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クロエは、目の前にいる美しい青年のとろりとした甘い視線から逃げるように顔を背けた。
つい先ほど、完全に失言をしたと青くなったのに、それに対しての反応がこれとは、いったいどういうことなのだろう。
毛足の長い絨毯の柄の境目を見つめながら、クロエは今朝のことを思い出していた。
♢
「いいか、クロエ。粗相はしないようにな。無理に頑張る必要もないから、普通で」
「普通」
汗ばんだ手を肩に感じながら、クロエは父の言葉を繰り返した。
ハーパー伯爵家に王家から招待の手紙が届いたのは数日前のことだ。ハーパー伯爵家はそれほど裕福でもなければ貧乏でもない、貴族の中では普通の家庭。
しかし王家から式典以外で名指しで招待状が届くことなど稀なことだった。
目的は王太子カインの見合いだ。
もうじき、ベアトリス女王が退位する。彼女は若い頃から十年間女王を務めており、その後は女王の甥である王太子のカインが即位する予定だ。
カインが即位に合わせて嫁探しをしているというのは明言されてはいないものの、それは明らかだった。
王太子が婚約者のいない貴族令嬢を順繰り呼び出していることが大きな噂になっていたためだ。
それでも、ハーパー伯爵家には関わりないことだと家の皆は思っていた。
家柄がものすごく良いわけでもないし、有力貴族との繋がりもない。目立たない家なのだ。
そんな中、見合いの知らせが来て、ハーパー伯爵は仰天した。
娘を王妃にするなど考えたこともない。そんなことになったら胃に穴が開きそうだと感じたハーパー伯爵は、娘を呼び出して言い含めたのだ。
とにかくまずは失礼のないように。それから、無理に自分を良く見せる必要はない。普通に話をして帰ってくれば良い、と。
ハーパー伯爵から見てクロエの性格は良いが、絶世の美女というわけではないので、未来の国王に見染められることなどはないと思っている。
ただ、さすがにそれを娘の前で口に出すのはデリカシーに欠ける。言葉を濁した。
「普通…」
眉を寄せて俯いたクロエは、「普通」の意味を考える。
十七のクロエは五人兄弟の真ん中で、上も下も全て男。唯一の女子なら蝶よ花よと育てられそうなものだが、そうはならなかった。
男勝りとまではいかないが、兄にはきちんと意見し、弟の面倒をよくみる、しっかり者の少女となった。言い方を変えれば、初々しさには欠ける。
おっとりとしたハーパー伯爵夫妻は積極的にはクロエの婚約者を探そうとしていなかった。出来れば好きな相手に嫁いで欲しいし、しっかりしたクロエなら、社交界に出入りしていれば誰か捕まえてきそうだと楽観視していたのだ。
そのためクロエに決まった相手はいない。
「失礼なことさえ言わなければ良い。クロエは落ち着いているから、あとは正直に聞かれたことにお答えしなさい」
「分かりました」
呼び出された時刻通りに王宮に入ったクロエは、さすがに緊張した。騒々しい男兄弟に挟まれ、自分でも落ち着いている方であると認識していたものの、煌びやかな空間に圧倒されたのだ。
高い天井、華やかな装飾、布物はふわふわ。
部屋に通されたクロエは、自分が座ることで椅子が汚れるのではないかと不安になり、出来るだけ接地面積を少なくするよう浅く腰掛けた。
目の前に出された湯気の立つカップには美しい飴色の液体が入っていたが、手をつける勇気はない。
心の中で、普通、普通…と唱え、緊張して冷たくなった手を握りしめるが、呼び出した側は一向に現れない。
カップから湯気が消えてしばらくし、体勢に疲れたクロエが椅子に腰かけ直したときになってようやく、その人が現れた。
「お待たせして失礼した」
本当に急いできたのか、髪が少し乱れている。クロエは失礼と分かりつつも、目の前の青年をまじまじと見てしまった。
金色に近い明るい茶髪にそれと近い色の瞳。切れ長の目はとても理知的に見える。彼を遠目では見たことがあったが、間近で見てもとても美しい人だと思った。
カインはクロエの向かいに座ると、視線を上げた。ばちりと目が合ってしまい、どきりとして慌てて頭を下げる。
「クロエと申します」
「よく来てくれたね。遅くなって申し訳ない」
カインは少しだけ微笑んだものの、その目は試すようにクロエを見ている。
クロエはここに来た目的を思い出した。そうだ、失礼のないように、聞かれたことに正直に答えるのだ。
「クロエ嬢、急に呼び出されて緊張するよね。目的は知っていると思うけど、少しお喋りに付き合ってもらえるとありがたいな」
「はい」
それからカインはクロエにいくつか質問をした。家族のこと、友人のこと、普段なにをしていて、どんなことが好きか。それらの質問に出来るだけ正直に答える。
「へえ、刺繍が得意なの」
「はい。こちらをご覧ください」
クロエはハンカチを取り出すとカインに差し出した。国の紋章を模った刺繍。針仕事はクロエが唯一、自信のある特技だ。
受け取ったカインはそれを見て感嘆した。
「これはすごい。王宮の職人にも引けを取らない出来栄えだ」
「お褒め頂き光栄です」
クロエの返答にカインは苦笑した。
「採用面接をしてるようだ」
実際そうだろうとクロエは思ったが、口には出さなかった。
クロエは親のやる気が感じられなかったので、自分で結婚相手を探す必要があると認識している。そのために淑女らしい特技が必要だ。幸い刺繍が好きだったし、向いていた。
この見合いの場で王太子に特技を認識してもらえれば、それが噂になって誰かが興味を持ってくれるかもしれないとクロエは考えた。
しかしカインはそれ以上は反応せず、ハンカチをクロエに返す。クロエはがっかりした。
すると入口の扉がノックされた。
扉はずっと開けられており、すぐ側には騎士が控えている。ノックしたのは事務官らしき人物だった。見合いの終わりを告げに来たのだろう。
カインは振り向いて事務官に軽く頷くと、思い出したように「ああ、そうだ」と呟いた。
「質問しても良い?」
「はい」
「クロエ嬢は、食べたいものが僕と君でその場に一つしかない場合、どうする?」
「戦います」
「えっ?」
問い返されて、クロエははっとして口を噤んだ。
聞かれたことに正直に答えたが、これは淑女としては失言だったことは分かった。
そして、冒頭に戻る。
♢
クロエの失言の後、カインは目を丸くして固まっていた。それから扉に控える事務官に「次の予定は無理」と告げ、体勢を正して椅子に深く腰掛けた。
なぜか嬉しそうに頬を上気させてクロエを見る。
「あの、時間なのでは…?」
「いいんだ、それより戦うというのはどうして?」
「いえ、失言でした。申し訳ございません、ご容赦ください」
クロエは正直に深々と頭を下げた。
彼の様子では引かれはしなかったようだが、自分と食べ物を取り合うなどと言われて良い気分はしないだろう。
しかしカインは首を横に振った。
「いや、そうじゃない。理由を知りたくて」
カインに食い下がられ、正直に答えて良いものかどうか迷ったクロエだが、取り繕うのももう遅いようにも思った。言葉を選びながら答える。
「我が家には男兄弟が大勢おりまして、食べたいものは食べたいと言わないと食べられないもので」
「そう…」
けして貧乏というわけではない。例えば来客時の手土産が人数分ないときなどは取り合いになることはあったのだ。
さすがに引かれたかと思い、伏せていた目を上げてちらりとカインを見ると、彼はなぜか恍惚といった表情だった。
クロエの方が引いた。
「僕も兄弟が多くてね。そういうときにはだいたい主張の強い、声の大きいやつが勝っていたね。君のところは?」
「よくやっていたのは腕相撲ですね。さすがにもう、なかなか勝てませんけど」
「それは僕も鍛えないといけないな」
この人も冗談を言うんだと思いながら、クロエは曖昧に微笑む。
「そういえばハーパー伯爵家か。お兄さんには以前、剣の稽古をつけてもらったことがあるよ」
「それはきっと上の兄ですね。剣が得意で騎士をしています」
二人はしばらく兄弟談義をしていたが、またもや扉が叩かれた。今度は先ほどよりも強めだ。
カインがちっ、と舌打ちして前髪をかき上げる。美しい顔にそぐわぬその悪者顔にクロエはまた引いた。
隙のない王子様だと思っていたが、今のは年相応の青年に見える。そういえば彼は自分と同い年だった。
「引き止めて悪かったね。気をつけて帰って。また」
「こちらこそ、お時間を頂きありがとうございました」
とりあえずこの時間を乗り切ることができたクロエはほっとして肩の力を抜いた。失言はしたものの、特別引かれたりもしなかったようだ。父の言いつけは守れた。
帰り際に事務官からお土産ももらい、クロエは意気揚々と帰宅した。