3 優位に立ちたがる人たちって苦手よね、という話
たまに、いますよね。
「私は! あなたよりも! こんなに! 〇〇なの!」
なーんて、イマドキ風味に言うならば「マウントとりたがり」の御方々。
〇〇に入る言葉は、なんでもいい。例えば容姿の比較であったり、衣服や持ち物やら知識やら業績やら。なんにしても人というもの、他者と我が身を比較して優劣をつけたがる。
嘘いつわりなく、私にもそういうところは確かにあります。裏返せば自分の持っている劣等感の強さ、そのものなんですけれどもね。
でもねえ。
最近そういうの、メチャクチャ苦手になってきてしまった。目の前にいる人に、こちらが優位だと誇示してなんの得があろう。単なるオナニーと変わらないんじゃないのかな。
それにマウント取ってくる人間のドヤ顔の、なんと醜悪なことか。二度とそんな顔は見たくなくなるよね、たとえ相手が自分の全部を否定しているわけではないと理解していても、心情的には
「ああ、この人。自分のことを『あんたよりも、こっちは格段に上なの!』『あんたなんかゴミ同然!』なんて、強く思っているんだな。この人とは『対等な付き合い』なんて、無理なんだな」
って思っちゃうよね。
時と場合を選んで言いたいことをズケズケ言いながらも、やさしい気持ちを通わせ合っている間柄とは決定的に違う。
一緒にいて優劣しかない間柄なんて、とても寂しい。劣位だと思い込まされる側は、心を通わせたくても、相手のことを好きでいたくても、心の中はズタズタに傷ついている。
だって思い知らされているんだもの。
「『おまえなんか! こっち側と素直な心を通わせることができるほどの価値なんて、これっぽっちも! ないわ!』って、言いたいんだな」
そんな風にね。
優位だと誇示した側は、どうなんだろう。十分に身に覚えある、自分の恥の歴史を振り返ってみる。
周りの人にマウントを取ることで幸せ気分になっただろうか。一時的に気分だけでも、良くなっていただろうか。
少なくとも、私は。
周りと自分は違うと思うことで、そのときの我が身を支えていたはずだ。くじけそうな心を支えていたはずだ。恥ずかし気もなく、傲慢で、鼻もちならないイヤなヤツだったはずだ。
ええと。
物事を教えたり教わったりする立場同士であれば、優劣を明確にする関係は美しく成り立つ。けれども、そうじゃない間柄の場合は、やっぱり違ってくると思う。
どうせなら互いに言いたいことを笑顔でズケズケと言い合い、それでいて細やかに気持ちを通い合わせられる人に逢いたいよね。
どちらも互いの存在を長短含めて受容していなかったら、無理なんだろうね。
優位性を誇示してくる人は、きっとこちらを受容していないのだろう。悲しいことだけれども、そこはあきらめるしかないんだろうね。
「あんたなんかよりも、自分の方が格上なんだからね」なんて、見せつけてくる相手が、自分自身の欠落している部分をたくさん持っていたとして。そういうところが好きなら、付き合うかなあ。劣等感を持たせよう、持たせようと相手が仕掛けてくるとしてもね。やっぱり、補完の関係は貴重だと感じるからなあ。
おととしだったかな。通っているスポクラの社長が、何気なく言っていたんだよね。
「人間だから好きな人もできるし、嫌いな人もできる。それは仕方ない。けどね。いくら嫌いな人だといっても長所を認められない生き方なんて、さみしい」
物覚えが悪い私なのに、その言葉は不思議と記憶に残っている。
あー! ぼんやり考えていたこと、社長が言葉にしてくれてる。うれしいな。
そう思ったのね。
だから、かもしれない。そんなこと考えなかったら、私はラクチンに他者に優劣を付け続けて、ラクチンに幸せ気分になれる一生を送れているかもしれない。
そんなこと考えてしまったから、思い煩うようになったのかもしれない。ラクチン幸せ気分に、なれなくなったのかもしれない。
知らなかった方が幸せだったのかもしれない。
こんなこと考えているからだろう。見栄など張らずに素直になれる人は、貴重だと心底から思う。そんな人にも「素直になってもらえる」自分になれたら、いいなあ。ホンット、痛感するわ。