聞けない
彼は全くラヴィに気付かずに、ふわぁ~と犬歯を剥きだして欠伸をしている。
記憶のままの、明るい金髪に、野性味のある顔。少しも変わらない、ヤンチャそうな雰囲気。
ラヴィの心は再会を綺麗な喜ばしいものにしたい気持ちと、「セレナって誰ですか?」と一発喰らわし不穏なものにしたい気持ち両方でせめぎ合った。
彼が長い前髪を掻き上げて、寝ぼけ眼でようやくこちらを見た。
途端、空色の目を見開いて「うおっ」と声を上げた。
その不意を突かれた表情に、ラヴィはついついぎこちなく彼に微笑みかける。
……狡いです……そんな無防備な顔されてしまったら……。
バドは「うひゃ~」とか「どぇ~」などとひっくり返った声を上げながら起き上がり、ラヴィと向き合い、両手を地面につけて身を乗り出した。
「……え? え? ナニコレ夢?」
「お久しぶりです。バド」
「マジで!?」
なんの断りも無しに、彼がラヴィの顔を両手で挟んだ。
こういう所も、全然変わって無い。
「ひらいれす(痛いです)……」
「アハッ! 柔らけぇ……。ラヴィ……会……へへへ……」
片方の頬だけ盛り上げて、彼は顔を隠す様に下を向いて笑った。
それには、ラヴィはちょっとガッカリする。
「あへへへ……」って……! 他に言って下さる事は無いのかしら?
わたくしは、こんなに会いたかったのに。
彼女はそう思って「会いたかった」と言葉が口からこぼれ出ない様に気を付けた。
自分ばかりがそう思っていたのだとしたら、恥ずかしい上に重荷になってしまうかも知れない。
それは嫌だ。
ちょっとでも煩わしそうな顔や態度をされたら、と思うとラヴィの胸は凍った。
大事に抱えていた気持ちは風船のように膨れている。膨らませるだけ膨らませて来たけれど、今この瞬間になって、それはとても軟いものだ、と悟った。
ちょっとでも突かれたら……。
だからラヴィは抱えて守る。
重い動悸が、熱を持った血を身体に巡らせる。
どうしてだろう? 血は熱いのに、こんなに心が薄ら寒くなるのは。
ラヴィは気丈な娘だから、それらを一切表に出さずに微笑んだ。
「……皆さんに先にお会いしました。バド、頑張っているみたいで……」
パッとバドが顔を上げてヘラヘラ笑った。
「おお~、会った? や~、マジでカツカツなんだけどサ、トスカノの援助もまだ続いてるし、なんとかかんとかやってンよ! 最近までいっつも腹がなってて、腹の音で目が覚める位だったんだぜ。マジでウルセーッつってな! ……ナハハハ」
「今は食べれていますか?」
ラヴィが心配になって聞くと、バドは頷いて立ち上がった。彼にくっついていた草の破片が、風にひらひら舞ってラヴィに青い匂いを感じさせる。
「なんとかな!」
そう言ってバドは唐突に飛び上がり、両足を開いてドンッと着地すると弓矢を引く恰好をして見せた。
ポカンと見ていると、空色の目をウインクさせる。
「弓矢覚えた」
「……都の入り口で動物の骨の山を見ました」
「オウ、喰えるところが全然無くってサ、骨を咥えて眠ったよ。噛んじまうと呆気無く折れやがってサ、中身がにっがいんだ!」
「まぁ……」
大変だったんだ、とラヴィは思った。
そういう事を感じさせない、負けず嫌いなところを、ラヴィは知っている。
「都に行ったんだ。そ~だよな」
「ええ。移動してるって知らなくて……」
「お~、悪かった。ビビった?」
ニッと笑って顔を覗き込まれて、ラヴィはムッとした。
元々こんな感じだったけど。忘れていた訳では無かったけれど……。
誰もいない国に降り立った際の心細さを返して欲しい。
「……凄く……心配しました」
「アハッ! ゴメンな! 目印見て来た?」
「はい。……ありがとうございました」
違う。
こんな風にありがとうなんて言いたかったんじゃない。
もっと、もっと嬉しかったのに。
はためく旗を見つけた時、本当に、心から嬉しかったのに。
少し、間があった。
間隔が長すぎる気がして、ラヴィは知らず俯いていた顔を上げ彼を見る。
バドはラヴィを目を少し細めて見ていた。唇を少し歪めて。
あ、と思った。
近いと思っていたものが、すぃ、と遠のいた気がした。
―――待って。
バドが小さな声で言った。
「……なんか、ラヴィ変わった?」
つまらなそうな、少し拗ねている様な声音だった。
―――待って。
―――変わってなんて。そんな顔しないで。
「大人になっちゃってたりして」
イヒッと投げやりに笑われて、ラヴィは小さく首を振る。
バドはそれを見たのか見ていないのか、鼻を擦って踵を返した。
「ま、せっかくだし来いよ。シケてるけど、パーティーしようぜ」
ひょいひょいと歩いて行く後姿を懐かしく思いながら、ラヴィは懐かしさを胸から締め出して彼を眺めた。
それから下を向いて、彼を見るのも止めてしまった。
彼がチラ、と振り返ったのだけれど、彼女はそれに気付かない。
なので、彼の表情を見る事は無かった。
微妙な距離を開けながら二人で丘を越えると、冷たい風が吹き付けた。
彼のボロボロのシャツの裾がハタハタ揺れて、腹筋が見えた。それから、浮き出たあばら骨も。
自分の真っ白なワンピースが恥ずかしかった。
過去を飴玉みたいに楽しんで締めた綺麗な帯も、風に飛ばされてしまえば良いと思った。
チョコレート?
今、彼に必要な物じゃない。
二人はもともと育ちが違う。
そういう風に人を区別するのは厭だけれど、どうしてもズレが出る。
浮き出たあばら骨と、綺麗な箱に詰めたチョコレートの様に。
今までそのズレを感じなかったのは、出会った時に二人が別の事に必死だったから。
―――本当の貴方を知っているけれど。
―――ただ、それだけ。
―――わたくしたちには、時間が無かった。
何が好き? 何が嬉しい? 何が欲しい? 何も知らない。
丘を越え集落へ戻るまで、二人は当たり障りのない会話しかしなくなっていた。
二人共、全く違う性質の部分から、そういう事が得意だったから。
集落に着くと、バドが「へへっ」と笑った。ラヴィにはそれが空笑いに見えた。
ラヴィも笑い返した。眉も口も、変な風に歪んで見えなければ良いと願いながら。
―――お願い、わたくしの様に、貴方は気付かないで。
そんな風にも願って、ラヴィは微笑みを崩さない。
*
ロゼは船のデッキに置いたリクライニングチェアで、昼寝をしようと果敢に挑戦していた。
どこぞの国で気に入って買った物で、背もたれを三段階の角度に調節出来る優れものだ。なんと、大きな日傘を立て掛けるスタンドまで付いている。
俺様の為にあると言っても過言では無い、とロゼは思っている。
さて、彼が何と戦っているのかと言うと、風だ。
風がびゅうびゅう吹いているので備え付けの大きな日傘がぐわんぐわん、ばっさばっさたなびいて、リクライニングチェアをグラグラ揺らす。
落ち着かない。全く落ち着かない。それに風寒い。
昼寝なら船室ですればいいものを、何が彼を意固地にさせているのか、彼は頑としてリラックスを装った。
まずは己の心からだ。
こんな風はそよ風だし、この揺れなんざゆりかごみてぇで良いじゃねえか。
強い風が吹いて、日傘が今までで一番強く引っ張られた。
ぐぎぎぎーっと音を立てて椅子が床を、ロゼの身長位ずべった。
「う、うぉぉ……チッ、全然驚いてねぇ。全然……」
舌打ちしてブツブツ悪態を吐いていると、向こうからラヴィの姿が見えた。
ロゼの予想と反して、彼女は一人で船に向って歩いて来る。
「……」
ロゼは目を細め、彼女が船の入り口のドアを開ける音がするとパッと椅子に寝転がった。
階段をのぼる(デッキは船の二階だ)音がすると、彼は目を閉じた。いわゆる寝たふりだ。
ラヴィを歓迎して、宴会っぽいのが行われるハズだ。
俺は行かねぇ。そうゆうのは好きじゃ無い。
美女を侍らせてくれんならベツだけど、若い女がどれだけいるか。
どうせ綺麗なのはほとんど相手がいるに違いねぇ。
だって、適齢期そうなのは助け出した時両手で三周数えるほど生き残っていなかった。
……待てよ、しかし、寝取るってのもコーフンする。
ラヴィはこれを機にマクサルトへあしげく通う様になるかも知んない。
だったら、ここも港になるワケだ……。
どす黒い事を思いながら、ラヴィが椅子の傍に立つ気配を感じると、ロゼは「今まで寝てたよ」と言う風にわざとらしく目を開けた。既に脳内は人妻の事でいっぱいだった。さぁ早く宴会へ誘え。
「ロゼさん」
「……よぉ、バカと会えた?」
「……はい」
「相変わらずバカだったろぉ」
「……」
ラヴィは答えずに、ロゼの椅子の脇にクタとしゃがみ込んだ。
「んだよ、辛気臭ぇ」
「寝起きに女性の名前呼んだ事あります?」
「イヤ、無い。俺はそんなミスはしない」
即答過ぎて逆に怪しいが、ミスをしようと、大して痛手を負ったりしないのがロゼだ。
女がぎゃーぎゃー言ったら鼻フックをキメて綺麗に終わる。それでいいじゃないか。そう思っている。
「……ミス」
「ははぁ、野郎、やっぱりなぁ!」
ロゼが珍しく「はははは」と声を上げて笑った。
軽く天使の様な見た目でそうされると、内側から発せられる闇との歪みでラヴィの脳は混乱してしまう。
「そう思いますか?」
「思うね」
「~~~……」
「許せねぇなら諦めろよぉ? 諦めらんねぇなら、許せ」
ロゼは冷たい。
彼にとって、鼻くそ以下の話題だからだ。
「セレナって呼びました」
「あんたを?」
「いえ、ええ……」
「どっちだよぉ」
「寝ぼけていました」
ロゼはフンと言って、
「誰か聞いたかぁ?」
ラヴィはしゅんとした。
「聞かなかったんかぁ。ハン、臆病者め」
「聞けませんよ……聞けません……」
「おお、おいおい……」
ラヴィの大きな瞳から滴が溢れ零れ落ちたのを見て、ロゼはようやく身を起こした。
泣きやがった!!
今まで俺がどんなに苛めても泣かなかったラヴィ・セイルが!!
やべぇ、ぞくぞくする。もっと泣け……じゃなくて、オイオイ、どうすんだコレ。
人妻ナイトが無くなっちまう!
「ロゼさん、どうしましょう?」
「はぁ? 何が」
「こ、こんな気持ちで、平気な顔していられる自信がありません」
「……」
「でも、でももう、変な感じになってしまいました……」
ロゼはなんとなくその光景を予想して、苦笑いした。
ラヴィの柔らかそうな頬を、幾筋も雫が零れ落ちて行く。
ロゼはラヴィの状況に陥った時の対処法を知らない。考えた事が無かったからだ。
仕方がないから、ヒョイと立ち上がると、「知るかよぉ、バァカ」と言ってその場を後にした。
ちょっと、耐え難かった。
*
船から降りて、ロゼは腹立たしげにずんずん歩いた。チンピラ歩きだった。
クソが。
泣かせやがって。
なんつったっけ?
あーと……セレナ、セレナだな。
「クソガキから寝取ってやんぜぇ、セレナ! クソブスがぁ、抱いてやるから覚悟しやがれ!!」
ロゼの瞳がかつてない程燃えていた。
船を振り返る。
平気な顔?
そんなん、アンタに必要ねぇ。
仇は取ってやっからな!!
彼はなんか色々歪んでいるのだった。
*
わたくしばっかり、想っていましたか?
そんな簡単に、放っておける……それくらいでしたか、わたくしは。
遅かったですか?
来てくれる? って貴方が可能性を下さったから、わたくしは寂しくても……。
いつだって、貴方を意識して背筋を伸ばして来たのに。
一体全体、誰ですか!