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メモ

カント哲学とはなんぞや


ケーニヒスベルクの生まれ 物理専攻だった

合理論的立場をとっていた


純粋理性批判 真

人間の認識能力の区分けと限界について語った本


実践理性批判 善

我々の生きるべき道というものは何かを考察した本


判断力批判 美

合理的な判断を行うための考察


まず、カント哲学の言う批判とは、何かを突き詰めて考察する。すなわち、極めるなどと言う意味に近い。






純粋理性批判について

超越論的原理論(序論)

本質的なテーマ

アプリオリな総合判断とは如何にして可能か


アプリオリってなに?


合理論 

理性の合理的推論によって世界は正しく認識できる。エチカなども有名な著書。アンチノミーによって破壊される。


経験論

我々の認識や知覚、人格は全て経験によって作られるという主張。努力主義的なので俺は嫌いだし、論理的に簡単に批判ができるのでカスだと思う。経験を知覚とする。






物自体(イデア的要素?)と表象(恐らく我々がありとあらゆる手段を使って観測できる事象)という二つの本質的立場が表裏一体として存在し、我々が物自体を認識することはできない


我々は物自体を触覚や視覚という様々な物理的な要素によって認識しているに過ぎないと言う主張


また、物自体とは非常にカオスなものである(らしい)


我々が得た表象の認識は、我々の脳が作り出した情報に過ぎない(脳が無ければ我々は何を見ているか認識できない)

「具体例として、烏賊は目が良いが脳が小さく、何を見ているか自分では認識できないなどがあげられる」


我々の認識が対象に従うのではなく、むしろ対象の方が我々に認識に従わなければならない(コペルニクス的転回)


分析判断⇄総合判断

アプリオリ⇄アポステリオリ


分析判断

主語概念の分析を行うと、術後概念が含まれているといえる判断のこと。

具体例

ひし形は平行四辺形である。

ひし形(平行四辺形


総合判断

主語概念の分析を行うと、述語概念が含まれない判断のこと。

具体例

昨日は雨だった。

昨日は雨を降らせる要因や性質を持ち合わせていない。


アプリオリ

絶対的な定理公理のこと。我々が経験をしなくても、世界に存在しているもの。普遍性かつ絶対的。


アポステリオリ

経験論。統計学的な知見のこと。




アプリオリとアポステリオリの判断は命題の結論ではなく、過程において生まれる

具体例

太陽は東から登るを地動説的見解に立って証明した場合、それはアプリオリな判断。

太陽は東から登るを千年や一万年前の文章を解読し、一万年前から太陽は東から登っているので、明日も太陽は東から登るだろうと言うのがアポステリオリな判断。



  アプリオリ アポステリオリ

分析アプ分析判 (アポ分析判断)

  (合理論的)

総合アプ総合判 アポ総合判断

         (経験論的)

アポステリオリな分析判断は判断として認められない。

理由は

数学的に10までの数字で素数は2,3,5,7のように出てくるので、11〜20という数字についても12,13,15,17は素数であるとは言えない。

このように、アポステリオリな分析判断というものは証明において全くもって使えない。

仮に法則として取り出したのなら、それは経験を一般化した人間的主観である。


で、アプリオリな総合判断はあるのかないのかわからなかった。


カントはこれがあると主張した。


純粋(経験によらないという意味)数学の具体例

5-4+5×2=11


左辺の項を一つ一つ見ても、右辺が11と判断できる要素は存在しない

なので5-4+5+2は総合的判断である

しかし、この数式は経験論的な立場ではなく、どんな時も絶対に成り立つ概念なわけなので、これはアプリオリな総合判断である。


他にも純粋自然科学や形而上学もアプリオリな総合判断に基づいている

(形而上学は宗教的な意見が大量に投下されているため、あくまでも一部である)



で、アプリオリな総合判断が何かと、アプリオリな総合判断が存在する事を証明した上で、それがどうすればできるのか考えていく


つまり

経験に頼らない(アプリオリな)総合判断=純粋理性を批判(徹底的に吟味する)本

純粋理性批判という題名はこういう意味なのかーと納得。


つまり、こうするとこで人間の限界がわかるよ!ってのがこの本の認識だと





第二章 超越論的感性論


人間の物事を知覚し、脳に整理する能力を認識能力というのならば、認識能力は経験によって培われているとは言えないだろう

なので、認識能力に必要なものとして、アプリオリ(経験によらない絶対的で普遍的)な形式のものも存在しうるのでは?

で、人間の認識能力ってなに?

と考察を始めた


カントにとっての認識は以下の通りである。

ちなみに超越論とは我々の経験に先立って存在する的な意味なので、アプリオリとほとんど変わらない意味である。


感性 悟性 理性


↑これが認識能力において必要なものと、カントは主張した。

二章はこの中のアプリオリな感性について語ったものである(多分)


感性は時間と空間が存在する上でのみ存在するというお話。時間も空間もない場合、人間は何も認識できない。

具体例は時間か空間のどちらかを消して考えればいいかな。

具体例(ここはカントの主張じゃない)

車を永遠に加速させ続けたら、その車は消失する。そして、その車が消失した場合、その車が存在していたことを証明するには時間という概念が必要だよね

空間が存在しない場合、我々の目の前にある林檎が存在すると言えないよね。空間がないのだから、そもそも見えないし、知覚できないんだけど。


そして、時間と空間が存在する上で感性が感じ取った情報を直感という。

これはカントが情報というものを物自体であると一時的に認識し、それを我々の脳がさらに自己解釈して情報を整えていると恐らく主張していて、我々の脳は物自体ですらない情報という存在すらも正確に認識できないと言っている。

カントは理性を批判的に見ているようにも思えるので、純粋理性批判は言葉遊びになっているのかもしれない


三章 超越論的悟性


我々の認識が感性のみで存在しているかと言われればそうではない。

これの証明は感性のみでは林檎を赤くて丸いもの程度しか認識出来ず、これが林檎だ! とか果実だ! とか認識できねぇって話ですね。なので、認識が感性によってのみ働いているわけではないのは簡単です。


で、悟性ってなんやねんと思うとおもうんですが、例えば林檎を見た時、赤い丸いと認識したとしても、それが何を対象にしているかわからないよねってことです。スタングレネードなどを投げられたら、うるさいとか眩しいだとかそういうのを直感的に認識すると思うんですが、それを即座にスタングレネードだ!なんて、認識はできねぇって話です。

うるさい 眩しい などという情報をスタングレネードに当てはめるには、悟性がないとできないことであり、悟性とはつまり、直感を対象に整理するだとか当て嵌める能力だってことです。さっき烏賊の話をしましたが、悟性がなければ景色を眺めているだけで、それが何か"認識"できないんですねー


で、悟性はカテゴリーに置いて物事を捉える働きも持っていると


カテゴリーはまぁ見ればわかると思うので以下の通りと


量  質  様相 関係


単一 実在 可能 実体

数多 否定 存在 原因

総体 制限 必然 相互 (性)


これら12個のカテゴリーを組み合わせて、物事を捉え、我々の直感を当て嵌めてくれるのが悟性ってことですね。


因みにこれはアプリオリ(最初から備わっている)悟性の12個の概念なので、純粋悟性概念といいます。

ちなみに〜からといいます。までに単一性、数多性、総体性を組み込んだつもり


面倒なので量の悟性についてのみ考えます

無理ゲーなんで


単一性 数多性 総体性←単一性

量のという悟性概念は三つのカテゴリーが存在する←数多性

こう言った存在全てを内包する意味として純粋悟性概念というものが存在する←総体性


数学的に言うなら

項,辺,式とかでいいんじゃないかな


で、本当に12個だけなん?って、思うと思うんだけどカントはアリストテレスの論理学的見解を借りていると


このAはBである 単称命題

あるAはBである 特称命題

全てのAはBである 全称命題


などでね。他にもカントは表を作ってるけど、話が逸れるので説明は放棄。


四章

超越論的統覚→自己意識


私は考える、は、全ての表象にともわなければならない。


つまり、自分の経験を全て自分の経験だと認識する能力が我々にはあると。そりゃそう。

他人の記憶なんて存在したら頭が狂う。




超越論的演繹


ふんぎゃー助けてくれぇ

何言ってるか分からん


目的としては主観的な悟性というものを客観的に証明しようとしたもの。ただ、こいつは自分で提示した命題を証明するための仮定として提示した命題を証明していないので、フェルマーの最終定理における谷村志村予想が証明されていないような状態にあるということは頭の片隅にでも置いておいて欲しい

そして、そんな状態の命題が大量に存在することも

所詮は哲学は立証不能な空論である。因みに読んでいて、数学の論文以上に理解が進まなかった。

というか、これ理解できるやつはいないだろ

ぶちころがすぞカント


原則の分析論

よくよく考えたら、純粋悟性概念と直感(感性によって感受された情報)は別物では?

そう思うだろう。

カントはそれに対して、触媒のようなものがあると主張する。

超越論的図式や超越論的時間規定とも言う


純粋悟性概念の原因性を取り上げる


原因性! って一言、(初見とする)言われて、物理法則とかを頭に繰り広げる奴はいない。もしいたらそれは悟性のバグった人間ではない人間的な何かである。


そこで出てくるのが超越論的図式だ

「時間の中で直感、つまり現象がおおよそこのように現れたら、純粋悟性概念としてこのカテゴリーを当てはめる」

という脳の仕組み


林檎がテーブルの上に置いてあったら、脳は瞬時にそこにリンゴが『存在する』という存在性やそれが『1つ』であるという単一性を勝手に当て嵌めてくれると言うわけね。

原因性だと神社でお参りをした数分後に一千円を拾ったら、それが神社にいったことを原因と自然に認識したりするでしょう

実際は誰かが落として風に吹かれただけなんて可能性の方が、物理的には高そうでしょ?

だけど、原因性を当てはめるのが人間だから、多くの人は神社に行ったからと言うことに原因性を見出すんですねー


カント曰く、我々にとっての実在とは、我々が認識し、脳に整理した実在性の当て嵌められた情報の実在性を認識しているってことですと


複雑ですねー。いいたいことはわかるんですが


それを普遍的に言うと


我々がそのように見て、そのように感じているから、そのように見て感じているのである。


比喩的な言い回しですね。

具体的に言えば、

我々の脳がそこにりんごがあると勝手に認識してしまうのは、実際そこにりんごがあるからであるってことなんですね


りんごがなければ我々の脳はりんごを認識しない。逆に言えば、我々の認識がなければりんごは存在しないってことでもあると。


シュレディンガーの猫みたいでしょ?

量子力学的な見解をカントは哲学的にしているんですね、うーん、気持ち悪い


よっしゃ結論じゃい


え? 理性とはって? 簡単です


三段論法です


a=b

b=c

a=c


まぁ、三段論法が通用しない理性的でない人間はいるんだけどさ


で、純粋理性って何かっていうと純粋悟性概念に論理学的な見解を与えて存在できる概念のことですね。


は?


でも、理性はカスなのでアンチノミー(二律背反)に陥るんですね

神の存在は証明も否定も(理性の上では)できるという話です


こういうことについて、人間は知性では理解できないんですね


だから彼は、人間の理解できる認識できる知性の限界とは経験論的壁を理性的に突破はできても、アンチノミー(個人的には神の理性の壁とか言ってる)を超えることはできないんですね


人は神にはなれないんすね(俺の見解)


うん、でアプリオリな総合判断とは何かは分かったけど、それの使い方は? って思うじゃん? で実践理性批判読んだんだけど共感できなかったのでダメです

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