔で野菜を飲み込んだヨミは「飯食ったら二度寝する!」と宣言した。
あぁ、それもいいかもなぁ、と頷きかけたがもしやこの男は俺のベッドで二度寝をする気なのではなかろうか。そのあたりをはっきりさせると断るに断れない感じになりそうだったので曖昧に頷いておいた。
「そういえばお前、さっきの朗報って何あったんだよ」
「あぁ、あれなぁ!なくしてた財布が出てきたんだよ!」
「...お前財布無くしてたの?」
彼はきょとん、として「話さなかったっけ」とでも言わんばかりに首をゆっくりかしげる。
「先月だったかなぁ」
「二週間も経ってんじゃん... 」
「飲んだ帰りにさぁ、気付いたらなくてさぁ」
「落としたか」
「それが出てきたんだよ!すげーよなぁ。世間捨てたもんじゃねぇなぁ」
机を両手でバンバンと叩く。世界に満ちる愛とやらを力説するヨミ。
「落とした財布戻ってくるってそうそうないよなぁ!」
「まぁ、そうだな。中身も無事なんだろ?」
「ん?空だったぞ」
「しっかり盗られてんじゃねぇかよ」
朗報と悲報でトントンという具合だった。むしろマイナスだ。トータルで損をしていることなどまるで意に介さず、ひときわ大きなカットのサンドイッチに手を伸ばす。
俺はといえば、長めのカップに入ったトマトスープをずるずると半分くらい啜ったところで腹は八分目...というところだった。
「お前は相変わらず全然食わないなぁ」
「てめぇが食い過ぎなんだよ」
そうかなぁ、と呟きながらヨミはサンドイッチの最後の一切れを飲み込む。
べろり、と肉厚な舌で口をひと舐めしてからオレンジを爪で器用に剥き始めた。
「そういやさ」
「ん、どした?」
「この前、お前の同僚に会ったぞ」
半分ほど皮を剥いたオレンジに齧り付くヨミが「おほ!られら?」と上顎にオレンジが刺さったまま喋った。果汁がシャワーみたいに飛び散って、俺の顔が爽やかにまみれる。
「......あの、名前なんつったかな、ほらあのすげーいびきのうるさいって言ってた」
「いびきうるせぇやつ二十人くらいいるなぁ」
「地獄かよ」
「あ、白っぽい虎か?」
「そうそう、笑い声甲高い」
「降霜さんかぁ」
「そうそうその人と駅前でばったり。お前の話してたぞ」
「灰島ヨミは今日もバッチリ仕事のできる男でしたって言ってた?」
「今週はコーヒーを六回ひっくり返したって言ってた」
「わ、あの、いや全然聞いてない聞いてない。ひっくり返してない。全然ひっくり返してない」
「流石にひっくり返しすぎだろ」
「ちげぇんだってコーヒーが暴れるから」
「俺のコーヒーは暴れないんだけどなぁ」
「コーヒーにも個性があるだろ」
暴れるかどうかの個性など、コーヒーは獲得していない。冷ややかな目を向けるとヨミは無言でずるずるとスープを啜った。
「俺あいつ苦手なんだよなあ」
「へぇ、珍しい」
口をべろり、と舐めてからヨミが呟いた。彼の口から好きだの嫌いだのの話を聞くのはそうないことだ。
「なんで苦手なの」
「いちいち一言多いんだよあいつ...この前もさぁ、仕事終わってから食堂のど真ん中でな、でっけえ声で『今日ハードすぎてクッタクタだわぁ〜なんも食えねえわ〜〜』ってうるせえから隣でカレーふた皿食ってやった」
「やるじゃん」
それは仕返しか何かの文脈なのだろうか。調子を合わせて神妙に頷く。
「ナンが食いづらくてさぁ、」と続けた彼に、ああ本格的な手使って食うやつわざわざふた皿食べたんだねなんて返す元気は残っていなかったのでこれまた曖昧に頷いておく。
「この前もな、あいつ腕怪我したんだけどさ、これ見よがしに吊ってきてさぁ」
「うんうん」
「利き手が使えねぇとすげー不自由だなぁーーってうるせえから隣でめっちゃうどん食った」
「嫌がらせに横でもの食うのやめなよ...」
「あいついちいちそういうのうるせぇんだよなぁ」
思い出してはムカついてきたようで、手付かずになっていたロールパンの包みを開く。
「そろそろ、こっち来なくてもいいぞ」
「ん?」
「朝飯。お前忙しいだろ。わざわざうちの方まで毎日来なくていい。向こうに仲間もいるだろ」
ヨミは暫くぽかんとしていたが、そのまま少しだけ口の端を吊り上げて笑う。
「お前だって、あれだろ。こむそうってやつ」
「虚無僧?」
「こむ、こみ、こみゅし、しょう」
「台無しだよ」
「お前さぁ、人と話すの苦手だろ。でも俺なら大丈夫なんだろ?」
見透かしたようにわかったようなことを言うヨミに、俺は黙る。
こいつはは一つ勘違いをしていて、どちらかと言えばコミュ障と言うよりも無口なだけであり、不特定多数とのコミュニケーションを避けたいお年頃というやつなのだけれど、彼にその区別はつかない。
「食堂来いよ。おまえと話が合うやつもいるかもしんねぇじゃん」
「絶対嫌」
食堂はオラついているマッチョしかいないから嫌だ。無口な陰キャは派手めなギャルを恐れがち、という分かりやすい構図である。
「おまえが来ないうちは、俺が行くよ」
するすると俺の二、三日分に相当する食料を事も無げに飲み込んでいくヨミ。毒気を抜かれてしまいそうな晴れやかな笑顔で、ともすれば胸がときめいてしまったりなんだりということがないこともないのだけれど、今の彼は机上いっぱいの食事をアホのように平らげるアホだったので、勢いで言えばフードファイターやレスラーの食事風景を見ているときに限りなく近い心境だった。
「やけ食いすると太るよ」
「ムカつくと腹減るんだよ俺」
「腹が減るからムカつくのでは...?」
鶏が先か卵が先か、みたいな話をしながら彼の食事をぼんやりと眺める。
「いやぁ、食った食った」
「お前見てるだけで腹一杯だわ俺」
得意げに鼻をフンと鳴らすヨミだが、別にヨミが何かをしたわけでは無いので何に得意げになっているのかはわからない。
常人には理解の及ばない何かがあるのであろう。バカの世界も大変なものだ。
「...お前、結局それしか食わなかったな」
ヨミは、少しだけ寂しそうな顔をして俺の手元の筒に目をやる。返事をするようにずるずると、流動食をストローから啜った。机に置いたままのそれを、行儀悪く手を使わず飲み込む俺をヨミは叱らない。
両腕を吹っ飛ばした俺に、食器を使うことなどできない。
ストローを咥えたままウィンクしてみたが、たちまちに顔を顰められたのは腕の怪我へなのか、不恰好なウィンクへなのかは俺にはわからない。
「そろそろ怪我も落ち着いてきた頃だろ。もう少し食って回復しねぇと」
「食っても腕は生えてこないさ」
「わかんねぇぞ?明日んなったら腕の二つや三つ」
「二本でいいんだよ二本で」
幻肢痛に苛まれる俺に食欲などあるはずもなく、毎日毎回同じ量の配給をごっそりと腐らせていた俺に気がついたヨミは、「じきに食えるようになる。それまではお前のぶんも俺が食ってやるよ」など言ってわざわざ俺の部屋まで来て一緒に食事を摂るようになった。
「そもそも」
「なんだよ」
「俺とお前の仲だろ?水臭い事言うなよ」
ヨミはそう言うと、濁りきった白いまなこでウィンクをする。弱い光しか感じられないその目で、俺の姿はどのように見えているのだろう。半熟のポーチドエッグみたいな質感の彼の目からは、伺い知ることができない。
「お前が何を言おうが、俺はお前の部屋でしか飯は食わねぇよ」
「......」
「お前が寝てても無理やり起こす」
「迷惑行為に片足突っ込んでるぞ」
今朝のアレを思い出して苦い顔をすると、「...朝はもう少し遅く来るようにする」と気まずそうに言った。
「はぁー食った食った」
「満足したか?」
口の周りをペロリと舐めながら、ヨミは腹をさすり目を瞑る。
「あとは寝るだけだなぁ」
「土曜日の始まりだろうが」
「それはそれだなぁ」
「どれだよ」
食器の片付けもそこそこに、ヨミは俺のベッドへするりと潜り込んだ。
大柄な彼は俺のベッドでは足先が飛び出してしまうが、彼は気にしない。
「八時に起こす」
「頼むなぁ。...ふぁ...、っおやすみ......」
大きく一つあくびをすると、彼はゆっくりと瞼を閉じる。穏やかな呼吸はすぐに寝息となり、嘘みたいに早く眠りについた。
戦争で激化した情勢は、俺たちの生活をスプーンでえぐり取るみたいに次々に削っていった。
国を護る、という大義名分を振り翳せるだけ振り翳した俺たちはこうやって今、罪を清算しながら生きている。
清算が終わる日は来るのだろうか。それより先に戦争か、俺たちの命のどちらが終わるのだろうか。
腕や目や生まれた街、親なんかと引き換えに、お国の保証というもので俺たちはかろうじて生かされているのだ。そこに意思など介在しない。あるのは血と、涙と、骸だけだ。
けれどこの「幸せ」とかいうものとは程遠いこの日々を、嫌いになれない俺がいる。
平和とか、安定とか。そう言ったものなんて本当はどうだってよくて、俺はただこいつの隣で、同じものを食って同じように笑うだけで満足なのかもしれない、と。そう思うのだ。
彼の目元にまっすぐに走っている、焼けただれたような裂傷もきっと、それを望んでいることだろう。
穏やかな寝息を立てる彼の頬を撫でてみる。
返事はなかったが、口元が僅かに笑みをかたどる。
彼の胸元へそっと鼻先を寄せる。
強い鎮痛作用のある茶葉の、無機質に刺すような香りが鼻腔へ満ちる。そして、ほのかに香る彼の汗と、遠くで降る雨の匂い。
フラッシュバックに苛まれる夜を過ごす彼の眠りを保証するのは、この強い導眠作用を付与された薬だけだ。化学によって作られた眠りであったとしても、穏やかに眠れるのであればそれで良いと思った。
目が覚めれば、彼はこの療養棟を出てまた基地の寮へと帰っていくだろう。
その時まで、この腕に彼の体温を感じていたい。
国のものでもなんでもない。今この時だけは、この狼は俺だけのものだ。
顎の下を擽ると、ヨミは少しだけ身を捩り、幸せそうな顔をした。
全てがつるりとすすがれてしまいそうな、豪雨の日の朝のことだった。




