恋歌と合図
遠くに滝の音が聴こえる。
アルベルト・クチャラは、夜も休まず広大な滝壺にどうどうと水を落とし続けている。
音は少し離れたマクサルト人達の集落まで届く。
耳障りなんて、とんでもない。
かつて誰かがこの力強い音に包まれ安息をふと感じた様に、マクサルトの民達も音に抱かれ、身を委ねて感謝する。
日が昇ればたくさんの水車が回り、機織り機が忙しく動くだろう。
女達が、長く辛い年月を経ても決して忘れなかったマクサルトの伝統模様を彩れば、その緻密さと美しさ、それからほんの少しの物珍しさの為に外国で求められる。
男達は切り立った崖に命綱一本でしがみ付き、ごつごつした側面から穴を掘り、入り込んで金を採る。
採れない日の方がザラだ。それでも、どんなに犠牲が出てもしがみ付き、爪を立て続ける。
崖はマクサルトの地とトスカノ平原を挟んで天までそびえる大山脈まで延々と続いているから、今後の計画の目標に十分足りる量の金が採れる〝見込み〟だ。
人は希望の分だけきっと増えるし、その分問題も増えるだろう。自給自足のほとんど出来ない土地だから。
でも、今はこの話はもう止めよう。
だって、今夜は明るい火を焚いて皆で楽しく過ごす夜なのだから。
雲こそ多く掛かっていたが、後ろに控えた明月の光が雲の輪郭を薄く光らせている。光の輪郭の合間に小さな星たちが瞬いて、耳をすませばチラチラ可愛い音が聴こえて来るかも知れない。晴れた夜空とは違った美しい夜に、焚いた炎の煙が吸い込まれて行く。
〽
太陽が今日ものぼりました
風は頬を撫でてくれます
水は清め潤して流れていきます
土はわたしたちのホーム
私たちの身体は きっと果実
私たちの血は きっと果汁
私たちは、神の果実
≪変調≫
果実は滝に濯がれて
やがて埃も落ちるだろう
わたしたちは寄り添い合って
一本の木になろう
滝の傍の一本の木に
「節が増えたのですね」
焚火の明かりに照らされたラヴィが、隣に座るバドに言った。
バドは揺れる明かりの中で、ニッと笑うと、照れくさそうに小さく頷き特に返事をしなかった。ラヴィはそっと微笑んで、それ以上は聞かなかった。
増えた節が、ほとんどの事をラヴィに解らせてくれたから。
ラヴィは焚火を囲って踊る人々へ目を移した。
逆光で皆黒い。彼らが踊るステップも振り付けも、ラヴィは忘れていなかった。
たった一度だけ、バドに教えてもらったのだ。
何度も何度もその思い出の場面を一人で思い出しては、過去の自分を羨んだ。
自分を羨むなんておかしいけれど、もうそこに戻れないのだから、過去に嫉妬するしかなかった。
でも、今、その必要は無い。
風と焚火の熱を感じながら、彼はラヴィの隣に座って笑っている。少しだけ大人びた姿で。
ヤンチャな影はいなくなっていない。けれど、やっぱりどこか違って、ラヴィは少しだけ残念に思う。
彼がもうあの頃のバドには戻らない事。
「今目の前にいるバド」に彼がなる過程を、見られなかった事。
大事に守っていた彼女の中のバドが、今のバドでもう既に埋まりつつある事……。
「ナニじろじろ見てンだよー?」
バドがニヤニヤしてラヴィの顔を覗き込んだ。
魔性の者すら惹きつけるであろう彼の瞳の輝きに、ラヴィは怖気づいた。
―――わたくしはその瞳にどう映っていますか?
バドが彼女の戸惑いなど全く気にもせずに、立ち上がって手を引いた。
「ラヴィ、踊ろうぜ。忘れちまった?」
「はい、いいえ」
「アハッ、どっちだよ?」
「……いえ、あの」
「わたくしメと、踊ってくださいますか! お姫様!」
懐かしい調子で言われれば、ラヴィの顔はほころんで、彼女は小さく頷いた。
焚火の火の子の舞う中で、皆に混ざって踊りながら、ラヴィはバドの瞳に自分が映っているのを見つけた。それは火の光の反射具合で、見えたり隠れたりした。
彼の中のラヴィは、幸せそうに微笑んでいる。
わたくし、こんな風に笑ったかしら? こんな、「自分だけを見て」と言う様に……。
それでも戸惑わない自分がおかしかった。
実体なのか、影なのか、煌々と揺れる熱い光の中で、皆同じリズム。同じ呼吸。途切れない。
途切れたりしない。
ラヴィはバドと両手を合わせ、それらと混じり、一つになった。
*
踊り疲れてラヴィの足がもつれ始めると、バドが彼女の手を引いて焚火の輪を抜け出した。
「どこへ行くの?」と聞く気など、ラヴィには無かった。
この人が行くところなら、どこだっていい。連れて行ってくれるなら。
焚火から離れ、青白くしんと静まった集落のテントとテントの間を行く。
そんな必要は無いのに、二人共何故か小走りで息を上気させ、たまにバドが彼女をチラと振り返り、ラヴィはそれに対して常に微笑み返した。
そうしてバドは自分のテントに彼女を招いた。
テントには灯が小さく灯っていて、オバアがいた。
オバアは敷物の上にチョンと座って、石の臼で何やら良い匂いのものを挽いている。
バドはそうとも知らずにラヴィに後ろから抱き着いて、彼女のうなじに鼻先を擦り付けたところでようやくオバアを目の端に捉えると小さく「ゲ」と声を上げた。
「オ、オバア、いたの?」
「ダ。もう、皆お開きですか?」
「おお、オウ」
オバアは、ふすー、と息を吐き出しながらニッコリした。
「嘘付きは駄目ですよ」
「や、そ、アレだ、ラヴィが疲れちまったから、ちょっと休憩……」
「火の傍の方が温かいよ」
「……風がサ、ホラ……あ~と……」
しどろもどろのバドを何とも頼りなく思いながら、ラヴィは顔を火照らせて俯いた。
誰にも邪魔されない、二人きりになれる場所を求めていたのはバドだけでは無いのだ。
それにしても、踊りに高揚し過ぎてしまったかも知れない。
朧な月明かりの下を、自分がどんな気持ちでバドと小走りして来たか。
自覚すると赤くならざるを得なかった。
しかもそんな二人の若さ弾ける下心を、目の前の老婆はとっくに見透かしている様子だった。
オバアはえっこらせとヨタヨタ立ち上がると、
「六軒先の奥さんのところ、先月生まれた赤ちゃんの夜泣きが酷いんですって」
何故か「赤ちゃん」と聞いてラヴィとバドがギクリとするのを、キラキラした悪戯っぽい目で微笑んで、オバアは出入り口を捲る。
「夜泣きに良い薬草煎じたから、届けて来ますね」
「おおお、そうか、一人で行けるか?」
「ダ」
そう言ってオバアがテントを出て行くと、二人は「はぁ~……」と息を吐き、バドが力なく「あは」と笑った。
「あーもー、ビビった……」
バドはそう言って、仕切り直しとばかりにラヴィの身体に腕を回そうとした。
「ボン様」
オバアがヒョイと入り口から顔を出した。
バドは広げた両手をガバッと頭の後ろへやって組み、ラヴィはバドから大股一歩程ぴょーんと飛んで離れた。
「あげぇ!? な、なんだよオバア!!」
「ふふふ、赤ちゃんのお手伝いしたいので、今夜は帰りませんよ」
「あぁ? 別にンな事言いに戻らなくてもイイって!!」
「ハイハイ……」
オバアはラヴィに優しく笑いかけてから、何かもにゃもにゃ嬉しそうに呟きながら顔を引っ込めた。
バドは出入り口まで近づき、顔を出してオバアがテントから遠ざかるのを用心深く確認してから振り返り、再び「はぁ~……」と息を吐いて座り込んだ。
「マジでビビる」
「とてもお元気な方ですね」
「うん。でも最近はジッとしてうつらうつらしてるんだぜ。俺たちよりも早く宴から引き上げてたみたいだし」
「そうなの……」
血は繋がっていないけれど、バドの中でオバアの存在は大きい。オバアは彼が小さな時からいつも彼の味方だったから。
バドには家族がいないので、彼女は彼の拠り所なのだ。
彼女は随分高齢で、ラヴィは再会できたのをとても喜んだ反面、少し驚いていた。
バドの話ぶりからして、彼も彼女の長寿に驚きつつ、奇跡の様なそれに縋っているのが伺えた。
老衰は誰にでもやって来る。
解っているけれど、日々目の当たりにするのは、寂しい事だ。
ラヴィは顔に少しだけ陰りを見せたバドの背に、そっと手を添わせた。
バドは唇の片側だけ小さく釣り上げて、ラヴィを傍に引き寄せると彼女の小さな肩に頭をとんと乗せて「へへっ」と吐息の様に笑った。
ラヴィは彼の風に乱れっぱなしの髪を撫でた。
しばらくそうしていると、パッとバドが離れた。
「ヤベェ、眠くなっちまう」
「昼間大変でしたからね。もうお休みになります?」
ラヴィはちょっと残念な気持ちで、バドに就寝を促した。
―――もう少し、二人で居たかったけれど……無理をさせてはいけないわ。
―――船に戻ろう。ロゼさんが、雛の面倒を見れていないかも知れないし。
「ヤ、ヤ、待てよ待て待て! もう眠く無い」
「……無理しないで」
「してねぇよ! ほれ、コッチ来いよ」
バドは居間スペースの小さな灯を手に持ち、草の暖簾で仕切られた一つの部屋にラヴィを引っ張り込むと、「オレの部屋」とニンマリしてマットの上に直に敷かれた何かの毛皮の継ぎはぎの上にあぐらをかいた。
多分ほぼ寝る為だけのスペースなんだろう。隅に太い木の枝を立て掛けただけの洋服掛けがあり、数枚乱雑に衣類が引っ掛けられている。
もこもこした毛皮の継ぎはぎのすぐ脇に、大きな平たい石が置かれ、伝統模様の分厚い布が駆けられている。その上に彼の細々(こまごま)とした私物が並べられていた。
彼がそこに明かりを置いたので、ラヴィには何があるか良く見えた。
ナイフや小さなクロスボウ、ワイヤーが太さ別に巻いて縦に並べられ、矢や鍵爪が無造作に幾つか散らばっている。他にも、ゴツい指輪、瓶に沢山入れられたコイン(こぜに)。
ラヴィが毛皮の上に座ってそれらをしげしげ眺めると、バドが後ろから小熊の様に抱き着いて来た。並べられた物一つ一つに指を指して、どんな物かとか、どう使うか、何処で手に入れたか、気に入っている度などを教えてくれた。
それから、おもむろに服を抜いで、服の下に隠されていた鳥の彫刻のペンダントを外し、石のローテーブルの小物たちと同じように並べた。
「あら、鳥のペンダント……」
何で脱ぐんだろう、と思いながらも、ラヴィは嬉しそうな声を上げる。
「形見だからンね」
「……」
後ろから回される腕に力が込められて、ラヴィは黙ってその腕を包む様に手で触れた。
―――バドは、失い過ぎている……。国の皆が彼の周りにはいるけれど、それでは埋められないものがあるのは、いけない事かしら?
ラヴィはそっとバドの腕の中で身体の向きを変え、彼と向き合うと、以前よりがっしりした頬を優しく手で包む。
バドが力を抜いて微笑み、彼女の小さな手に手を添えた。
―――寂しがり屋は、変わっていない……。
ラヴィは微笑んで、身を伸ばしバドの唇に唇を重ねた。
重ねてしまうと離れがたくて、何度も何度も繰り返し、その内唇だけでは足りなくなったバドが舌で舐めて来た。
ラヴィは「ええええ?!」と戸惑いつつもなすがままに受け入れて、勢いをつけ始めたバドに応えた。嬉しかったし、初めての感覚にコッソリ酔いながら、ラヴィは度々バドの顔を薄目で見た。その度に、多分自分と同じ表情の彼の瞳と目が合って、彼女の心の中は、バド、バド、と彼の名を呼ぶ声でいっぱいになる。
腰に回されていたバドの手が、胸のすぐ下、胃の辺りへ這い寄った。そのまま位置を上昇させる強い意思を感じ取ると、ラヴィはハッとして慌ててその手を両手で掴んだ。
「……」
「……っ……っ!!」
無言の攻防戦。小さく小刻みに首を振るラヴィの唇を塞いでバドが責めるが、ラヴィは抵抗を続け、身を捩った。
「ぷはっ、バ、バドっ! だ、駄目ですっ」
「ダイジョーブだって、ちょっと、ちょっとだけ! な? こう、ふわっと……な!?」
ちょっとで済むハズが無いのが宇宙の法則だが、ラヴィはそれを真に受けた。
観念し、それでもラヴィは抵抗を続けたい理由を述べた。
どうぞと許して嫌われてしまったら、悲しいから。
「ううぅ、でも、あの、わたくし『デカぱい』なので、お気に召さないかと思います」
*
オバアは眠る新米母親の目の下にある少し窪んだ青い部分を、触れるか振れないかでそっと撫で、その横でよく眠る赤ん坊の無垢な寝顔を眺めていた。
新しいマクサルトで、最初の赤ん坊。
この赤ん坊が大人になるのを見られない事は重々承知をしているけれど、なんだか不思議な気分だった。まだまだ覚悟が足りないねぇ、オバアはそう心で思って、赤ん坊の毛綿の様な髪を指ですく。
―――だって、行かないでって、小さな声がするから。
―――だから私はあちらの方へより惹かれつつ、迷っています。
いついつだって、生まれ、成長して行くのを見るのは楽しい。
いついつだって、子供は自然と大きくなって巣立って行く。
そうして、傍に纏わりついていたのが嘘の様に、自分で愛を拾って来る……。
「こんなに小さかったのにねぇ……」
―――もう、良いのかしらね?
オバアは微笑んで、赤ん坊の汚れ物を外に出す為、よいよいとテントから出ると、腰を伸ばすついでに雲の向こうの月を見上げた。
風がいつもより優しく暖かく感じて、オバアはテントの外柱にもたれ、母国の恋歌を口ずさんだ。
かつて、若くて美しかった頃の様に。
―――ねぇ、もう会いに行けそうです……。
オバアは夜空を見上げ月が雲から晴れるとか、星が強く光るとか、そんな合図を待ったけれど、今夜その予兆は無く、幸せと落胆が混じった溜め息を吐いて、テントへ戻って行った。
「いいサ。だったら、私はひ孫の顔を見てやるんだからね」
オバアは一人そう呟いて、ニコニコした。