オジサンはオジサン
ガランとした店内は、既に明かりを消してしまっていたので、厨房の灯りだけが煌々と明るい。
暗闇にそっぽを向いて、光の中に包み込まれながら懐かしい話をする楽しさは、若者を眠れなくさせる。
三人は久々の、本当に数年越しの再会だったので、時間を忘れて話し込む。
二人は夢中でオジサンに話す。
出来る様になった事の話。
まだ出来ない事の話。
してはいけないと言われている事。
それが何故か、てんでわからない事。
珍しかった事。
驚いた事。
面白かった事……。
ねぇ、前のオレと、私と、違うでしょ?
見て見て。
こんな風になったんだ。
オジサン、どんな風に見える?
けれど、彼らの(何故か)大好きなオジサンは、微笑んで相槌は打てど、尋ねるのは自分達の両親の事ばかり。
元気にしてるか?
困った事は無いか?
そう言えば、こんな話があったから、伝えといてくれ。
なぁ、困った事は無いだろうか?
ティルもレオーナも、アスランオジサンのそういう所が好きだけれど、面白く無い。
レオーナが、頬杖を突いて小さな口で子猫みたいなあくびをした。
「おっと」と、口を塞いで顔を上げれば、オジサンの何もかも見透かした優しい顔。
「今日は疲れただろ。もう寝ろ」
「まだ眠くないわ。もう少し、ね?」
「駄目だ」
アスランがこの調子で「駄目」と言ったら駄目なのを、レオーナは知っている。
未練たらしく上目使いをしても、「駄目」の顔をされて、彼女は仕方なく椅子からすとんと降りた。
「オレはまだ起きてる!」
ティルが頑張った。
「ああ?」
「ホラ、明日の事もあるしさ、オジサンと男と男の話……とかさ」
男と男の話、などと言われて燃えないアスランはこの世にいない。
俄然目をキラキラさせて、
「そうか、男と男の話か……! よし、レオーナ、さっさと寝ろ」
「ひいきーっ! ずるいーっ!」
レオーナが頬を膨らませて、抗議した。
「ケケケ、だってお前はオネムだろっ」
「レオーナ、アレが怖いんだろう。オジサンが部屋まで連れてってやるから」
アスランの住居である二階へ続く階段のアーチに獣の頭の剥製が飾られている。
前回レオーナがここを訪れた時、彼女がそれを怖がって泣いたのを、アスランは覚えていた。
さすがにもうそんなもの怖がったりしないレオーナだけど、
「むーっ! じゃあ、おんぶしてオジサン!」
「はぁあ!? レオーナ、ガキかよ!」
ティルが大声を上げて腰を浮かした。
「ティルはいいの! もうクタクタで階段登れない~」
あんたはまだ、これからオジサンとお話出来るんだからいいじゃない! と瞳が言っている。
「しょうがねぇなぁ」
アスランがレオーナの傍に屈んだ。
女の子一人おぶる事なんて、アスランには朝飯前だ。
それに、何年かに一度か二度しか会えない――今後その機会は増えるのかも知れないが――ほとんど自分の娘の様な彼女が、小さな頃と同じに「おんぶ」と言ってくれるのは、彼にとってうれしい事だった。
嬉々としてアスランの背にしがみ付くレオーナを落ち着きなく見ながら、ティルが騒いだ。
「オジサン! 甘やかすなよ! レオーナっ自分で歩け!」
「いいじゃねぇか、お前もやってやろうか?」
「ケッ、要らねぇよ!」
ブーッと唇で汚い音を出してティルはぶんむくれるのを見て、アスランは目を細める。
背中には、柔らかい重み。
どっちも、暖かく愛しいと思う。
彼の周りが手に入れた、自分がバカになってしまう様な愛を、彼は思い出の中に忘れて来てしまったけれど……忘れて来てしまえるくらいのものだったんだろう、とアスランは思って、それでお終いにしてしまっている。
いつか来るんだろうな、などと思って来なかったそれらをおざなりにして、父性を出してしまっているアスランだった。
*
アスランの寝室はパリッとしている。
どこにも埃なんてかぶっていないし、湿気を吸っているものも無い。
今は使っていない愛刀の鞘や、胸当てが、部屋の隅でオイルランプに鈍く輝いている。
アスランは靴が好きなので、大きなブーツやゴツイ靴がお手製の棚に飾られている。
レオーナが前に来て珍しさに眺めた時よりも、数がうんと増えた。
そして、壁に飾られた幾つものトスカノ国の紋章が入った勲章や楯。ちゃんと磨かれている。
それらには一つ一つに物語があって、レオーナもティルも、指差しながら、夢中で話を聞いたのを、ちゃんと覚えている。
レオーナはそれらを見渡して、変わらないものも、変わったものにも、自分の気に入らないものは無し、と、満足げに微笑むと、アスランのベッドへ飛び込んだ。
清潔なシーツの下はフカフカだ。
レオーナは満足気に身体に掛けられた掛け布を顔まで引き寄せる。
「うふふ、オジサンの匂い……」
「う、臭うか?」
洗ってるんだけどな、と心配げなアスランにレオーナは微笑み、彼に細くてしなやかな腕を伸ばした。
「オジサン、手を」
アスランは微笑んでレオーナの手を取った。
小さな子供だった手は、柔らかいけれど、少し骨ばった華奢な手になっていた。
手の骨格が親そっくりだ、とアスランは少しだけ遺伝子の存在感にギョッとする。
「どうしたの?」
囁きながら、キュッと握る手に力を籠められれば、似ていれどやはり女の子の手で……。
「いや、骨格がさ」
「こっかく?」
「ああ、こっちの話だ」
「……変なの。二人だけなのに、アッチもコッチも見ないで」
アスランはレオーナのこのセリフの意味が解らなかったけれど、「すまんすまん」と謝って「おやすみ」と、彼女に言った。
レオーナが微笑んだ。
瞳の色は父親似の新緑色だったが、瞼の線や瞳のカーブは母親似だ、とアスランはそんな事を思う。
驚いたんだよな。
横取りしたくなるくらいの別嬪連れて来やがってさぁ。
独身貴族っつってたからヨォ……。
俺も「マダイッカ」なんて安心してたらアイツ……。
あんな別嬪……。
好みだけ真似しやがって!
「……ねぇ、オジサン。今度はドッチに行ってるの?」
レオーナが微笑ませていた瞳を少し釣り上げて言った。
直ぐには寝ないつもりらしかった。
「んぁ!? おお、ええと……大丈夫だ!!」
アスランだってまさか、「君のお母さんにグッと来た事がある」なんて言えない。
「……なにが?」
「おお、ううお。なんか、大丈夫だ!」
「もうっ。ねぇ、オジサン」
「なんだ?」
ちょっと怒った顔で、レオーナはアスランの手をくい、と引いた。
可愛いナァ、レオーナは可愛い。と、アスランはホクホクしながら問い返す。
「あのね。私、大人になった?」
「ふぅむ……」
まだまだガキだな、なんて言わない位には、アスランもここ最近大人になった。
「そうだな」なんて、嘘が言える位に。
くふふ、と、レオーナが笑った。アスランまでくすぐったくなる様な、そんな笑い方だった。
「やったぁ」
「ああ。もう寝ろ。アレだろ? 肌に悪いとかなんとかだ。おやすみ」
「だめ。待ってオジサン」
「なんだ?」
「えっと……その、ね?」
「?」
首を傾げるアスランに、レオーナが瞳を潤ませて唇を動かした。
「キスして欲しいの」
*
そんな事、朝飯前だ。
慣れてる事じゃない。
けれど、目の前の少女が望むなら、アスランは慣れないなりに頑張る。
だから、彼女の上に身を屈ませて、ちゃんとやってみせた。
昔、母親がやってくれたのを思い出したりしながら。
そっと、すべらかな額に触れるか触れないか。そんな風に優しく。
でも、少女は「ちがーーーーうっ」とジタバタしてアスランを戸惑わせた。
「え……違ったか?」
―――なんか「お休み前のお祈り」みたいなのをしてからだったか?
子供時代を必死に思い出そうとしているアスランに、少女はむっくりと起き上がり、顔を近づけて来る。
「ト、トスカノの女神よ、安らかな眠りを子羊ちゃんに……?」
「なにそれ、テキトー言わないのっ!」
「どうすればいいんだ?」
「ちゃんと、キス」
「……お、おう???」
何かが激しく食い違っているのを見抜いたレオーナは、人差し指でツンと自分の唇を突いて見せた。
瑞々しく血色の良い唇は、微かな明かりに艶めいている。
彼女の同年代――例えばティル位の男の子だったら――きっと夢中になってしまうに違いなかった。
でも、アスランはオジサンだ。
「……ここに」
「……おお、おおおぅ? ……ッ、イヤ、レオーナ! ソコはアレだぞっ、ソコはお前、オジサンじゃダメだろ」
ようやくレオーナの意思が通じたアスランが真っ当な反応をして、せっせとレオーナをベッドへ押し込める。
「本当にませて来たな。ティルが手を焼いてるのがわかったぜ」
「やだ、待って待ってオジサン!」
「あのな、レオーナ。オジサンの一生のお願いだ。自分を安売りだけはしないでくれ」
「してない」
「男をおちょくっても駄目だ。レオーナ、力が違うんだ。本当に気を付けてくれ」
「……違うのオジサン……」
「違わない。駄目だ」
「オジサンとが良いの……」
キュッと、アスランの手を握る手が縋る様に力をこめた。
微かな爪の感触が、彼女が異性だと伝えて来る気がして、アスランはレオーナの手をなんとか緩められないか戸惑った。
「……おじ、オジサンはオジサンだ」
くすん、と音がする方を、アスランは見ない様にした。
ただ、柔らかい髪をそっと手探りで撫でた。それだけだ。それだけしか、出来ない。
「私には、違うの……」
おおい! おっせーぞおじさん!! と、ティルの怒鳴り声が階下から飛んで来た。
アスランはかなりホッとして、頑とした声を出す。
「もう、寝なさい」
そそくさとベッドを離れるアスランの背に、恨みがましい声が追いかけて来る。
「絶対絶対オジサンなの……っ」
えらいことになった、と、アスランは思った。
一国の騎士団長を務めた歴戦の戦士が、階段を踏み外す位には、動揺して見せた。




