けんきゅう部
「では、くれぐれも解き忘れがないように」
「はい」
俺に数学の課題プリントを二枚渡した稲波先生が言う。
昼休みに答えを写すな、と言っておきながら答えをくれなかったのは、俺のことを信用していないからだろう。
写すつもりだったのに……。
「ところで、もう入る部活は決めてあるのか?」
俺の返事に満足したように一度頷いてから、訊いてきた。
まだ決めてはいないが、文化系の楽な部活を希望していることを言う。
「なら、おすすめの部活がある。入る入らないは君の自由だが、見学だけは行った方がいい、なるべく早めにな」
そう言ってから、怪しい笑みを浮かべながら、俺に紙製のプリントを手渡した。
おそらく、初めから渡すつもりだったのだろう。そうでなければ、紙製のプリントを瞬時に準備することなど不可能だからだ。
手渡されたプリントをざっと見たところ、部活名と活動場所しか書かれていない。部長の名前や活動内容のような大切なことを記されていないが、気になることが多い。
「『けんきゅう部』? なんで平仮名なんですか? そもそもよくこんなふざけた名前で許可が降りましたね。というか、この部活の活動場所ってーー」
「彼らは、いや、彼女は基本的に生徒会室で活動を行っている。今の部長がこの部活の製作者であり、現生徒会長だ」
奇妙な部活のことは気になるが、まずは課題を終わらせるプランをたててみるとするか。
午後の授業は眠ることなく終わったため、罰は昼に言われた通りに数学の課題だけであった。一目見たが、難易度も割りと易しそうだったため、俺は先生への怖そうだという認識を改めることにした。
もしも午後の授業でも寝ていた場合、一体どれ程のものになっていたのかを考えるのは恐ろしくてできない……。あの先生の性格上、恐ろしいことになっていただろう。
だが、今回は易しい問題であったため、その思考は不要である。
……とりあえず、20分はかからないだろう。
時間はある。いや、もしかしたら、今から俺が考えることを予想していたのかもしれない。その考えとはーー、
「『けんきゅう部』とやらの見学にいくとするか……」
周りに誰もいないのをいいことに一人で呟く。
先生の考えにのせられるのは少々不愉快ではあるが、それを差し置いても部活の見学をする必要がある。
奇妙な名前であることも理由のひとつではある。だが、最大の理由は別にある。
それはーー、
考え事をしながら歩いていると、事前に先生に伝えられていた生徒会室の前にたどり着く。親切なことに部屋の前に、『生徒会室』と書かれた立て札があったため、ここが生徒会室であることに間違いはない。
今は放課後であり、先生がなるべく早めにと言ったことから、今日も活動していると考えていいだろう。
権力者のいる部屋は、不愉快なオーラを醸し出す。職員室や校長室はもちろんのことだが、ここからもそれを感じる。
僅かに怖じ気づきはしたが、俺のはどうしてもここに入らなければならない理由がある。
意を決して、ドアを控えめにノックする。
「入ってください」
間髪をいれずに中から返事が返ってきた。
大きい音をたてないように慎重にドアを開けて中に入ると、そこには俺の予期した通りの人物が足を組んで椅子に座っていた。
これが、俺がここに来た最大の理由だ。
先ほど先生は『彼らは、いや、彼女は』と言った。このことからこの部の部員が一人しかいないということは容易に推測できる。さらにこの部活の存在は俺が体育終了後の休み時間に眺めていた『部活動一覧表』には記されていなかった。以上のことからここに来る一年生はほとんどいないと考えられる。故に俺がここに来たら生徒会長兼部長と二人きりになれる。そしてなぜ二人きりになりたかったかと言うと入学式や新入生歓迎会に見た生徒会長の容姿は目の保養になった。黒髪ロングに巨乳でも貧乳でもない二次元好きの人間にとっては絶妙的といえるサイズの胸ーー別に俺は胸で異性を判断するようなダメ男ではないーーに、美しい声。これが俺がわざわざここに最大の来た理由はこれだ。
そして、期待した通りに今の会長の姿も美しかった。
「あなたは、生徒会に入りたい、ということでいいのですか?」
「ここで部活動もやっていると聞いたんですが……」
「稲波先生の紹介、ということでよろしいでしょうか?」
「はい、そうです」
俺は生徒会長の質問に答えながら、丁寧な話し方と、優しく丸みを帯びているが、それでありながら凛とした声に、脳をとろけさせられるような感覚を味わっていた。
「では、こちらの入部届にあなたのホームルームナンバーと氏名、それにこの部活の名前を漢字で書き込んで、私にください。ちなみに、活動の参加不参加は自由ですが、一度入部したら退部はできませんからご了承ください」
「構いません。入部届けの記入は今からでもいいですか?」
「もちろんです。では、好きな場所を使って書いてくれて構いません」
思わず即答してしまったが、好きに部活に来ていいなら、なんも負担にならないだろう。
むしろ、負担にならないどころか、綺麗な先輩と同じ空間に好きな日にいられるため、圧倒的にこちらの方が好条件だ。
ホームルームナンバーと氏名を書いてから気がついたが、この部活の名前を漢字で書くように言われた。だが、この部活の名前は平仮名ではなかったのか? それとも、入部試験のためにあえて平仮名に? 考え出したらきりがない。
ーーだが、一つ分かったことがある。それは……、この部活が俺に適しているということだ。先輩の存在を抜きにしても、この部活の見学に来ていたら入部していたかもしれない。
さて、ここは、無難に『研究部』としておくのがいいだろうか? そんなことを思ったが、恐らくここで求められているのはユニークさだと思い、『研』と書きかけていたのを消してから、別の漢字に書き直してから、入部届を提出した。
俺の書いた入部届をチラッと見た先輩は、見るものを虜にするような妖艶な笑みを一瞬浮かべてから、それをスカートのポケットに入れた。
「さて、とりあえずこの入部届は私が預かっておくわね。ちなみに、このまま生徒会役員になるつもりはないかしら?」
「いえ、全くさらさらこれっぽっちもないです」
即答で、しかも固くなに拒否されたためか、先輩の整った眉が心なしか不快そうに歪んだ気がした。
いくら超絶不純な動機で入部した俺でも、リスクリターンの計算をする程度の知能は所有している。ーーだから、どんなに高リターンだったとしてと、それを遥かに上回るようなリスクーーここでは面倒くささーーがあったとしたら、手を引くようにはしているのだ。
というか、なんだ? 急に口調が変わっ……、いや、違う。変わったのは口調だけじゃない。全体のオーラまで、何から何まで変わっている。ーーそれこそ、まるで別人になったかのように……。
俺は、これほどまでにオーラを変えられる人間を今まで一度として見たことがない。この人、いったい何者なんだ? もしかして……、いや、さすがにそんなわけないだろう。
「まあ、いいわ。それじゃあ、これからよろしくね、拓翔くん」
「よろしくするのは別に構わない、というか本望なんですけど、初めとのギャップは何なんすか?」
「初めの話し方は、無事に新入部員を捕獲するための作戦だった、そう言えばあなたには分かるわよね?」
「まあ、納得ではありますね。三次元の世界にあんなにも丁寧な口調で、ピンポイントで男子のハートをかっさらうような人間が存在するとは思えませんしね」
現在の部員は予想通り彼女一人と考えていいだろう。この学校は、部活の新規作成については緩いが、それも゛新入部員と二年生の部員を足して3人未満の場合は6月の文化祭後に廃部とする゛という厳しいルールがあってこそだろう。
だが、この部活は先輩が彼女だけなのにも関わらず、公式には募集を行っていない。
通常の部活であれば俺が眺めていた『部活動一覧表』に書かれているはずなのに、この部活は書かれていなかった。だが、非公認というわけではないと考えている。
もしもこの部活が非公認のものであれば、俺が教員サイドの人間にこの部活を勧められるのはあり得ないだろう。
つまり俺は、このように考えている。
「先輩、この部活に入部するための条件って何だったんですか? なにか条件があるんですよね? なぜ、俺だったんですか?」
「……へぇ。まさかこんなにも早くに気づく人間がいるなんて、思ってもみなかったわね。どうして気づいたのか、参考ばかりに教えて」
入部に……、いや、部の存在を知ることに条件がいるなんて、普通ならあり得ない。
俺の経験上、厳しい条件を設定する人間の共通点は、人間に対して強い不信を抱いていることだ。
……だが、先輩は二年生で、新入部員がやってくるのは今年が初めてのはずだ。中学の時に何かあったとしても、そんな過去のことをネタにしたところで、学校になにかを要求できるだろうか、いや、俺はそうは思わない。
だが、俺にはここまでしか考えられなかった。だからこそ、自分ではたどり着けなかった回答を知りたい。
「まず最初に、この部活のことが『部活動一覧表』に記されていなかったことを不思議に思いました。ですが、この部活は学校の許可を得ているはず、そうでなければ俺が先生にこの部活を勧められるなんてことはあり得ません。だから、この部活の存在を知るためには何らかの条件があり、それを俺が見ず知らずのうちに満たしていた……と、そう考えました。違いますか?」
「長ったるい説明ね、聞いててうんざりしたわ。でもまあ、説明した部分だけは合っていたわ、さすがね。それと、分からない部分がある未完全な推理とも言えないようなものを堂々と初対面の人間に披露したその度胸だけは認めてあげるわ」
うふふ、と笑いながら先輩が俺を馬鹿にしてきた。
いやー、恥ずかしい恥ずかしい。長ったらしく説明したのに間違ってたのかよ……。
「でも、この部活には存在を知って入部するために条件がある、というのは合っているわよ。ただ、あなたはそれをすっ飛ばしてきただけ。まあ、稲波先生にはお世話になっているし、あなたの入部は認めてあげるわ。よほど、気に入られているのね、羨ましいわ」
何も羨ましがっていない表情で言ってきた。
「えと、条件についての説明は……?」
「無事に入部させてあげたのに、そんなことを知る必要があなたにあるの? 条件については、新入部員の選別に必要だから、あなたには教えられないわ」
一息おいてから、あなたは口が軽そうだしね、と言われた。
彼女のなかで初対面の俺の評価が低すぎやしないだろうか。偏見だ、人を見た目手間判断するなんて最悪だー、と思いながら僅かに非難の目を向けたところ、視線で人を殺せるのであれば、ざっと百回は殺せそうな目線ーーしかも、哀れな家畜を眺めるようなドSな視線つきーーで、応戦された。……いや、こちらが一方的に虐殺されている。
「分かりましたよ、なら、今日はここにいるような用事もないので帰らせてもらいます。別に勝手に帰ってもいいんですよね?」
「ええ、それはもちろん構わないわ。じゃあね、た・く・と・くん」
「どうも、さようなら」
そう言って、帰ろうと思い生徒会室のドアを開けようとしてから、背後から声をかけられた。
「そういえば、あなたの書いた部活の名前、ユーモアがあって、なかなか良かったわ。恐らく、あなたのそんな人柄が稲波先生に気に入られた理由でしょうね。……引き留めて悪かったわ、またね」
そう言って、初めに俺に見せたような見るものを虜にするような妖艶な笑みを浮かべた。
……まったく、人の扱いになれてやがるぜ。なぜか、恋愛対象としては見えないけど。
「また明日も来ます。今日はありがとうございました」
そう言って、今度こそ生徒会室から出る。
家に帰りながら、自分が書いた入部届のことをぼうっと考えた。
俺はあの紙の部活名記入欄に『兼休部』と書いてやった。本来なら怒られるが、あそこで先輩がどんな対応をとるのかを試してみたのだ。そして、先輩の性格が俺に適していることが分かった。
……これじゃ入部しないわけにはいかないじゃないか。どれだけ俺に適しているんだ、あの環境は。
今日も幸せな気分になれた。……いや、なれてしまった。これでは、また悪夢を見てしまう……。
あんなにも俺が幸せになれそうな部活に入ってしまっても、本当によかったのだろうか? もしかしたら、悪夢の見すぎで、殺意を押さえきれなくなるかもしれないというのに……。
ーー気がつくと、顔から血の気が失せ、頬から冷たい汗が滴っていた。