シロガネの勇者(読切)
アルディこと、アルディンギア・アレグリアは、涼しげな夜風に眠気を忘れていた。
開いた窓から差し込む月光が、宿屋の一室を照らす。白いベッドの上で、彼は故郷のことを思い返す。
まだ離れてから時間は僅かにしか経っていないというのに、はるか昔のことを考えているような感覚だった。
先代国王を依り代に、魔王が魔界より顕現したことも。その尖兵たる魔物を退ける要塞都市や、魔王討伐のための勇者を育成する学園でのことも。
かつて初代勇者として仲間と共に魔王を討伐しに向かい、しかし仕損じてしまった祖父との、旅立つ前の誓いも。
語り部が架空を物語るかのように、自分の過去であるとは思えないでいた。
「……おじいさま」
アルディは首飾りに結ばれた水晶を取り出し、祖父を呼ぶ。
旅立つ前に、御守りだと渡されたものだ。必ず、アルディの助けになると言って。
しかし、水晶は返事をしない。当たり前のことだが、アルディは底知れぬ寂しさを感じていた。
自分の立てた誓いを忘れたわけではない。
それでも彼は、外の世界を知らなかった。ゆえに不安に駆られ、故郷の温かさを求めるのは当然と言えた。
――少し、外の空気を吸おう。
静かな寝息を立てる仲間の少女を置いて、アルディは宿屋の庭に出た。
夜中とは言えど、この宵は月の光が強く明方のような明るさがある。
魔力が過剰に生成されている証だ、とアルディは本で読んだことがあるのを思い出した。
日光による陽魔力が月に刻まれた魔法陣を介することによって、月魔力に変換され月光として降り注ぐのだという。
――知識だけなら、誰にも負けない自信はあるんだけど。
自嘲の笑みを浮かべ、アルディは俯いた。
そこへ、一人ぶんの足音が近づく。
アルディは、砂利を踏むそのリズムを知っていた。
仲間の一人である弓使い、テイル・スフェル――親友のものだ。
身に纏う緑色の外套はいつもなら闇夜に溶け込んでいるが、今宵はそうではない。
「どうした、アルディ。夜更かしは体に毒だぞ」
「それ、テイルの言うこと?」
弓を担いで現れたテイルに苦笑し、直後、アルディはその弓の傷に気付く。
テイルは戦闘用とは別に、練習用の弓を所持している。旅の前に自分で作ったのだという。
それに傷がついているということは。
「ま、まさか戦ってたの!?」
「ああ、この弓か? いや、戦ってたんじゃないが、闇に目を慣らそうと思って試しに射ってたんだ。だけどなぁ……」
ばつが悪そうに頭を掻いて、テイルはアルディの前に弓を差し出す。
よく見れば、傷には傷なのだが、魔物の爪や牙によるものではないようだ。
それはアルディに、今にも千切れそうなボロボロの布を連想させた。
「どうにもワカヤナギの太枝じゃマズかったな。俺に合ってない」
「ワカヤナギって、風霊節の若木じゃないか。弓に使うには少し向いてないよ。火霊節にため込んだ水分を吐き出し始めてる、土霊節のアオヤナギを使わないと。……ううん、アオヤナギじゃなくても――いてっ」
分かってるって。
止まらないアルディの解説を止めるように、テイルは壊れかけの弓で彼の頭を小突く。
どうやら、また無駄に話してしまったらしい。
自分の悪い癖だと、アルディは己を戒めた。
「練習したいのはそうだが、色んな木の弓を使って一番自分になじむ弓を作りたい。それが俺の、この旅での目的の一つなんだよ」
「……じゃあ、あんまり口出ししない方がいいかな」
「まあ、たまに知恵を貸してくれるくらいでいいさ。『歩く王立図書館』の通り名は伊達じゃないだろ?」
「『手ぶら勇者の孫』に『努力の魔物』。ナンセンスな仇名はもういらないよ」
「以外だな。気にしてないのかと思ってた」
それこそ心外だよ。
アルディは肩をすくめて、近くにいくつかあった木製の椅子に腰かけた。
相当の年季が入っているのか、ぎぃと音を立て、どこか心地よく軋む。
「僕だって人間なんだ、馬鹿にされたら不快になるよ」
「ああ、悪気はなかったんだ。許してくれよぉ」
このとーり、とやや過大な身振りで謝罪を乞うテイル。
ムードメーカーの一面もある彼の調子に乗せられてしまうと、アルディも怒りをいつの間にか忘れてしまう。
というより、そもそも今は怒っていないのだが。
「冗談だよ。それだけ僕が頑張ってるってことだって、前向きに受け止めてるから」
「……さすがは勇者の孫だなぁ。器も並みじゃねえ」
「茶化さないでよ」
テイルの言葉にアルディが照れくさくなり頬を掻いていると、別の誰かの足音が近づく。
やや硬めの印象を与えるそれも、アルディは知っていた。
ヒルダント・メイム。見るからに老いている彼の弱った足腰でも難なく歩けるのは、技工士たる彼が自ら作った長靴に仕掛けられた絡繰りによるものだ。
彼を包む皮の上着の内側には、アルディには用途の知れない工具がこれでもかと詰まっている。
「ヒルデさんも夜更かしッスか?」
「ま、そうだな。歳くってから寝るのが早くてかなわんかったが、今日はなぜかそうじゃねえ。ガラにもなく興奮してんだろうさ、あの時を思い出して、よ」
アルディはヒルデに視線を向けられた気がして、あの時、というのが何を指しているのかを悟った。
ヒルデはかつて、アルディの祖父とともに魔王討伐隊として旅に出た者達の一人だ。
絡繰りや鍛冶、植物や動物、世界中の国の特徴など、多様な知識を豊富に備え、戦闘こそ満足にできずとも、仲間たちを陰から支え続けていた。
ただ、先代魔王討伐隊はゴロツキ共の集まりと言われていただけあって、誰も彼もが各地に様々な経緯で名を残していったことは、アルディも祖父から聞いている。
その時の祖父は確か、老いた容姿とは裏腹に、恐れを知らぬ少年のような輝く瞳で語っていた。
伝え聞いた話でしかないものの、先代の討伐隊がよほど荒かったということは想像に難くない。と言うより、今もあまり変わっているようには見えない。
それを思い出して興奮しているというのなら――アルディは苦笑を返すしかなかった。
「そうだ、明日はいつ頃出発するんスか?」
そんなアルディの悩みを知ってか知らずか、テイルが話を切り替える。
ヒルデは顎に生えた無精ひげに指を擦りながら、考えるような仕草をした。
「まあ、全員が目ェ覚ましたくらいでいいだろ。俺たちゃ一応、国を代表する魔王討伐隊だからな。悠長に旅を楽しんでるわけにもいかんのかも知れん。だが旅は始まったばかりだ、無理に急ぐこたねえ。少しずつ慣らしていこうや」
「それ、ヒルデさんが夜更かししたいだけじゃ?」
「バレたか」
でぇあははは、とおかしな笑い声を上げる二人に、どこからか飛来した花瓶が襲う。
「何時だと思ってんだい!」年老いた女性の声が響いた時には、二人は地面と接吻を交わしていた。
アルディはため息をついて、本当に大丈夫なのだろうかと一抹の悩みを抱えた。
アルディら討伐隊のほかに別動隊も出動すると聞いてはいるものの、先陣を切るのが彼らであることには変わらない。
こんな調子で大丈夫だろうかと思わずには、いられなかった。
「ボウズ、難しいこと考えてんな?」
土まみれの顔を手で拭きながら立ち上がったヒルデが、アルディの黒い髪をぐしゃぐしゃと撫でる。
「……魔王フェフトラーゼは日に日に力を増しています。本来なら一日、一分一秒も惜しいはずです」
「ほんとに初代勇者とは真逆だよな、お前。……安心しろ、俺の立てた計画通りに進めば、お前らはすぐにあの野郎を超える力を付けて挑むことができる。俺の計画は狂わねえし狂わせねえ、二度とな」
二度と。
軽く後付けされたその言葉がもつ重みが、尋常でないことをアルディは知っていた。
先代討伐隊が魔王との決戦に挑む前、戦闘の要である魔術師が魔王に寝返ったのだ。
それが当時のヒルデが立てた旅の計画における唯一の狂いであり、未だ拭うことのできない後悔であると、祖父から聞いたことがあった。
「……ヒルデさんがそう言うのなら、僕はそれに従います」
「素直なのはいいことだが、納得はしてねえな?」
「本音を言うと」
「ハッ、いいねぇ。馬鹿正直なのはジジイと一緒だ。――けど、俺が年長者としてやらにゃならんのは、あの時殺し損ねた魔王を今度こそぶっ殺すことじゃねえ。お前らを無事に王国へ帰してやることだ。そこは忘れんなよ」
それだけ言い残すと、毛髪の乱れた頭をぽんぽんと叩き、ヒルデは宿の中へ戻っていった。
自分が間違っているような感覚に苛まれながら、アルディは俯く。すると、未だ地面と熱い夜を過ごす親友の無様な姿が目に入った。
「……テイル、起きているかい」
返事はない。どうやら疲れが溜まっていたらしく、そのまま眠ってしまったようだ。
アルディは呆れの溜息をついて、親友を背負って宿屋の部屋まで送り届けた。
ヒルデと相部屋のはずだが、まだ戻ってきてはいないらしい。
テイルの顔についた泥を払ってベッドに寝かせ、持っていた弓を傍の棚に立てかける。
何度も射っていれば、弓などいずれ折れる。しかし彼はそれを一晩で、いや数時間で折った。
優秀な弓使いとして成績を残した彼が、今更弓の扱いを荒くするとは思えない。
だとすれば、単純に彼の努力に見合う強度が無かった――とすれば、想像に難くない。
努力しているのは、自分だけではないのだ。
「……いつか、オマエを超える、なんて言ってたね」
昔を懐かしむように、幼いテイルが自分に向けた言葉を思い出す。
剣と弓で比べることはできないはずなのに、彼は超えると言い張った。
今もその言葉を本気で持ち続けているのなら、自分はどうすればいいのか。
彼の期待を裏切らないように、努力を続けていくしかない。
そう、続けなくてはならないのだ――何のために?
気持ちを強く固め直したはずなのに、新たに生まれたのは疑問。
自分の努力は何に向けられたものなのだろう?
自分は何のために強くあろうとしたのだろう?
過去の自分は即答していたはずだ。なのになぜか、今は答えることができなかった。
このまま部屋にいるわけにはいかないと思い、アルディは自分の部屋に戻る。
そこには先ほどの自分と同じように、吹き込む涼風と月光を浴びる少女、フェリナ・ヘトルがいた。
燃える炎のような紅色の髪は、穏やかな紺色に見える。
同じ色をしたその瞳が自分をとらえると、アルディは微笑を返した。
「起こしちゃったかな」
「男って、ほんとバカだよね」
どうやら窓から先ほどのやり取りを聞いていたらしく、フェリナは肩をすくめて笑みを浮かべた。
「面目ない」
「アルディじゃなくて、あの二人。ほんと似た者同士なんだから」
腰に手を当てるフェリナは、まるで手のかかる弟に世話を焼く姉のようだ。
実際、親子でもないのにあそこまで同調し合えるテイルとヒルデはもはや性根が似ているとしか言いようがないのだろう。
「ねえ、フェリナ。王都のみんなは無事かな」
「どうしたの、急に。ホームシック?」
「……そうかも。心配なんだ、僕に魔王討伐なんてできるのかなって」
備え付けの椅子をフェリナのベッドの傍に置き、アルディはそこに腰かけた。
旅立つ前に比べると、やたらと気力が抜けている。
そんな彼の手を、フェリナは身を寄せて優しく握った。
「アルディも、弱気になることあるんだ」
「僕だって人間なんだ――って、さっきも言ったよ。みんな、僕がそんなに変に見える?」
「まあ、魔物が来なかった数十年の間に平和ボケした人から見れば、そうなのかな」
「……みんな意地悪だ」
不機嫌そうにそっぽを向くが、握られた手を振り払うことはしない。
そこからじわりと、心地よい温かさが広がってきていたのだから。
癒手のフェリナとはいえど、心まで癒す術を持ってはいない。
これはおそらく、幼い頃から共に過ごしてきた者だからこそ持っているものだと、アルディは感じていた。
「ごめんごめん。私だって急にこんなこと命令されて、弱気になってるよ。私より魔法が上手な人って、他にも沢山いるもの」
「結局、僕らは勅命に従うしかない。どんなに強大な相手でも、そのために努力をしてきたはずなんだ」
「じゃあ、なんでそんなに暗い顔をしてるの?」
己の不安が表情に出ていたらしく、核心を突かれてアルディは驚いた。
だが、それほどまでに自信が無くなっていることは、自分でも分かっていた。
「……僕は幼い頃から、初代勇者の孫であることを自覚して、努力を続けてきた。だけど、それで付けた力を何のために使うのか、考えたことがなかった――って、さっき気付いたんだ。それまでの僕は、この力の使い方を無理に探してるみたいだった」
確かに、とフェリナはベッドの端に座り、アルディの手を握る力をわずかに強めた。
「毎年卒業していく先輩たちは、近衛騎士になったり、先生になったり。魔王討伐のために旅立つ人はいなかったね」
「学園に通うからって、討伐の義務が課せられるわけじゃないからね。僕らも、もしかしたらそうだったかもしれない」
「けど、今はそうじゃない。いまこうして旅を始めてる」
「運命……って、ヤツは、信じたくないけど」
自分らしくない台詞を吐いている自覚はアルディにあった。しかし、ふと思いついた言葉が、自分の置かれた境遇に何よりも合っている気がしていたのだ。
フェリナもそう思ったのか、「ふふ」と微笑を浮かべてアルディの顔を覗き込んだ。
「そうだね。勇者の孫だからって、誰よりも強くなることが定められてるわけじゃない。私や、テイルだってそう」
「……僕を特別な何かと思っていたのは、僕自身なのかもしれない。傲慢、だったんだと思う。周りからそう言われて白い目で見られてさ。さっき、ヒルデさんに旅の進行が遅いっていうことを言ったのも、自分の力を過信してる証拠だ」
自らに言い聞かせるように、アルディは語る。
その隣で、フェリナはただ頷いていた。
「まあ、出来の良い英雄譚みたいで気に入らない、っていう人もいたと思うけどね」
「それでも――作為的な何かがあったのだとしても。僕はこの使命を果たすよ。それは勇者の孫としての役割じゃなく、託された者としての役割だ」
「もう、カタい考え方するんだから。……でも、決めたんだね?」
「うん」
熱を帯び汗ばみ始めた手を離し、フェリナは窓の外に目を向けた。
星が爛々と輝いている。しかしアルディの瞳の中で燃える炎も、負けず劣らずの光を宿していた。
「僕は、一人の人間――アルディンギア・アレグリアとして、魔王フェフトラーゼを討伐しに向かう。もちろん、その時はフェリナやテイル、ヒルデさんも一緒だ」
「手伝うよ」
フェリナは立ち上がって、アルディの前に立つ。
己の存在を、彼へ確かに認めさせるように。
「これからの旅で、僕たちは強くなる。フェリナだってそうだよ」
「だね、私たちはまだ弱いもの。当たり前だけど、気付けないこと」
「だけど、仲間がいるから分かることができる」
幼馴染であるからか、互いのリズムを理解して微笑み合う。
何気ないそのやり取りも、守らなくてはならない。
「生き残ろう、絶対に」
「当たり前でしょ」
再び握り合ったその手はとても力強く、二人の絆を示しているかのようだった。
これから彼らを待つのは、未知の世界。
目を覆いたくなるような現実を目にすることもあるだろう。
信じていたものに裏切られることもあるだろう。
それでも少年は、膝を折ることはない。
それは勇者の孫だからではなく、彼が成長することを止めないからである。
今は彼らの門出を祝うように、月は青白く輝いていた。