52 アシーナ
そして、特に何かが起こることもなく一日が終わった。
朝食を食べたら見回りをして、昼ご飯を作って(この時、火の番がアシーナだったせいで6匹の魚がすべて炭になりかけた)食べて、また見張りをして。
そんなこんなで、気が付いたら夜になっていた。
だから、せっかくならもう一泊しよう、という話になった。
夜の帳が降りきり、満天の星空が上空に広がっていた。
月は、ちょうど雲に隠れて見えなかった。
俺とアシーナは、並んで地面に寝転がりながら空を見ていた。
ソルドはというと、すでに小屋の中で眠っていた。
「ニーケ。今夜は月が綺麗ね」
不意に、隣のアシーナから声がした。
俺は首を回し、彼女の顔を見た。
彼女も、俺を見ていた。
艶やかに星をはじいて光る、吸い込まれそうな漆黒の目が美しかった。
寒いはずなのに、頬が僅かに熱くなるような感覚が俺を襲った。
彼女の目を直視しているのがなぜか気恥ずかしく、俺は顔を空に向けた。
時折感じていたこの感覚が、あと少しで何なのかわかるような気がした。
そして、できるだけいつも通り、素っ気なく言えるように努力しながら言った。
「月、今見えないよ?」
アシーナは体を起こして俺を覗き込んだ。
滑らかな黒髪が頬を撫でた。
降ったばかりの様な雪のごとく白い肌が、夜の闇よりも深く艶やかな黒髪が、星空にこのまま溶けていきそうな、柔らかく輝くつやめいた黒い目が、うっすらと微笑む、桜よりも上品な唇が、今は何よりも愛おしく思えた。
心臓が早鐘を打つ。まるで、俺が彼女にどんな感情を抱いているのかを知らせるかのように。
ああ、この感情を、恋って言うのか。
彼女は少し頬を赤く染め、拗ねたようにうっすらと唇を尖らせてそっぽを向いた。
「分かってくれると思ったんだけどなあ」
その様子に、思わず俺は微笑んだ。
そっと体を起こすと、俺は彼女の髪を撫でた。
「ごめん、わかってるさ。まさか、と思う気持ちが強くて」
アシーナは目線を上げ、俺を見た。
照れ隠しをしきれていない、少しすねたような口調で彼女は言った。
「答えは?くれないの?」
星を映し、その目は美しく輝いていた。
俺は彼女をそっと抱き寄せた。
彼女が僅かに体を硬くするのがわかった。
そっと口を寄せ、俺は耳元で囁いた。
「月が美しく見えるのは、あなたと見る月だから」
下におろされていた彼女の手が、俺の背中に回った。
どちらからだったかのか、俺にはわからなかった。
唇に、柔らかく熱い何かが押し付けられた。
夜の闇に守られ、俺たちはその時間をじっくりと味わった。
今まで感じてきたどんな幸せよりも、満ち足りた幸せが俺の心を満たしていた。




