(14)
美海の丸い目が、ラストフェイズ最後の難関『ケーキカット』をとらえた。
左右を切り立った崖に挟まれた、L字型の水路である。
父が命を、沢村が右腕を失った場所。今度はここで、自分が全てを手に入れてみせる。
奥歯を噛み、なけなしの儀力を振り絞って、美海はシャルロットの半艇身前に出た。
左に付かれたのは痛恨だった。最後のターンは左曲がり。そして自分の左目は、もう――役に立たない。傷口が開き切って、ぬぐってもその上から血が垂れてくるのだ。
となれば、相手の動きを見る必要があるイン差しはできない。アウトコース、それも相手と接触することのないほど遠くから、全速でまくるしかない。
亀裂の中に入る。瞬間、視覚が死んだ。
陽光あふれる海上からいきなり暗い亀裂の中に入ったのだ。瞳孔がついていかず、目の前が真っ暗になる。左右の岩壁にモーター音が反響し、聴覚までも潰えた。
が、暗闇も耳鳴りも先刻承知済みだ。体が覚えたタイミングでそのときを待つ。
――ずっと、思っていた。
どうして父さんは死んだのか。命をかけてまで、レースに挑んだのか。勝つということに、命をかけるほどの価値があるのか。
今なら分かる。答えはもう、この手の中にある。
父が追いかけた。沢村が受け継いだ。四年の時を越え、ロキシィ、円、クリスが自分に繋いでくれた。その大切なもののために、あたしは負けるわけにはいかない。
――そうだ。あたしは。
「あたしは――夢を託されたんだ!」
光が弾けた。正面から獰猛なスピードで岩壁が迫る。恐怖心を奥歯で噛み殺し、衝突寸前まで引きつけてから左に切り返す。
読まれていた。
すぐ左、ヒジとヒジがくっつきそうな位置までシャルロットが迫っていた。先に動いた分、狙いがバレてしまったのだ。
真紅の船尾がこちらの航跡をえぐり取るように迫る。ヴェルサイユ・ルーレット。
右にハンドルを切ろうとした美海は、一瞬にして絶望のドン底に叩き込まれた。
右はすぐに岩壁だ。逃げられない。
船首が海から引きはがされてゆく。スローモーションで視界は上に流れてゆく。重力が消え、ナナメ右四十五度に浮き上がるジェット、死を運ぶ岩の壁が、避けようもない角度で目の前に迫ってくる。
(終わっ……)
――美海。
「!」
美海は、とっさに後方加重した。一気に背中をエビ反らし、バーにぶら下がるようにして、左後方に頭を持って行く。
と同時に渾身のスロットル。きりもみしながら飛び出したジェットは、船底から岩壁に激突した。
【うわあああっと、日本艇、大破! ……い、いやっ?】
壊れない。どころか、美海艇は岩の壁を斜めに切り上がってゆく。いや、正確には。
岩壁にへばりついた波の上を、だ。
【な、なんだぁ? シャルロット艇が起こした波を! まるでサーフィンのように!】
もちろん全部がサーフィンのようにはいかない。ごりごりというイヤな音は、船底が岩肌に削られている証拠だ。
眼下では、体勢を整えたシャルロットが、水を切り裂いて追いかけてくる。船底はボロボロ、このまま着水したら、絶対に勝てない。ならもう、道は一つだ。
岩肌の滑走路が切れる。正面に青く広い空と、ゴールデンビーチの真正面に浮いた、栄光のゴールブイが見えた。
渾身のスロットル。腹の中の水を残らずブチ撒けて空へ。
「と……べええええええええええ―――――――――――――――――――――っ!」
イルカが、飛んだ。
……。
…………。
………………。
「ぶはっ!」
美海は水面から顔を上げた。
泡立つ波間に座っている。お尻が砂地についている。すぐ横で、青いジェットが白い腹を見せて波打ち際に打ちあがっている。空は高く澄んでいる。
何も聞こえない。水が入ったのだろうか、両耳はボワボワと鳴るだけだ。
振り返れば、ゴールブイのあたりから自分のところまで、大きく左に曲がる航跡がゆらめいていた。無我夢中で突っ込んだ拍子にカーブして、浅瀬に突っ込んでしまったらしい。着水の衝撃でゴーグルまで吹き飛んでしまっていた。
勝ったのか、負けたのか、それ以前にまともにゴールできたのか。わけが分からず、ひたすらあたりを見回していると、波を分けて歩み立つ二本の足があった。
「シャルロット……ちゃん……」
シャルロットは、ただ、無言。ゴーグルはすでに外していて、あらわになったアメジストの瞳が、ほんの少しの怒りを湛えたような色でこちらを見下ろしている。
いきなり視界が持ちあがった。
襟首を掴まれ、立ちあがらされたのである。
「え、ちょ、ちょっと……?」
そのまま浜辺の方へ乱暴に突き飛ばされる。よろめき、止まり、顔を上げたところへ。
「ミミ――――――――――――!」「モ―――――――――コ――――――――!」
祝福が襲ってきた。美海は二人がかりのタックルに押し倒された。
「優勝だヨ、世界一だヨ、ミミ!」「心配させやがって、このヤロー! バカヤロー!」
「ゆ……ゆうしょお?」
涙まみれの笑顔。もみくちゃにする手。跳ねまわる水飛沫。どうにか体を引き起こそうとしたところで、再び引きずり倒される。
「さ、沢村さん?」
沢村は何も言わず、ただ抱きしめてくる。嗚咽が伝わってくる。想いが伝わってくる。
「さ……わむら、さん……っ」
美海の目に、たちまち涙があふれ出た。
後はもう、言葉にならなかった。
耳から温い水が抜ける。
入れ替わりに、地鳴りのような大歓声が飛び込んできた。