(13)
「バカな!」
シベリウスは画面に向かって叫んだ。赤いジェットは今、ようやくスピンから立ち直り、美海艇を追って直進し始めた。
だが遅い。あまりに伸びがなさすぎる。先に見せた加速は見る影もなく、有利なはずの直線で、むしろ差は開いてゆくばかりだ。
カメラがシャルロットの顔をアップで映す。ゴールデンビーチがどよめきに揺れる。
紫色の肌。荒い息。顔をびっしりとおおう汗。症状は明らかだった。
【スタミナ切れだ! なんということだ! フランス艇シャルロット、ここに来てまさかのガス欠! 最後の最後に来て、あまりにも、あまりにも痛い大失速――!】
バカな、とシベリウスは今一度叫ぶ。
「まだ二分も経ってないのよ? どうしてこんなところで息切れするっていうの! 練習では、一度だってこんなことなかったのに!」
「プレッシャーだ」
沢村の顔には、会心の笑みが浮かんでいた。
「抜けはしなくとも、平良はひたすらアタックをかけ続けた。練習のときとは、精神的な圧力が二倍も三倍も違う。しかもシャルロットはもともとスターターだろう。スタミナには不安がある」
「バカ言わないで! 体力作りなら徹底的に」
「お前の言う体力作りとは、一日四時間そこそこのエアロバイクのことか?」
シベリウスの表情が消えた。
「思い出してくれたか。下半身を見れば、鍛え方もスタミナの量も、すべて分かる。私がお前に唯一勝る特技が、それだったな」
もちろん、百パーセントの確信があったわけではない。アタックでどれほどシャルロットのスタミナを削れるか、むしろ分の悪い賭けだった。もし、わずかでも、美海に迷いがあったなら、間違いなく結果は逆だったろう。
それでも、彼女は自分を信じてくれた。それが、この結果だ。
「アンネット。お前はシャルロットのことを芸術品と言ったな。それはつまり、彼女をモノとしてしか見ていないことの証だ。そんな関係のどこに信頼がある。心がある?」
「……っ」
「お前は彼女をたった一人で走らせた。五人がかりの私たちに、かなうはずがない!」
シベリウスはよろめき、愕然とスクリーンに目をやった。
「負け、る……? 負けるの……? 私が、私のライダーが……」
苦しい。息がもたない。脚が動かない。もうこれ以上、走れない。
かすんだ視界の果てへ遠ざかってゆく、日本艇の背中。シャルロットはうなだれた。
結局、自分は氷后にはなれなかった。もし本物なら、体力切れなんてするはずがないのだから。どれだけ技を真似ても、心を凍らせても、偽物は偽物。人形は人形だ。
(なんだ……元通り、じゃない……)
シャルロットは薄く笑った。何のことはない。ただ最初に戻るだけだ。誰も見てくれない、気にもかけてくれない。打ち捨てられた、ただの人形に……
『シャルロット!』
耳元に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
(シベリウス……さん……)
チームのテントに戻ったのだろう。自分を激励しに来てくれたのか。それとも叱り飛ばしに来たのか。だけど、どちらにしろもうダメだ。どんな言葉も、きっとこのガス欠の体を動かしてはくれない。
『シャル……』
イヤホンからの声は、言いかけて、惑うように止まった。
あとは何もなかった。ただ、かすれた息が聞こえてくるばかり――。
「…………………………………………」
シャルロットは。
「あ……ああっ……?」「お、おい……」「うそ、だろ……」
観客の声の目が、一斉に注がれる。ざわめきがさざ波となって広がってゆく。
赤いジェットが、再び加速しはじめたのだ。
【こっ……これは……し……信じられない……】
(分かりました。シベリウスさん……)
ほつれた銀色の髪が、風を吸って弾ける。紫に染まった顔が、力強く前を向く。くまの浮かんだ目が、まっすぐに進むべき方向を射抜く。
差が詰まってゆく。それに比例して、驚きの声が歓声へと変わってゆく。
――まだだ。
自分には、まだ見てくれる人がいる。
見える。ヘッドセットを手に、何か言葉を探して、だけど思い浮かばなくて。奥歯を噛みしめ、泣きそうな顔でディスプレイの自分を見つめている、その人の姿。
勝つとか負けるとか、気持ちいいとかよくないとか、そんなもの、最初からどうでもよかった。あのとき、誰も見ていない建物の陰で、誰も見ていない私を、あの人が探し出してくれた。見つけてくれた。触れてくれた。それだけが嬉しかったのだ。
だからこそ、やらなければならないことがある。死んでも譲れないものがある。
誰よりも大切なその人の目の前で、自分ができること。それはただひとつ。
「勝ちます《ヴィクトワール》!」
真紅のジェットが波を突き破った。驚きと歓声が、ヴァーミリア島を揺り動かした。
【並んだ並んだぁ! シャルロット、再び先頭に食らいついた! 死闘は終わらない! ラストフェイズ、両者一歩も譲らずついにクライマックスだ―――――――ッ!】