淑女たるもの、先ずは身なりからですわね!
(うわ、何ですの此処!?)
十数年は誰も手入れをしていない階段を登り続けてキリエが出た先は、小汚い路地裏だった。
目の前には汚れと錆で着飾った大きなゴミ箱。
その隣では、厚木の浮浪者が酒瓶片手にいびきをかいている。
地面には小石に混じりガラスや小さな金属が散乱しており、キリエの履いている踵の上がったブーツには少し危険である。
路地の外からは車の走行音が聞こえる。
機械的に音量が上げられた人の声が、化粧品の宣伝をしている。
その全てが、キリエにとって目新しい物だった。
(どうやら寝過ぎてしまった様ですわね…)
キリエには知らない時代に突然放り出された経験は無かったが、こう言う時にどうすべきかは学んだ事があった。
「もしもし。そこのお爺さん。」
キリエは、目の前で眠っていた浮浪者に声を掛ける。
「うん…あぁ…?」
浮浪者は眠たげに目をこすりながら、呂律の回らない口で応答する。
キリエはすかさず、袖口から金貨を一枚取り出す。
金貨1枚は銀貨100枚分の価値で、銀貨1枚は銅貨100枚分の価値、銅貨1枚は鉄貨100枚分の価値で、缶コーヒー1本は鉄貨1枚で買える。
「おあ!?」
当然、浮浪者は驚く。
キリエはその隙を見逃さず、すかさず質問を投げ掛ける。
「少し知りたい事があるのですが、宜しくて?」
それからキリエは、浮浪者に色々な事を教えてもらった。
此処はドゥーンハイド王国と言う小国で、国王ですら庶民と変わらぬ暮らしを送る大変貧乏な国である。
現在は真聖歴4316年で、その前には9000年続いた聖歴があり、更にその前に4000戦年続いたズーミヌン歴があると言う。
キリエが眠りに就いたのは、ズーミヌン歴2512年の事。
(成る程、わたくしとこの世界の差は大凡1万と5000年。わたくしの常識は一切通用しない物と見積もった方が良いですわね。)
「感謝しますわ。親切なお爺さん。」
キリエは金貨を指で弾き浮浪者の頭に乗せると、路地裏を出て行った。
キリエの背後で、狂喜乱舞する浮浪者の声が聞こえる。
(覚悟はしていましたが、やはり時代の流れとは凄い物ですわね。)
大小様々な建物群は全体的に角ばっており、その全てが廃れていた。
道は、歩道と車道できっちり分けられているが、どちらにもヒビや陥没が目立つ。
時々通行人がキリエの事を見てくるが、その目はキリエと言うよりもその服装に向いている。
(この姿を見られても石や聖水を投げられないと言う事は、此処は親魔国家、或いは種族に無頓着な可能性がありますわね。これは好都合ですわ。)
キリエは空を見上げる。
太陽は丁度真上にあったが、厚い雲に覆われその光は砕けている。
直射日光が当たっている間はキリエは本来の力を発揮できないので、この天候も都合が良かった。
太陽の出ていない昼間とは、高位な吸血鬼にとって最も活動し易い環境である。
(何かをするにしても、先ずは住む場所からですわね。いえ、それよりも服から揃えた方がいいかしら。先程からわたくしの横を通り過ぎる、あの鉄の乗り物も欲しいですわね。)
ジジジッ、と言う年老いた電飾の囁きに、キリエは顔を上げる。
そこには光を失ったネオンで飾られた、古びたプディックがあった。
(淑女たるもの、やはり身なりからですわね。)
曇りきったガラス張りのドアが開かれ、上部に取り付けられていたベルが、リリン、と客の来店を知らせる。
店の奥のカウンターには、恰幅の良い白毛の老婆がどっかりと座っており、葉巻片手に客人を睨む。
今時こんな寂れた店に来るのは、万引き犯か強盗ぐらいだからだ。
「お邪魔しますわ。」
「冷やかしなら帰んな。」
キリエは来店早々、老婆の座るカウンターに一直線で向かう。
老婆は強盗を確信し、テーブルの下に隠していた猟銃を取り出そうとする。
キリエがカウンターに置いたのは金を詰めさせる為のバッグでは無く、1枚の古びた金貨だった。
「此処にある服、全部頂戴したいですわ。」
「な…!?」
老婆は絶句する。
キリエは金貨をそこに置いていくと、店の中に件の棺を、蓋の空いた状態で召喚する。
老婆は金貨を何度も確認するが、正真正銘の本物である事しか判らなかった。
キリエは、棺の上部にある持ち手を尻尾で絡めとり棺を持ち上げる。
老婆はキリエが泥棒でも物乞いでも無く、頭のネジが飛んだ金持ちだと結論付ける。
キリエは、店にある服を手当たり次第に棺の中の闇に放り込んでいく。
「お客様。当店ではお客様のお身体に合わせた加工サービスも行っておりますが。」
「自分で出来るので結構ですわ。」
店にある服をあらかたしまい終えると、キリエは棺を縦に置き、自身もその奥の闇の中に消える。
店内には棺が放置されたがその間に他の来客は来ず、店の前を通りかかる客も、曇りきったガラスに視界を遮られそれを見る事は無かった。
1時間後。
棺が再び開かれる。
「どう?似合ってますの?」
短ジーンズ。
スニーカー。
灰色のパーカーはチャックが開けてあり、その下からは赤色のスポーツブラジャーと、鎖骨やお腹が覗いている。
「ええ、大変似合っておりますよ。」
「ありがとうございますの♪」
キリエは満点の笑顔を老婆に捧げると、棺をそのままにして店を去る。
商品を買い占められ、暫く残る粗大ゴミまで残されたが、老婆は何一つ不満は抱かなかった。
「こいつさえありゃ、孫と一緒にこの国をおさらば出来る。神様ってのは、ちゃんと見てくれてるもんなんだなぁ。」