5
クロエは、カインと初めて会ったときと同じ応接室に通されていた。
高い天井、華やかな装飾、布物はふわふわ。でも今日は椅子には座らない。
窓の側に立ち、外に目をやると、演習場で騎士たちが訓練しているのが見えた。あの中には兄もいるかもしれないが、皆同じ服なので分からない。
そのまま目的の人を待つ。
いくらも待たずして急いだような足音が聞こえ、半ば乱暴に扉が開かれた。
クロエが振り向いて入口を見ると、息の乱れたカインが立っており、こちらを見て目を見開いた。
初めに会った時と同様に、明るい茶髪が乱れている。
「──まさか……、クロエ?」
訝し気に揺れる瞳が、クロエを上から下まで何度も往復する。
それもそうだろう。クロエはいつものドレス姿ではない。
騎士服だからだ。
濃紺のフロックコートに立襟は赤。その飾りボタンは金色だ。長い髪を帽子に詰め込み、女性にしては背の高いその姿は、後ろから見たら淑女とは分からないだろう。
「はい」
どこで会っても声をかけてもらえない。そしてこちらから声をかけることは許されない。
さらに、若い女性から王太子に謁見を申し込むことはマナー違反。
八方塞がりとなったクロエは、騎士である兄の名を騙った。
騎士である兄は王宮にも出入りし、カインとも面識がある。謁見を申し込むことも出来た。
クロエは兄の名で、騎士服で男装して強引にカインに会うことにしたのだ。
「どうして」
「殿下が、無視なさるから」
カインがぐっと唇を噛む。クロエは窓から離れ、一歩近付いた。
いつもより硬い靴だが、その足音は毛足の長い絨毯に吸い込まれる。
「殿下、考える余裕をくださいと申し上げました。そして、よく考えました」
カインは立ち尽くしたまま、クロエから目を離さない。
「将来に不安はありますが、殿下のことが好きです。今はもっと殿下のことを知りたいと思っています」
それから、クロエは胸に手を当て、騎士の礼を取った。
「もし、殿下のお気持ちが以前と変わりないようでしたら、また交流を再開して頂きたいと思って参りました。もしも無理だと仰るなら──」
「……無理だと言ったら?」
「戦いましょう。殿下の心が欲しいので」
カインが息を飲んだのが分かった。
きっと、二人のきっかけになった言葉を思い出しているはずだ。
少しの間、クロエが顔を下げたままでいると、はああ、と大きなため息が聞こえた。
わずかに頭を上げると、カインがその場にしゃがみ込んで腕の中に顔を突っ伏している。
だめだっただろうか。嘘をついて無理やり会いにきたりして、呆れられてしまっただろうか。
「殿下」
クロエが声をかけると、カインは低い声で呻くように呟いた。
「──急に君の兄の名で謁見申し込みがあったから、君になにかあったんじゃないかと。まさか、君が直接来るなんて」
それから頭をがしがしとかき、しゃがんだままクロエを見上げてくる。その表情は晴れやかだ。
「ごめんねクロエ、無視して。考えてくれてありがとう」
「殿下……」
カインのさっぱりした顔に、クロエはほっと息をついた。引かれたり嫌われたりしなくて良かった。話を聞いてくれて、良かった。
力の抜けたクロエを見て、カインの方も息をついた。しゃがんだまま頬杖をつき、眉を下げる。
「僕だって無視なんてしたくなかったんだけど。仕方なく」
カインの言葉を疑問に思い、首を捻る。
「宰相補佐、あの、陛下の結婚相手の。彼がさ、押してダメなら引いてみろっていうから」
「はっ!?」
カチンときたクロエは眉を寄せた。あんなに悩ませておいて、わざとだったのか。
「……嵌めましたね?」
「ごめんね。もう声をかけたくて仕方なかった。そろそろ我慢の限界だったんだ」
「殿下……」
「クロエ、真剣に考えてくれて、会いに来てくれてすごく嬉しい」
へらりと笑うカインに怒ることが出来ず、クロエは肩を落とした。いつものすました王子様の様相ではなく、年相応の青年のように見えて気が抜ける。
しゃがんでいるカインが両手を出して来たので、その手をつかみ、引っ張って立たせた。
「無視されて、私は傷つきました」
「ごめん。ああ、でもこんなに凛々しい姿で求婚しに来てくれたなんて本当に嬉しい」
「き、求婚に来たわけではありません」
クロエは引き気味に繋いだ手を離そうとしたが、カインは手を離してくれない。強く握り込まれており、その手はひどく熱い。
「これからも手紙を書いたり贈り物をしたり、ここに呼んだりしてもいい?」
「……ほどほどにお願いします」
「嬉しい!」
無視されていた時との変わりっぷりに引いた。
だが、ここに来たことを後悔はしていない。自分の選択が間違いでなかったことにクロエは安堵していた。
♢
その日のクロエは、カインと初めて会ったときよりも数倍は緊張していた。
ここは王宮の左側の王族のための建物。奥の奥。
女王のための、応接室。
カインといつも会う部屋とは比べ物にならないほど広い部屋には年代物の装飾品が飾られており、クロエは壁に近付かないように気を付ける。
騎士に椅子を勧められ、ほんの少しだけ腰掛けるが、完全に体重をかけるのが怖い。
「気楽になさって」
凛と通る声に、クロエはびくりと肩を震わせた。
気楽になど不可能だ。目の前には女王陛下。その人は若い女性だけれども、やはりオーラが違う。
ベアトリス女王は国の女性の憧れだ。十年間、身を粉にして国に尽くしてきた女王。その人が向かいに座っている。
「急に呼び出してごめんなさいね。カインと仲良くしてくださっていると聞いたものだから、一度はお会いしてみたいと思って」
女王から招待の手紙が届いたとき、ハーパー伯爵は仰天して泡を吹いた。
今日は胃を痛くしながら外で待っているはずだ。
「と、とんでもないです。殿下には大変お世話になっております」
震える声でクロエが答えると、女王はふっと笑みを漏らした。
「あの子、強引なところがあるからお困りのこともあるのではないかしら。迷惑に思うことがあったら言ってちょうだい。でも今日はね、色々外のことも聞いてみたいと思ってお呼びしたの」
女王はもうじき退位して宰相補佐に嫁ぐ。
内緒だけど、と前置きした上で、女王でなくなることを楽しみにしており、最近何か面白いことはないかをクロエに尋ねた。
話してみると、女王は普通の女性だった。クロエは正直に、最近友人との間で流行している歌曲や劇、本や街にある店の話を紹介した。
女王はそれを興味深そうに聞いている。
しばらく話をしていると、扉がノックされてカインが顔を覗かせた。
「あっ、やっぱりクロエだ。陛下、呼んでいるなら僕にも声をかけてくださいよ」
「あなたは呼んでいないわ。二人だけで話をしたかったのよ」
カインの後ろから宰相補佐も入ってきた。女王の結婚相手だ。部屋に入ってきて、女王と目を合わせてふわりと微笑む。冷たい印象だったのに、その表情をクロエは意外に思った。
彼はカインに「押してダメなら引いてみろ」とアドバイスした人でもある。多少文句を言ってやりたい気もするが、それを堪えて頭を下げる。
「あ、いいな。その砂糖菓子、人気の店のでしょう」
机に置かれた菓子をカインが指差した。二つあった内の一つはすでに女王の腹の中なので、残りは一つ。
「殿下、横取りはやめてください」
「食べてないからいらないのかと。食べたいの?」
クロエが頷くと、カインは「うーん」とにやにやしだした。
クロエも、カインの考えていることを理解した。
「ま、ハーパー家のやり方に従ってもいいよ」
「臨むところですよ、殿下。負けたからってべそべそ泣かないでくださいね」
クロエの挑発にカインはちっと舌打ちした。美しい顔を歪ませる。
「誰かがばらしたな」
王子様らしからぬ悪人顔。全然怖くないけども。
それから机の上のカップを隅に寄せ、クロエもカインも腕まくりをする。
突然の二人の行動に、女王が目を丸くした。
「え? なにが始まるの?」
「陛下、腕相撲するんで合図してもらえます?」
「ええ?」
理解は出来なかったようだが、女王は合図を出すのを了承した。
クロエとカインは机の上で肘をつき、右手を組む。
握ったクロエの手の強さに、カインが一瞬怯んだ。それに気付いたクロエはほくそ笑む。
──そうそう、男兄弟ばかりだから私は強いのよ。本気出さないと勝っちゃうわよ。
立会人は、女王と宰相補佐。
「二人とも、準備はいい? いくわよ──」
クロエは合図と同時に、右手に力を込めた。
《 おしまい 》