(6)
「あの、タイラさん」
声をかけられたのは、一次通過者たちとともに、中庭を歩き出したときだった。
「おそば、美味しかったです。ごちそうさまでした」
振り向くと、同い年くらいの少女が微笑んでいた。
誰だっけ、としばらく考え、思い出した。最初にそばを渡したあの子だ。
「あ、ひょっとして、食べてくれたのっ?」
「はい。せっかく持ってきていただいたのだから、いただかないと申し訳ないと思いまして。あ、でも時間がなくてほんの一口だけですけど……」
「ううんっ、ジョートージョートー(いいよいいよ)! ありがとー! せっかく作ってもらえたのに食べてもらえなくて、ちょっとヘコんでたんだぁ!」
客観的に見ればあの場面で食べるほうも食べるほうなのだが、ともかく美海は大喜びで相手の手を取った。
島ではまず見ない、真っ白な肌。なだらかな下がり眼の中で、琥珀色の瞳が濡れたように輝いている。同じ色の長い髪は、黒いゴムで結わえたポニーテールだが、侍のようだった沢村とは違い、彼女のそれはふわふわした猫の尻尾を連想させる。
「あたし、平良美海! 平和の平に良好の良、美しい海ね! 友だちはみんな、ミィとかミィミィとかって呼んでるけど」
「ミィさん、ですか。なんだかかわいらしいですね」
「猫みたいで、あんまり好きじゃないんだけどねぇ」
「うふふ。わたしは、速水円。速い水に、円周率の円と書いて、マドカです。十六歳です。よろしくお願いしますね」
「あ、同い年だ。ふーん、円周率の円かぁ。そいじゃ、エンちゃんだねぇ」
「エ、エンちゃん?」
「あいっ、ダメ?」
つい島の友だちの感覚で気安く呼んでしまったが、気を悪くしただろうか。
が、円は恥じらうように指先をもじもじと合わせ、
「いえ、とんでもない。あだ名で呼ばれたことなんてなかったので……うれしいです」
なんだか不思議な子だ。
他の受験者たちは一目でアスリートだと分かる。まとう空気が違うというか、目つきもどこかギラギラしていて、ちょっと話しかけづらい。
だが円は、頭から足の先までほんわかだ。天気のいい日ならティーカップ片手にテラスに座っていそうなお嬢様。上下のジャージがこれほど似合わない人もいないだろう。
こんな子がどうして危険なレースに出たがるのだろう、と美海は不思議に思った。
「ね。エンちゃんはなんでヴァーミリアン・カップに出たいの?」
「わたし、ですか? 特に出たい、ということではないんですけども……」
「ほへ? そんじゃどうして?」
「……憧れている人が、いるんです」
円は口元で両手の指先を合わせた。ほんわかな顔の、そこだけ意志の強さを感じさせる太めの眉毛が、柔らかく開いた。
「もう引退したライダーの方なんですけど。テレビでレースを見て、感動して。その人に少しでも近づくため、ですね」
夢見るような口ぶりに、美海は親近感を覚えた。自分だって、父の背中を追いかけているようなものなのだから。
「ね、ね、それってどんな人? 男? 女?」
「女性です。すごかったんですよ。フランスでは、世界一のテクニシャンなんて呼ばれてたんですから」
「フランス……?」
「ええ。ジェットの本場はヨーロッパですから。特にフランスの『リーグ・アン』は世界で一番レベルの高いプロリーグなんです。その人はですね、そこで日本人として初めてライドしたんです。歴史的快挙! っていうやつですね」
顔中のパーツを線にして、円は話しているだけでも嬉しそうだ。
「よっぽどその人のこと好きなんだねぇ、エンちゃん」
「はいっ。実力もそうですけど、レースに臨む意識の高さ、っていうんでしょうか。そういうところにも魅かれるんです。自己管理にはすごく気を使っていて、女の人なのに間食しないし……本当に頭が下がります」
「うんうん。あたしなんかすぐお菓子食べちゃうもん」
「あ、でも食後のデザートにマンゴーをつけるのは大好きなんだそうですよ」
「へぇ、よく知ってるねぇ」
「ちなみに外出するときは、黒のシンプルなコーディネーションが中心。下着も基本は黒。わたしも今日黒にしてきたんですけど、さっきよく見てもらえたか、心配で心配で」
「うん……うん?」
「やっぱり年下の子が黒っていうのは敬遠されるものなんでしょうか? 自分が好きな色だからって、相手に求めるものまでそうだとは限らないし悩みはつきませんよね本当」
「……」
「あ、もちろん初めてのときは白ですよ? 円、いや私の白ウサギちゃん。君をいただきにきたよ。ああっ、食べて沢村オオカミさん! 思うぞんぶん食い散らかしてっ! ……なぁんて、きゃあっ、円のメガエロス!」
円の息は荒かった。明らかに興奮していた。……性的な意味で。
美海は怯えたように、というか実際怯えて、一歩下がった。
それに気づいたか、円は水をかけられた感じで我に返り、
「あっ! ご、ごめんなさい、つい感情が入ってしまって……! やだ、恥ずかしい、わたしったら、沢村さんのことになるといつもこうで……」
「う、ううん………っていうか、いつもなんだ……」
「後ろ、何くっちゃべってる。黙ってついてこい」
列の先頭から沢村が振り向くと、円は棒でも呑んだように背を伸ばした。
「は、はい! ついていきます! 黙って沢村さんについていきます、どこまでも!」
耳まで真っ赤なその顔を見て、沢村は呆れ加減のため息をついた。
「……速水。お前がジェットに熱心なのはよく知っている。私に弟子入りしにきたくらいだからな。だが試験はあくまで平等。実力のみで判定する。分かるな?」
「はいっ!」
「なら、他の受験者たちの前で、公平性を疑われるような発言は控えろ。以上だ」
背を向けてすすむ沢村。その背中をじっと見送り、円はぷるぷる震えたかと思うと、
「キャー、声かけられちゃった! 沢村さんに声かけられちゃいましたよ、ミィさん!」
「よ、よかったね……」
「もうすごい幸せ! この耳、もぎ取って保存します!」
言うが早いか、円は本当にむぎゅ~っと耳たぶを引っ張りはじめた。
「どええっ? ヤバいよエンちゃんそれはヤバい!」
「だって記念に」
「しちゃダメ! いいから落ち着いて、自分のカラダ大事にしよ、ね?」
必死の説得に「はい……」と残念そうに手を離す円。美海は胸をなで下ろした。
このトライアウトが終われば、沢村はコーチとしてチームを率いることになっている。つまり円がトライアウトを受けたのは、沢村に少しでも近づくため(たぶん肉体的に)なわけだ。すごい動機だが、考えてみれば十六歳の少女が命がけのレースに出ようとするのに、まともな理由を求める方がおかしいのかもしれない。