56 逃がさないよ?
本能的に後ろへ逃げる。
次の瞬間、牙がかみ合わさる音がした。
あと0.何秒か遅れていたら、確実に死んでいた。
モースの口が開き、目が暗闇に浮かび上がった。
口から覗く牙は、毒が塗られて鈍く光っていた。
「へえ、俺の攻撃を避けられたか。残念だなあ、この手、今まで結構有効だったんだけど」
「そんな簡単に死んでたまるかよ、モース!」
俺は一言叫び、モースに向かって飛び出した。
一瞬で距離を詰めると、
斬ッ!
俺はモースの首を狙って刀を振る。
だが、刀が何かを斬ることはなかった。
「金色の錬金術師君、俺が蛇だってこと覚えてるよね?体を自由に動かせるんだよ」
突然、背後からモースの声がした。
ばっと振り返る。
目の前で、ぬらぬらと牙が光っていた。
咄嗟に牙を折り取ると、俺はモースの頭上へ逃げた。
モースが痛みで呻くのを後ろに聞きながら、俺は上へ上へと泳いだ。
不意に、足に何かが絡みつくような感覚がした。
すさまじい力で、俺を引きずりおろしていく。
抗えない!
「逃がさないよ?」
耳元で響いたその声は、狂気を孕んだ危険な響きを伴っていた。
「あら、それはこっちのセリフよ。モース」
アシーナの声が、暗闇の中ではっきりと響いた。
モースが、俺の首元から牙を放した。
足の拘束が解かれていくのがわかった。
咄嗟に飛び出し、俺はモースを見下ろした。
鋭く正確に弧を描いた2つの光が、俺の目に映った。
次の瞬間、モースが悲鳴を上げた。
鼻につく血の匂いがした。
モースの血だろう。ぼんやりと亡霊のように輝く血は、辺りにゆったりと広がった。
ほんのり明るくなった海底に、モースの尾が断ち切られて落ちているのが見えた。
俺は水を蹴り、猛スピードでモースの頭へ近づいた。
アシーナとソルドが二人で彼を陽動している。
背後から近づき、俺はチャンスをうかがった。
不意に、モースが強く3度首を振った。
突然、強い流れが発生した。
俺はその場にとどまることができず、波に押し流された。
近くにあった岩壁に背中を思いっきり叩きつけられ、一瞬意識が遠のいた。
次に目に入ったのは、俺の首に牙を当てるモースの姿だった。
黒い瞳孔が赤く血走り、折られた牙があったところからは血をだらだらと流しながら、狂喜の表情で俺の首筋を眺めていた。
彼の体は、俺の体にゆっくりと巻き付いた。
そして、絞め殺さんばかりの力で俺を捉えた。
「逃がさない、って言ったでしょ、金色の錬金術師?」
…逃げようがない。
絞め殺されるにしろ、嚙み殺されるにしろ、毒で殺されるにしろ、俺に勝算はない。
どこか諦めのような精神が、俺を支配した。
ふっと笑みが漏れた。
自嘲的な笑みだった。
ああ、俺はここで死ぬんだな。
願わくば、できるだけ苦しまずに死にたい。
俺は死を確信し、ゆっくりと目を閉じた。
首筋に当たっている牙に全神経を傾け、俺はその瞬間を待った。
不意に、瞼の裏にアシーナの笑顔がよぎった。
…アシーナ。そうだ、俺は彼女のために死ぬわけにはいかないじゃないか。
生への諦めが、きれいに払拭されたような気がした。
代わりに、生への執着心が体の底から湧いてきた。
死んでたまるか!どんな状態でもあきらめるんじゃない!
俺は目を開け、モースを睨んだ。
彼の瞳が、俺の目を捉えた。
彼の神経をそちらに集中させているうちに、俺は腕が動くがどうかを確かめた。
右腕は…無理だ。これはかなり頑丈に絞められている。
左腕は…まだぎりぎり動かせる!
無理に力を出し、左手の捕縛を解く。
その勢いのまま、モースの顔面を左手で掴んだ。
何が起きたかわかっていない表情の彼に、俺は言い放った。
「じゃあな、モース」
ぐっと力を入れ、俺は叫んだ。
「分解っ!」
ホワイトノイズのような、ザラザラとした耳障りな音が脳に直接響くように鳴った。
反射的に目を閉じ、手に意識を集中させた。
先ほどまでがっちりモースをつかんでいた手から、物を掴んでいるという実感が消えうせた。
そして、静寂が訪れた。
俺とアシーナ、ソルドの息遣い、遥か上でさざめく波の音。
僅かに見える水面の光を捉えるべく、俺は薄く目を開けた。
疲労で平衡感覚が失われていたのだろう。目に入ったのはモースの血でぼんやり光る砂だった。
目の端に人間の骨のような白を捉えたような気がした。
だが、それが何なのかをはっきりととらえる前に、モースの血でぼんやりと光る空間がゆがみ、俺の意識は暗闇に溶けて行った。




