ティルの悩み
ティルは何がそんなに言いにくいのか、カウンターテーブルに突っ伏して思案する様に唸っている。獣の子の様だ。
突っ伏して放り出された腕は、伸びやかで、しなやかで、瑞々しい。油が乗ってランプの灯りに艶々している。骨も筋肉もまだこれから成長して行くのだ、と若さを主張しているのを見ると、アスランはワクワクするのと同時に、羨ましく思った。
若者は大人に憧れるものだけど、どうだろうか。大人の方こそ若者に憧れるんじゃないだろうか。そしてそれは、若者たちの様には叶わないのだ。取り返しは付かないのだ。時間は巻き戻ってくれやしない。
過去が、記憶よりも何割り増しか煌びやかだった様な気が急にして、アスランはそっとティルから視線を外した。
―――何をそんなに悩んでるんだ? 何を立ち止まっている? もしも……もしも俺がお前と入れ替わったら、なんでもやれる気がするっつって、空でも飛んじまうかも知れないってのにな。
二十代のほとんどを棒に振ったアスランは、そんな事を思った。
十年近くを運命に無駄にされてしまった彼は、ふと思う。
『誰かあの十年、返してくんねぇかな』なんて。
それから、レオーナの顔が過ぎった。すぐに、それでも厳しい! と、一人ブンブンと頭を振る羽目になったが。
「あのさぁ」
と、意を決した様にティルが起き上がったのはその時だった。
「あのさぁ、四、五前にレオーナの婆様がなくなったろ?」
「ああ……あの葬式でお前はトスカノに初めて行ったんだよな」
うん、と頷いて、ティルはカップをクルクル揺すった。
「俺は関係無かったんだけどさ、大人は皆バタバタするだろうし、慣れない所で一人にならない様にっつってレオーナの遊び相手に連れてって貰えたんだよ」
アスランは頷いた。
レオーナの祖母は、一度もレオーナと会わなかった。彼女の父親も、そうさせる様子は無かった。
だからレオーナには思い入れの無い葬式だったし、初めてのトスカノだった。
ティルもレオーナも、どちらかというとワクワクした位だ。
そんなワクワクの中に、ちょっと印象的なものを見たティルはポツンと何気なしに呟いた。
「……レオーナの父様、抜け殻みたいになってたね……」
「……」
思い出したくない光景に、アスランは唇を噤む。
そうだ。思い出したくない光景だった。だから、アスランは思い出さない。
アスランの気も知らないで、ティルは唇を尖らせた。
「そんでついて行ったらサ、レオーナ、めちゃくちゃお嬢様だったんだ……」
アスランは頷いて、自国を支える大貴族の館を思い浮かべる。
かつての惨事から見事に美しく生まれ変わった本館は、装飾品を名産にしている国の髄を余す事無く輝かせていた。そして、首都にある別邸も立派なものだ。
物珍しい異国のものは少し立派なだけで良く見えるものだし、今よりもっと幼かったティルの目にどれだけ立派に映った事だろう。
門の前で新しい主人を迎える召使いたちの多さに、目を丸くするティルの姿が簡単に想像も出来た。
そして、自国の泥にまみれて一緒に遊んでいた少女が「とんでもねーお嬢様」だった衝撃。
「しかしお前だって……」
「俺の国は貧乏だもん。それに、父様の方の爺様は堅気じゃないし……でもさ、俺、別に国が貧乏なのも爺様も全然厭じゃねぇよ。でもさ……」
身内に引け目と言うやつか。
アスランは鼻息を吐いて、肩を落とした。
そういうのは、彼にはあまり理解できない。
気にした事も無かった。
「並外れたお嬢様」と関わった事が無かったからかも知れないが、そうなってもまず、彼はティルの様に悩まなかった事だろう。頑張ればなんとかなると思って生きているし、そうして来た男なのだ。若干無敵なのである。
「そんなに気にする事でもないと思うがな……?」
「イヤイヤイヤ……」
ティルが苦笑いして、アスランを否定した。
アスランは首を捻る。
ティルも首を捻った。金褐色の髪が、さらりと流れてランプの灯りに光っている。
「はぁ……俺とおじさんは理解し合えねぇかもしんない」
「……話し合おう」
「無理だね。頑張ればなんとかなるって思ってんだろ」
「おう、そうだ」
アスランの迷いの無い返事に、ティルはケケケ、と笑うと、禁止したハズなのにカップの酒を一気に煽った。
そして、ヘラヘラ笑って投げやりにこう言った。
「俺は無理。だからもういいや、話題変える」
「なんだよ」
「レオーナの事、どう思う?」
「……おおぅ?」
どう思うって、どう? どう思えば良いんだ?
アスランは動揺を手にしていたカップに全てつぎ込み、カップをミシミシいわせた。
「やっぱおじさんにはわかんねぇかな~……おじさんだもんなぁ」
ティルが割と酷い事を言う。
「な、なんだよ。もっとわかりやすく言え」
「まだ子供にしか見えないんだろ?」
「……あた、当たり前だ」
だって子供じゃないか!
アスランはティルの言葉を全力で肯定して頷いた。
ティルは片手で頬杖を突いて、目を細めた。
「でもさ、前会った時よりぐんと大きくなってたろ? ちょっと『お』って思わなかった?」
「そりゃまぁ……うん。そうだな。でも、それはお前にもだぞ」
「はぁ~、じゃあ、やっぱおじさんとは共有できねぇ」
脈絡のなさに、ティルは酔ってしまったのだろうか? と、アスランは首を捻る。
「でも安心した」
「なにが」
「おじさんが、おじさんだから」
「……」
「あのさ、ぜっっっってぇ秘密にしてくれる?」
ティルが身を乗り出して来たので、アスランは腕を組む。
「……内容による」
「悪い事じゃねぇよ」
ならよし。
「ならよし」
「ちょっと前に、風呂覗いたんだ」
「……」
「よし」を出した手前、もう突っ込めないし、触れ回れる内容でもなかった事に、アスランはギュッと目を閉じた。「やられた!」男に二言は無いアスランである。
ティルはニィ、と笑って、
「ナイショな?」
「……」
「いいじゃん、別に。鼻歌なんか歌ってる方が悪いんだよ」
「果てしなく血は争えないな」
「なんだろうって思ってさ。だからヒョイって覗いたんだよ。別にガキンチョの行水だしっつって!」
どうやら、犯行時に悪意(?)は無かったらしかった。
見るからに身軽そうな彼は換気窓に手を掛け、ヒョイと覗くなんて事朝飯前だった。
『なに歌ってんだよ、何か良い事あった?』なんて尋ねようとした彼の目に飛び込んで来たのは、湯気に霞む裸のレオーナ。
丁度、大きなお湯溜め桶からお湯を掬って白い身体を濯いでいる所だった。
お湯が、白くて柔らかそうな肌をつたって流れ、キラキラ輝いていた。
どこをどう思い返しているのやら、とろんとした目をして、ティルが小声で言った。
「胸がさぁ、膨らんでた」
「……」
アスランは無言でティルの頭に拳骨を落としてやった。
その勢いで、ティルはカウンターテーブルに突っ伏して呻いた。
頭を抱えてこちらを見上げる瞳は、拳骨が足りないのか、まだ緩く笑んでいる。
「割れる!」
「割ってやろうか?」
「ちょっと待ってよ! それから俺、思ったんだ!」
「なにを!」
腕を組んで一応聞いてやる。
けしからん答えだったら、本気でぶん殴ってやる! そう思った。
ティルはここに来た時の中で一番真面目な顔になって、真面目に言った。
「絶対、俺が守ろうって」
呆れればいいのか、笑えばいいのか、怒ればいいのか。
そもそも、全く意味がわからない。
「でもさ、レオーナはおじさんが好きなんだ……」
ティルは力なく言って、またカウンターテーブルに突っ伏した。
何処かで、商人達の連れている番犬が遠吠えていた。




