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カインのことは嫌いではない。少なくとも会っている限り、穏やかだし、落ち着いていて、素敵な人だと思う。
付き合いが長くなれば令嬢たちが言っていたように泣き出すこともあるのかもしれないが、泣く男の相手は兄弟で慣れている。許容範囲内だろう。
むしろ自分が王妃になることを考えると、そちらの方が不安だ。
「大丈夫だと思いますわよ。殿下はご家族とか大事なものはとても大切になさる人ですし、困ったことがあれば対応してくれる方ですもの」
クロエは以前会った公爵家の令嬢に誘われ、仲間内での読書会に呼ばれていた。先日会った令嬢方も何人かいる。
カインの恋愛話を聞くために誘われたようだが、クロエは逆に今のあやふやな気持ちを相談していた。
「でも私に殿下のお妃が務まるのか不安なんです……」
「クロエさんなら平気ですよ。しっかりしていらっしゃるから。私たちもいるし、困ったことがあれば味方になりますわ」
お茶会で会った上位貴族の令嬢方の対応はクロエを勇気付けた。
一部の令嬢とは手紙のやり取りをするようになり、社交界で今後交流する上で良い関係を築けそうな人たちばかりだ。迷ったら力になってくれるだろう。
「あの、皆さまそんなに殿下のことをよくご存じでも妃になりたいとは思わないのですか?」
「前に申し上げた通りですよ。わたくしたちだって、自分のことを愛してくださる方のところに嫁ぎたいわ」
クロエの質問に、令嬢たちはころころと笑う。皆、カインのことを本当に幼なじみとしてしか見ていないようだ。
クロエはカインと会っていたときのことを思い出す。
カインはいつも、家族のことを聞きたがっていた。
彼の父は若くして亡くなっている。そのこともあってか、確かに家族を大切にしているように見える。
彼の母、兄弟、そして叔母である女王。きっと妃になる妻も大切にするだろう。
それに、彼はいつも話をよく聞いてくれた。今後困ったことがあっても、自分で考えろと放り出されることはなさそうだ。
今までは面接に臨む気持ちでカインからの質問に答えるだけで、クロエから積極的に彼を知ろうとはしていなかった。
しかし、今は少し違う気持ちだ。カインのことを知りたい。
「……私ももっと、殿下のことを知りたいと思います」
クロエがカインとの将来について前向きな発言をすると、皆、微笑んで頷いた。
♢
クロエは夜会に出ることになった。カインも参加するものだ。
カインと会わなくなってしばらく経つ。直接顔を合わせるのは久しぶりだ。
この間にも、家族たちと話し合い、友人となった令嬢たちとやりとりを重ね、将来への不安を洗い出してきた。
その上で、今夜はできれば自分の今の気持ちをカインに伝え、交流を再開できないかとクロエは思っている。
もう少しゆっくり、お互いのことを知っていきたいと伝えるのだ。
もらった髪飾りを付けて会場に着くと、すぐにカインの姿を見つけた。
隣には宰相補佐。つい最近、ベアトリス女王の降嫁先として公表された人だ。
カインは関係者らしき人たちと談笑していた。クロエも父に連れられて挨拶をしたり、久々に会う友人と話す。
こちらからは王太子であるカインには話しかけられない。基本的には話しかけられるのを待つしかないのだ。
クロエは声をかけられるのを今か今かと待っていた。
しかし、話しかけられなかった。
ダンスもだ。
一番目に誘われるのは以前断ったので、いつもなら必ず二番目に誘われる。
それなのに、クロエはカインに誘われなかった。けれども彼は、他の美しい女性と代わる代わる踊っている。
その日、クロエがカインに声をかけられることはなかった。
自分に気付かなかったのだろうか。たくさん参加者がいたし、見つからなかったのかもしれない。
そう思ったクロエだが、自分の考えが間違っていることにすぐ気付いた。
その次に夜会に出席したときも、カインはクロエに見向きもしなかったのだ。
今回は気付かなかったということはない。なぜなら、ハーパー伯爵とは挨拶を交わしたからだ。
カインは父と挨拶すると、隣にいるクロエを見もせずにその場を離れた。
まるで視界にも入らないかのように。
クロエは純粋にショックを受けた。
無視されている。
確かに、考える時間が欲しいとは言った。だからといって、無視するなんて。
あれだけしつこく誘いをかけ、花や手紙を送ってきて、結婚したいと言っていたのに。
殿下は執念深いわよと言っていた令嬢たちの言葉は嘘だったのだろうか?
クロエはもやもやとした気持ちを抱えていた。
♢
その日、出仕していた父に忘れ物を届けるためにクロエは王宮を訪れていた。こういったことはたまにある。
普段は兄が届けに行くことが多いが、その日は兄たちは不在だったので、代わりにクロエが行くことにした。
王宮は広大だが、初めて来た場所ではないので迷うことはない。
王宮は、中央の大廊下を挟んで右側一帯は事務官など出仕する人たちが働くエリア、左側一帯が王族たちの居住エリアとなっており、正面から奥は式典のための部屋や王族しか入れない機密性の高い場所だという。
クロエがカインを訪ねるときには左側に広がる王族のための建物を訪ねていた。今日は反対の右側だ。
クロエが父に忘れ物の書類を届け、広く大きな廊下を通って帰ろうとしたときのことだ。
前方から、騎士を従えたカインが歩いてくるのが見えた。どこかから帰ってきたところのようだ。
クロエは予期せず会えたことにどきりとした。
周りに往来する人はいるけれども、一対一だ。
ひょっとすると声をかけてくれるかもしれない。クロエは歩く速度を少し落とした。
前方のカインは一瞬、足を止めた。確実に自分に気付いたことがクロエには分かった。
王族が通るときには道を譲って頭を下げ、通り過ぎるのを待たなければならない。
数メートル近付いたところで、クロエは足を止め、少し脇に寄って頭を下げた。
声をかけてもらえるかも。
声をかけて欲しい。
しかし、それは叶わなかった。
カインはそこにクロエがいないかのように、何の反応も示さず通り過ぎたのだ。
クロエは自分の大きな勘違いに気付いた。
この二人の関係性は、自分の方に主導権があるかのように思い込んでいた。
そんなはずないのに。驕っていた。
相手はこちらから声もかけられないような人で、普通なら話をすることなど叶わないのだ。
それなのに。優しくされたものだから、自分が選ばれると思っていた。考える時間が欲しいなどと生意気なことを言って。
あまりにも痛い思い込みにとんでもなく恥ずかしくなり、クロエはしばらくその場に立ち尽くした。
胸がじくじくと痛む。無視されることがこんなに辛いなんて。
自分の思い上がりが恥ずかしくてたまらない。
こんなことになって初めて、クロエはカインのことを好きであることに気付いた。
こちらから彼に会いに行ったり声をかけたりすることは許されない。
このまま、カインとの関係性は終わってしまうのだろうか。
話しかけられるのをずっと待つ? いつまで?
──それは違う、とクロエは思った。
待ってくれと言ったのは自分の方だ。気持ちの整理が出来たならそのことをきちんと告げるのも自分の方からであるべきだ。
それに。
欲しいものを手に入れるには、戦わなければならない。