消えゆくものに名残惜しさを
ラヴィは母親と再会した時、一瞬人違いを疑った。
強い風に吹かれながら、呆然と自分の方を見る母親はとてもやつれていた。
華やかな人々の集まりで、常に中心で明るく優雅に微笑んでいた母とは、明らかに違っていた。
呼吸しているだけで、自然と煌めきが零れる様な人だった。
到底追いつく事の出来ない、憧れの人。
その人が、目の前で頼りない枯れ木の様に立ち尽くしていた。
―――お母様……。
横に並ぶバドに、ポンと背を叩かれてラヴィは救いを求める様に彼を見た。
バドは彼にしては珍しく優しく微笑んで、ラヴィの手を引いてこちらを見ている女二人へ歩き出す。
ラヴィの母ではない、もう一人の女がバドへ向かって駆け出した。
バドは彼女に向って大きく手を振り、彼女が飛び付いて来たのを受け止めた。
女はギュッとバドを抱きしめた後、思い切り彼に拳固を落としさらに頬を張った。
「いっ、いってぇ……!!」
「この……っ! バカ息子!!」
「久々なのにコレェ!?」
「どうしてワタシに何も言わずに行っちまったのサ!! 黙って家出なんてとんでもないクソ餓鬼だよアンタは!!」
「こうなるからだろ!?」
ラヴィとその母親であろう人の前で子供の様に叱られるのは、流石に体面が悪いのだろう。バドは焦った様子で後退りしている。
女は結構な剣幕で「うるさい!」とバドに蹴りを入れて、ラヴィに目を留めた。
「アラ……アンタ……」
ラヴィは一度だけ会った事のある女に深々と会釈をして、ぎこちなく微笑んだ。
バドがラヴィの手を再び取り、自分の隣に引き寄せて義理の母親にニヤニヤして言った。
「前に会ったよな? コチラ、ラヴィ・セイルさんでぃす」
紹介されて、ラヴィは緊張気味に「ラヴィ・セイルです」と自己紹介をして、お辞儀をした。
この女には初対面の時もドキドキしたけれど、今回はそれとは違うドキドキでもっと緊張した。
「バ、バド……アンタ、こんな育ちの良さそうなお嬢さんをまさか……かどわかして連れ回したんじゃ……!」
軽く当たっているが、二年も連れ回す幸運には恵まれなかったバドは顔をしかめた。
「んだよ、信用ねぇのな! ちょ、オバハンどいて」
誰がオバハンだ! と怒る義母の蹴りをヒョイと避けて、バドはラヴィの手を引くと立ち尽くしこちらを見ている女の前へ行き、彼女へラヴィの手を差し出した。
女はラヴィを見た。
瞳に掛かった靄が段々晴れて、ラヴィと同じ紅茶色が潤みながら輝き出した。
「お嬢様をお返しに来ました」
と、バドが言った。
『お嬢様!』と、ラヴィは内心バドの言い方を可笑しく思いながら、母を見た。
「……ただいま、戻りました……」
母は、唇を震わせてコクンと頷くと、声が出ないのか『無事で……』と唇を動かした。
ラヴィは顔をくしゃくしゃにして、静かに母に近寄って細い身体に腕を回した。
「ご心配を、お掛けしました……」
「トスカノで、死んだと……」
掴めない夢に縋る様に必死で抱きしめられて、ラヴィは涙を零す。
幼い頃何度も包まれた母の匂いに、深い安堵感が押し寄せた。
鼻を啜る音は誰が出した音だろう?
母娘は固く抱きしめ合って、もぎ取られた空白の時間を静かに満たそうとしているかの様だった。
「トスカノで死んだ事になっています。……色々あって……本当に、色々……。でも、生きています」
震える冷たい手に頬を包まれながら、ラヴィが閊えながら説明をしようとすると、成り行きをウルウルして見守っていたバドの義母が割って入った。
「まぁまぁ! ひとまず店においでよ!」
*
もしも今夜、運悪くイブフェンの崖を登る者がいたとしたらご愁傷さまだ。
今夜は誰も止めちゃくれない。
明かりと騒ぎ声がいつも以上に明るく漏れているにも関わらず、『最後の晩餐』は入り口のドアに『閉店』の札を下げていた。
店の窓を覗けば、荒くれ者達が集まり、奴らが美しい親子を取り囲んでいる。
何か恐ろしい犯罪が行われそうな絵面だけれど、大丈夫。皆良い悪党ばかりだから。
ラヴィは真っ赤な顔の大男にブンブン振り回されているバドの横で、バドの義母と自分の母親に今まであった事を語った。
自分が胸に大事にしまっておきたい事はそっと隠しながらも、話をし出すとすらすらと言葉が紡がれて行く。
話し始めると、過ぎ去った過去の中に正に今いる様な感覚がして、何だか切なく懐かしい。
その時の様に悲しく、その時の様に胸が高鳴り、その時の様に嬉しかった。
けれど、ラヴィはふと気が付いた。
その時の憎しみが、消えていた事に。
その事柄を、悲しみに近い場所から語っている自分に。
カウンター席に座るラヴィの横で、血色を取り戻した母が、聞き漏らすまいと真剣に自分の話を聞いている。向かいにはバドの義母が、料理や飲み物の世話をしながら合間合間に相槌を入れては、母や自分に微笑みを伝染させてくれる。
バドは赤鬼の様な大男を筆頭としたかつての仲間達、『うみねこ団』団員にもみくちゃにされながら、笑い声を上げている。
一時、それらの明るみと騒がしさに心で一線を引いて、今更ながらラヴィは思った。
―――終わったのね。
―――今、わたくしの中で、ようやく終わったのだわ。
小さくて儚くなった感情が、引っ掛かりなく消えゆくべき場所へ転がり落ちて行くのを、見送らなければいけない。
何故だか少し寂しいのが、とても不思議。相手は負の感情なのに。
しかし惜しんだところで、なんになるだろう?
この寂しさはきっと罠だ。大事に抱え込み、温め、囚われるものではないのだから。
これを迎えたのが今この場所、こんなにも賑やかで愛しいときで良かった。
ラヴィはそう思いながら、終焉を迎えた話を紡ぎあげる。
大切に、丁寧に、決して飾る事無く。
「そしてわたくしは、ラヴィ・セイルと名乗るようになったのです」
*
長いラヴィの話が終わり、母が緊張を解く様にフッと息を吐いた。
母親からしたら、過去の話の中の娘だろうと、寂しい思いや危険な目に遭っていれば心配せずにはいられなかったのだった。
「ラヴィ・セイル……」
「ごめんなさい……頂いた名前を捨ててしまって……」
しょうがなかったとはいえ、親の前では気が引ける。
いつもは誇りに思っている名前の力も、今はしぼんでしまった様だった。
「ラヴィ……」
母が初めてラヴィをそう呼んだ。
違和感にドキリとして、ラヴィは母を見る。
母は少し寂しそうに微笑んで「良い名ね」と言った。
「バドさんの国で『笑顔』という意味なのね」
「は、はい」
今度は母の口からバドの名前が出たのに、ドキリとする。
母親が好きな人の名前を呼ぶのは、ちょっと決まりが悪くて、くすぐったい。
「良い名ね」と母は繰り返し、小さく何度か頷いた。
「先程貴女がわたくしの前に現れた時、一瞬誰かと思ったの……。貴女に違いないのに、知っている貴女では無い……とても、変わって……」
「お母様……」
母娘は再会時、お互い人違いを疑ったようだ。
たった二年と少し。けれど、それぞれ劇的な二年と少し。
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいの。わたくし達こそ、なにも出来なくて……」
そう言うと、オリビエはとうとう我慢できなくなったのか啜り泣いた。
美女が泣くと存在感が増すのは世の常で、騒いでいたバド達が首を交互に伸ばしてこちらを見、静かになった。
取り巻きから、ソロソロとバドがラヴィの傍へやって来た。
ラヴィは彼を見上げ、立ち上がると横に並んだ。
「お母様、泣かないで下さい……。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。でも、わたくし、この人に出逢えました」
泣きはらした顔を上げ、オリビエはバドを見る。
バドはちょっと緊張して、酔った顔を引き締めた。
「えっと……出逢ったっつーか、巻き込んだっつーか……」
「ほんとロクデナシだね、バカ息子」
「す、スンマセン……」
バドを信じてはいるものの、オリビエの手前こういう風に茶々を入れたのは、ママ。
ラヴィは笑って、母の顔を覗き込む。
「本当は、わたくしがいなくても、話は進んだと思っています……。そう思いますよね? ちゃんと、良い方に。だって、この方、強いの……」
そう言ってラヴィはバドの腕にそっと触れた。
―――巻き込まれた。本当に。可笑しいわ。バドは、なんて強い風だったかしら。
―――わたくしは煽られていただけ。ひらめく旗の様に表と裏と、はためく際にまぐれや錯覚で見える自分の新しい側面を見つけては……。
「もし時間が巻き戻ったとしても、わたくしは同じ選択をします。わたくしなど必要無いとしても、わたくしには、この方と出逢う事が、必要なので」
「ラヴィ……」
「ラヴィさん……」
ウルウルしたのはバド親子と『うみねこ団』達だ。
「ちょ、おまっ! やり返せ! 男を見せろ!」
「お、おお……」
「百戦錬磨の腕前見せてやれ!」
「プレイボーイ!」
「ヤリ〇ーン!」
「オオイ!? そういう事言うのヤメテ!?」
ママや仲間達にハッパをかけられて、バドがちょっと咳払いした。
取り巻きの荒くれ者達が、忍び笑いを漏らしながらゴソゴソと見守っている。
バドは仲間の動向にソワソワしつつ、「オレ、強くねぇんです」と切り出した。
憎しみを持つのは苦しいのに、気持ちいい。だから、消すのは少し寂しい。
許すのは悔しい。ちっとも気持ち良くない。
この巧みで悪魔的な罠は、いつも傍にある。




