エピローグ
「ところで、進路どうするか決めたの? エンちゃん」
勉強机に両足を乗っけつつ、美海はたずねた。
隣では、そろそろ出番の増え始めた扇風機が凝りのひどい首をゴキゴキ回している。
『それが、まだ迷ってるところなんです。いい加減決めないといけないんですけど』
携帯の向こうで、円はやけに元気がない。最近あまり寝てないというのは本当らしい。
「大会終わってまだ半年だし、しょうがないって。ゆっくり考えたらいいよぉ」
『でも、わたしが女優なんて……』
「できると思うよぉ。エンちゃん、かわいいし」
ヴァーミリアン・カップをアジアの島国が、しかも全員十代の少女たちが制したとあって、欧米のメディアは大騒ぎだった。現金なもので、大会前は鼻にもかけなかった日本のマスコミも大慌てでそれに追従。美海たちは帰国後しばらく、テレビや雑誌の取材に追われるハメになった。
特に大会MVPを獲得した上、見栄えもいい円は、東京の学校に帰ってからも大忙しだ。スポーツ番組どころかバラエティやクイズにまで出ずっぱりで、先日はドラマ出演の話まで舞いこんできたという。
『本当はジェットを続けて、沢村さんの近くにいたいんですけど……。でも芸能界入りして女を磨いたほうがむしろ近道なのかな、とも思うんですよね……うーん……』
むしろ一生悩んでたほうが世のためなのかな、とも思う美海だった。
『あ、それはそうと。この間、ネットでニュースを見たんですけど、ロロさんが……』
「うん、見た見た! あたし嬉しくって、ページ印刷しちゃったよ!」
美海は、壁に貼りついたA4の記事に目をやった。
タイトルは『元日本代表キャンデロロ、フランスリーグでプロデビュー&初勝利』。
ただし記事中の写真は、ガッツポーズではなく、アザラシのごとく浜辺に打ち上げられたジェットと、その上で目を回すロキシィをとらえている。なんでも喜びのあまり、ゴールしたその足でビーチの観客席まで突っ込んでいってしまったのだとか。
『上の人たちは、大目玉だったらしいですねぇ。それでも「パフォーマンスだ」とか強がってるあたり、ロロさんらしいですけど』
美海はケタケタと笑い、次いでハタ、と、
「ニュースにそこまで載ってたっけ?」
『え? クリスさんからメール、来てませんでした? パソコンのほうに』
「あ、うん。来たけど……エンちゃん、よくあんな難しいメール読めたね」
『そ、そうですか? 普通の日本語だったと思いますけど……』
「えー? だって知らない字ばっかりだったよぉ。『繧ク繧偵#蛻ゥ逕ィ縺』とか」
『文字化けですよ、それ!』
円は激しくツッこんだ。半年たっても美海のヌケ作ぶりは変わらない。それどころか、
「そうなの? よかったー、あたし日本語も読めないようになったかと思ったよぉ」
などとほざくあたり、パワーアップしている感すらある。
円が『解読』したところによると、クリスはフランス二部リーグで奮闘中。先日初勝利を挙げ、一部昇格に向けて猛練習の日々を送っているとのこと。
また、シベリウスは引退を表明。皮膚ガンの治療は順調に進んでいるようで、完治した暁には、テクニカルコーチとしてリーグに復帰する予定という。
ジュリエットは、大会で心境の変化があったのか、ちょっと大人しくなったそう。一方、少し前向きになったというシャルロットは、ロキシィと同じ時期にプロデビューし、やはり初勝利を挙げた。シベリウスの引退ショックも下火になった近頃、地元メディアは『後継者』は彼女かロキシィかと騒いでいるらしい。
「ふえーっ、みんながんばってるんだねぇ」
『ミィさんこそ、すごいじゃないですか。プロになるんでしょう?』
「うーん。合格できれば、の話だけど」
『どうしてですか? ミィさんなら楽勝ですよ』
「いや、実技はともかく、筆記がね」
言いながら、机の上の参考書に、げんなりとした視線を落とす美海。円は苦笑した。
壁掛け時計から、正午の音楽が鳴った。美海はふと話を止め、物思いにふけった。
円のほうも同じだったのだろう。沈黙を置き、慮るような声で、
『本当に……見にいかなくていいんですか? 舞浜でやるんでしょう?』
「うん。だって、次に会うところは決めてるから」
電話の向こうからどこか満足げな沈黙と、『そうですね』という声が返ってきた。
「美海ーっ! 出前ーっ!」
「あいっ、いけない。そんじゃエンちゃん、また!」『はい、また』
美海は携帯を放り投げて部屋を出た。渡されたおかもちを背負い、玄関を飛び出す。
宮古島の空は、今日も果てなき青天井だ。
陽ざかりの道を一心に駆ける。この先には港がある。太っちょのイルカと、無限の海が待っている。道は途切れず、はるか遠くへ続いてゆく。
自然と笑みがこぼれ出た。
この道を歩いてゆこうと思う。終着点の先にあるものを、自分は見てしまったから。
この先に待っている人がいるから。
(また会おうね、沢村さん。今度は――)
「喜びは五人分になるんですぅー。だったら私はそれがいいんですぅー」
「もう堪忍してくださいよ、小野田さん」
いい加減しつこい小野田の口マネに、沢村はげんなりと声を出した。
「だってなぁ、あんだけカッコつけといて結局このザマだもんなぁ。うっひゃっひゃ」
「しょうがないでしょう。あんなのを見せられたら」
そう、しょうがない。これは断じて変節ではない。あくまであの少女たちの走りを目の当たりにし、自分の心と今一度向き合った上での、至極真っ当な結論だ。
そう自分に言い聞かせながら、グローブの奥まで『右手』を押し込む。
「ま、たしかにアレで火がつかなきゃあ、ライダーじゃないよな。ちくしょ~、俺もあと二十年若かったらなぁ」
小野田は巨体を揺らして、からからと笑った。
舞浜ビーチは、スタート前の準備に大わらわだ。波打ち際にジェットが並び、白い砂浜の上では、係員たちがいかにも慣れていない感じでおたおたと走る。階段ベンチの観客席は、七割の入りといったところか。
ヴァーミリアン・カップの後、にわかに到来したジェットブームは半年を経て落ち着きを見せはじめている。協会理事としては、これからがいよいよ正念場だ。
「で、どうなんだ? 義手のあんばいは」
沢村はウェットスーツの袖に包まれた細い右腕を、曲げ伸ばししてみせた。
「ヒジと手首はかなり良くなりました。あとは握力ですが、慣れるしかないですね」
「継ぎ目の痛みは?」
「ずいぶんマシに。どのみち、競技中は気になりませんよ」
ライダーたちに呼び出しがかかった。沢村はゴーグルを額にひっかけた。
「それじゃ、行ってきます」「おう」
テントを出る。陽光が目の前を真っ白に焼く。
「真希」
振り返る。色を取り戻しゆく視界の中、小野田は嬉しそうに微笑んでいた。
「よかったな」
沢村は一つ会釈をして、砂浜に歩を進めた。
小野田には強がりを言った。
実は、義手と傷口の継ぎ目は、競技中でも死ぬほど痛い。これなら普段はおとなしくしていた分、幻肢痛のほうがよっぽどましだ。
その幻肢痛は、大会を境に跡形もなく消えた。きっとあれは、渡し損ねたバトンが傷口に埋まっていたのだと思う。それも無事渡し終えて、万事解決めでたしめでたし、にしておけばいいものを、前よりもっと痛い思いをしようというのだから、我ながら何という馬鹿だろうか。
――まぁ、いい。
あのくそたわけどもが世界一になったのだ。馬鹿も、きっとそう悪くない。
【アナウンス、アナウンス。ライダーの方々は、練習走行を開始してください】
ライダーたちが水辺の相棒に乗り込んでゆく。沢村は、他の選手が全て海に出たのを確認してから、デッキに片膝を置いた。
とうてい他の子たちにはついていけまい。義肢はまだ使いこなせず、四年のブランクで体が海を忘れている。こんなアマチュアの地方レースでも最下位、いやそれどころか転覆もありえる。
「さぁ、せいぜい恥をかきに行くか」
沢村はバーを握った。生身と義手、両方の手に力を込める。イルカが気持ちよく鳴きはじめる。砂を蹴る。波に飛び込む。オンボロな自分を、海が優しく抱きとめてくれる。
自然と笑みがこぼれ出た。
この道を歩いてゆこうと思う。終着点の先にあるものを、自分は見てしまったから。
この先に待っている人がいるから。
(また会おう、平良。今度は――)
今度は、同じ、海の上で。