(10)
【さぁ、『チェックメイト』もいよいよ終盤! 残り数本の石柱を残すのみ! ここまでノーミスで迷路をクリアしてきた両者、その差はもうほとんどありません!】
二センチ。さっき横切った岩と、ジェットとの距離だ。
いや、ちゃんと測ったら二・五かもしれないけど、とにかくそれくらい近かった。
そして、それでもなお、まだ近づけると言い切れる。それくらい『見えて』いる。次々と襲いかかってくる岩のデコボコも、飛び跳ねる水飛沫の一滴一滴さえも。
(いける!)
頭はスカッと晴れ渡り、視界はこれ以上ないくらいに鮮明。体はキレキレにキレまくって、自分でも恐いくらいの絶好調だ。今なら誰と競り合っても、負ける気がしない。
視界が開けた。残りは一本、『キング』の駒を思わせる、ひときわ野太い石柱だけ。
【日本艇ハンドルを右に切った! 岩の右側を抜きにかかる!】
と同時に、赤いジェットが横から飛び出してきた。
迷路に入る前は一艇身先に行かれていたのが、今はほぼ同順――ということは、テクニックはこちらのほうが上だ。一度先行してしまえば、ゴールまでブロックできる。
ここが勝負のカンどころだ。美海は波を蹴った。
そうはさせじと、シャルロットがその左脇にへばりつく。左ターンしようとする美海艇と岩のスキ間に潜り込み、内側から差しにくる動きだ。
――やればいい。
ここを抜ければ、短いながらも直線コース。下手に妨害するよりは、そのままアウトコースでスピードを維持し、前に出たほうが得策だ。
フランス艇が岩肌ギリギリを切り進む。日本艇はそのギリギリ外側をかすめ通る。二本の航跡が一本になりそうな距離で弧を描き、その頂点、最も角度の鋭いところで美海は一気に加速、シャルロットの前へ出る。
海がひっくり返った。
(――な)
声も出なかった。
ひっくり返ったのは、海じゃなくて自分とジェット――そう理解した時には、重力は足元から消え去っていた。
粘性を帯びた時間の中、視覚と聴覚だけが異様に冴えていた。
美海は見た。そして聞いた。
逆さまの視界に映る、シャルロットの氷のような無表情。
そして、抑揚のない、どこの国の言葉でもない、声。
「みりかたねりちうき」
「この恥知らず!」
紙を叩くような音と、お姉様の甲高い怒鳴り声が、建物の間に反響した。
閃光のような痛みに遅れて、じんわりと頬が熱くなった。
遠くからは、表彰式の華やかなアナウンス。ジュニア世界選手権。表彰台をフランス勢が独占。一位、キャンデロロ選手。二位、ギャバン選手。三位、キタガワ選手……
「表彰式なんて恥ずかしくて出させられませんわ! 六艇身……六艇身もよ、あんなに差をつけられて、しかも、よりにもよってあのロキシィに! ああもうっ、考えただけでいまいまいまいまいましい!」
お姉様はがりがりと頭をかき回した。かつてジュニアで優勝したお姉様にしてみれば、こんなところでつまづく自分は、ギャバン家の面汚し以外の何でもないのだろう。
私もそう思う。
いつだって、お姉様の言うとおりに生きてきた。お姉様はすごいから。何をやっても上手にできるし、何をやっても正しいし。周りの大人の人たちも言っている。お姉さんみたいに、お姉さんに負けないようにがんばりなさいね、って。
だからそうしてきた。お姉様の言うことを聞いて、お姉様の真似をして生きていれば、何も間違いなんて犯さない。そう信じているから。
「大体、どうしてあそこで抜かなかったんですの! 最後から三番目のブイ! 外からまくれたでしょう? どうしてあんな何でもないところでフラフラするんですの!」
どうして、と言われて私は困った。人形の不出来を怒る人はいても、その理由を人形に問う人はいない。
答えを言語にするのに少しかかった。次いで、答えるべきかどうかを迷った。
――だって、お姉様なら。
黙りこくる私に、お姉さまは業を煮やしたのか、
「もう結構! 今日は帰ってくるんじゃありませんことよ! そのへんで野宿なさい!」
遠ざかる背中を、私はぼんやりと見送った。
うずくまる。群れからはぐれたのだろうか、足元で蟻が死んでいた。
「泣かないの?」
顔を上げた。いつからそこにいたのか、女の人が建物の壁に肩をもたせかけていた。
その人には見覚えがあった。いや、見覚えどころじゃない。仮にもライダーを名乗るなら、知らないわけがない。
――でも、どうしてここに?
「探してたのよ。……それにしてもひどい言われよう。実のお姉さんでしょ? あんな言い方されて悔しくないの?」
「……別に」
強がりじゃない。本当に、悔しくなどなかった。ただ、お姉様の言うとおりにできなかったこと、自分が不良品なのだということを認識した。それだけだ。
その人は「ふーん」と一房だけ長い前髪をいじり、
「あの場面、まくりに行っちゃあダメよね」
私はハッと顔を上げた。食いついたな、とばかりのニンマリした笑み。
「優勝した子は、スタミナに難があるみたいね。後半、明らかにターンが外に膨らんでたもの。そんなところへまくりにかかったら、内から弾かれるのがオチ。だからあそこはインを差しに行くのが正解……貴方がやろうとしたようにね」
「……」
「どうして途中で止めたの? いい入り方だったのに」
見破られたことには驚いた。だけどその次にはもう、空しさが舞い降りてきた。
――どうでもいいじゃない。
答えはある。でも、それをこの人に言わなければならない理由が、どこにあるのか。
お姉様以外の人間とつながりを持つ必要が、どこにあるのか。
黙っていればそのうち飽きて帰るだろう。私は顔をうつぶせた。――と。
「綺麗な肌」
しゃがみこんだその人の手が、私の頬に触れていた。
凍てつくような美貌が、文字通り、目と鼻の先にあった。
「貴方に興味があるのよ、シャルロット=ギャバン。なぜ、ワザと負けたの?」
それでも、無視することはできたはずだ。だけど私は、ささやき声に引き込まれるまま、本心を漏らしていた。
「お姉様なら……抜けなかったから」
「……?」
「私は、お姉様の真似をしないといけないから」
その人は少し考え、
「つまり、お姉さんのできないことをしてしまったら、真似にならないから? だから抜かなかったっていうの?」
私がうなずくと、眉を寄せて寂しそうに笑い、
「あ……」
額に唇が触れた。絹のような柔らかな感触。二つ名とは裏腹の温かさ。
どうしてだろう――気持ちが和らいでゆく。
「気持ちいい……? でも、勝てばもっと気持ちいいわよ」
「かて、ば……?」
「人真似ができること、それは貴方のかけがえのない才能。だけど悦びまでは模写できない……。貴方が望むなら教えてあげるわ。もっと、きもちの、いいこと……」
言葉の意味はよく分からなかった。ジェットに乗って気持ちよかったことなんて、一度もない。ただお姉様の後を追うためだけにはじめ、そして続けてきたのだから。
だけど、その眠りに誘うような声は、確かな温度をもって私の体に染み込んだ。気持ちがふわふわする。頭の中がスープになる。夢の中にとろけてゆく……。
(気持ちいいって……どんなのだろう……)
「知りたい?」
「は……い」
その人はゆったりと微笑んだ。
「いい子ね……」
氷細工の顔が、ゆっくりと近づいてくる。私は目を閉じた。拒むわけがない。
なぜならそれは、氷后の世界に連れて行ってもらうための。
契約、なのだから。