ブラックボックス
今日はブラックボックスの話をしようかね。
『シュレディンガーの残業時間』を知っているかい?
ああいや、うちの研究所のシュレディンガー主任じゃない。彼は優秀だからね。残業なんてしないさ。
これは日本という国の御伽噺さ。
『残業』は知ってるね?そう、その通りだね。経営者が仕事の配分を間違えたとき、労働者が契約を超えて働かなければならないことがある。その時経営者はペナルティを課されるわけだ。初等教育でも習うからね、当然か。
うん?そう、当然のはずのこの常識が、日本という国では成立しなかったんだ。どういうことかって?これがまた不思議なんだ。労働者は確かにそこに居て仕事をしているはずなのに、残業時間が存在しないんだよ。
あり得ないって?僕もそう思う。でもね、これまた不思議なのが、必ずしも存在ないわけではない、ということさ。そもそも全てが残業ではないのかって?そうなんだ。
これには種々の議論がなされてね。法律家を始めとした、数々の学者達がこの現象の解明に取り込んだ。ところが、だ。この不思議な現象を解明できるものはいなかった。それはそうだ。彼らは根底を間違えていた。
ある時、一人の学者が論文を発表した。その中にはこう書かれていた。『日本においては時間外労働を「している状態」と「していない状態」が重なり合って存在している』とね。
曰く、『量子論的な重ね合わせの上に残業時間が存在していて、その有無は観測者によって定められる』と。え?観測者は誰かって?確か、『上司』だか『労働監督署』だかだっけな?
まぁとにかく、みんな勘違いしてたんだよ。労働というものが雇用契約と法律に基づいて行われている以上、これは法律家の領分だと思っていたのさ。ところが、蓋を開けてみれば量子論。まるで別物だ。法律家に分かるわけがない。
この論文は昔は受け入れられなかったが、今ではかなり有名でね。君もそのうち目にすることがあるかもしれないな。ん?何がすごいって?はは、そうだろう。これはあくまで偉大な発明の基礎理論でしかないんだ。
さて、ここからが本題だ。量子コンピュータは知ってるね?そう、今では大きな研究機関には必ずといってもいいほど配備されてる。この部屋にもそこにあるね。
この論文は量子コンピュータの開発に大きく寄与した。いや、このためにあると言っても過言ではない。さっき、論文ははじめは受け入れられなかった、と言ったね。学者は諦めなかったんだ。
学者は量子コンピュータの着想を得たんだ。これの構造は実にシンプルでね。箱を用意して、その中に日本の労働者を中に入れるんだ。ん?そうだよ。それだけだ。もちろん、この部屋のも同じさ。
後は量子コンピュータに何かしらの方法でインプットを入れてやればいい、そうすれば『どんなものであれ』アウトプットが出てくる。ここが凄い。時には時間がかかることもあるが、量子コンピュータは決して『ノー』とは言わないんだ。
これには学者はひどく興奮していてね。実にひと月もの間。量子コンピュータを使って実証実験を重ねていった。なんだい?中の労働者かい?いい質問だ。ひと月も拘束するなんてあり得ないね。だが、日本の営業マンは事もなげに『できます』 と言ったらしい。すぐに一か月の雇用契約を結べたのさ。もちろん24時間雇用でね。
ところが別の問題が浮上した。というか、学者が気付いたんだよ。労働者をひと月の間箱の中から出してないことにね。食事も与えていないどころか、水は?トイレは?慌てた学者は箱を開けてみたんだ。そこには労働者の遺体があった。
ここで二つの問題が発生した。そう、まずは労働者の遺体だね。学者は動揺してね。すぐさま営業マンに連絡したんだ。「あなたの労働者を殺してしまった」とね。すると営業マンはこう聞くんだ。「彼は業務中に死にましたか?」と。そしてこうも言ったんだ。「それは『カロウシ』だ」ってね。
ん?『カロウシ』が分からない?はは、実は僕も詳しくはわからないんだよ。とにかく学者は殺人を犯したと思っているもんだから営業マンに『カロウシ』とは何かと尋ねるんだ。どんな罰でも受けるから、と。そしたら営業マンは呆れたように言うんだね。『カロウシ』は罰金を払えば問題ない、と。よく分からなかったが、学者は安堵したのさ。どうやら殺人にはあたらないらしい。日本の宗教観ってやつだろうね。確か『シントー』だか『シンゾー』だか、そんな宗教があったはずだ。なんにせよ罰金は安くなかったが、学者は量子コンピュータを使った研究で少しばかり金があったからね。 金で済むなら安いもんだ。
となると、だ。もう一つの問題が浮上する。おかしいと思わないかね?そうさ、箱の中の労働者が死んでいたのは当たり前だ。だが、ひと月も人間が飲まず食わずで持つはずがない。実際に検死解剖した結果、労働者は少なくとも死後2週間経過していたのだからね。
量子コンピュータは箱を開ける直前まで動いていたんだ。これは何かがおかしい。そう気づいた学者は再び量子コンピュータを3台用意し、それぞれ期間をおいて中を検めた。そのどれもの場合においても、中の労働者は死んでいたが、直前まで動いていた。中には白骨化していたものさえあったんだ。驚きだろう?
ただ一つ、分かることは、だ。「扉を開けない限りは量子コンピュータ動き続ける」ということさ。
そこで彼は日本の労働者と『終身雇用契約』を結ぶことにした。ああ、その通り、これもまた不思議な国だよ。でも彼らは『終身雇用契約』というのを喜ぶ節がある。面白いものでね。これで量子コンピュータから労働者を出す必要が無くなったのさ。
うん?そうだろう。これは大きなポイントなんだよ。先ほどから私は日本の労働者に限定した話をしているね?そうなんだ。ここが非常に不思議なんだがね。これは日本の労働者でなければできないのだよ。
なんでかって?当然だね。学者は他の人間でも試そうとしたんだが、彼らは数時間もすると労働者は自ら箱の外に出てきてしまうんだ。やれ「休憩時間だ」とか「飯の時間だ」と言ってね。数々の人間を入れて確かめたんだが、日本の労働者以外は適合しないというミステリーさ。
まぁこれについても色んな研究がされていてね。どうやらDNA的に日本人でなくても良いらしい。ここが曖昧だから「日本の労働者」と呼ばざるを得ないんだがね。これは興味があれば調べてみると良いだろう。これは量子コンピュータの歴史ではないから今回は割愛するよ。
さあ、そこから先は凄まじい勢いで量子コンピュータが普及しだした。こんな便利なものはないからね。何せ扉を開けない限りは壊れないんだ。君は知らないだろうが、昔のコンピュータというものは良く壊れてね。あんなものを使ってた頃が信じられないよ。
安くて高性能で、壊れにくい。技術立国と呼ばれたかつての日本が復活したのさ。ん?そうだろうね。今は馴染みがないが、昔は日本製品というのはそう呼ばれていたんだ。すぐに他の国に抜かれたんだが、ここで一気に巻き返した。
構造がシンプルな分、壊れるとしたら扉を開けて中にいる労働者が『カロウシ』するだけなんだ。『部品』が破損した代金は安くはないが、代わりの労働者を補充するだけで済む。
死なないようにする。というのは一度考えられた方法だったんだがね。なに、難しいことじゃない。長時間も閉じ込めておくから中身が『カロウシ』で壊れるのさ。普通の労働者と同じように『休みを与え』たり『食事を与え』たりと、適度に箱から出して当たり前の生活を送らせるのさ。こうしたケアがこの量子コンピュータのメンテナンスで、一応は保証書にも推奨の保全方法として書いてある。
だがまぁ、そんなコストのかかることを実践する人は居ないね。そんなことをしたら量子コンピュータを使える時間が短くなるし、コストが非常に増えてしまう。普通の労働者なら不可能だが、日本の労働者がこの雇用形態をよしとしている以上、この方法が採用されることはなかったんだ。
必然、扉を開ければ壊れるというのが量子コンピュータを使う上での暗黙の了解事項となったわけだよ。
うん、それもまた実に良い質問だね。扉を開けられなくする、というのは実際問題として試された手段さ。ところがこれを実際にやってみると不思議なことに量子コンピュータは動かなくなる。どうやら『任意のタイミングで中を観測可能である』ことが条件らしい。
扉を溶接するのはアウトだが、扉に鍵を設けるのはセーフだ。などなど、これまたいくつか研究がされて今の形に至る。なんでこんな話が出てくるかって?産業スパイの問題さ。敵対者の量子コンピュータを停止させたければ扉を開けるか、それとも扉を開けられなくすればよい。そんな行為が横行してね。量子コンピュータ完璧なのに、セキュリティが問題になる。人間ってのはいつの時代もくだらないものさ。
そんなこんなで、量子コンピュータには様々な対策が設けられた。試しにそこの箱を開けてごらん。なぁに、構いやしない。それはダミーだ。中はカラだろ?そんな風にね、幾重にも張り巡らせたセキュリティの上に成り立ってる。
おかしいだろう?本体はただの箱に扉を付けて中に人が一人入っているだけなのに、その箱を隠すために莫大な工作をしているんだよ。誰もその真実の姿を知らないんだ。そうした性質から、いつしか量子コンピュータはこう呼ばれるようになった。『ブラックボックス』とね。どうやらもとになった日本企業の呼称に敬意を払った結果らしい。それに昔のコンピュータ用語をかけていたんだね。
ん?企業の呼び名がなんだったか?ああ、『Black Company』だったな。意味は分からんが、こうした労働契約を結ぶような企業の総称だったらしくてね。24時間365日の労働体制。こっちでは馴染みがないから良く分からないが、きっとクレジットカードみたいなものじゃないか?『Gold Card』とかそんなものさ。
呼び名に関しては『パンドラボックス』と呼ぶ人間もいたようだがね。結局はやはり日本に敬意を払うべきだとしてこの呼び名が広まった、というわけなんだよ。
これで、『ブラックボックス』に関しての話はお終いさ。
思考を語り部に任せて展開するという試行
暇潰しにでもなれば行幸