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サムライ・ドルフィンズ  作者: 古池ケロ太
ヴァーミリアン・カップ
42/50

(8)

 ゴールデンビーチは興奮のるつぼだ。

 沢村はヘッドセットを握りしめ、背後からの大歓声に押し負けぬよう絶叫した。

「速水ッ! 聞こえるか! 今すぐ艇を止めろ!」

 返答はない。だが、呼びかけを止めるわけにはいかない。

「速水! 返事をしろ! ストップするんだ、速水――ッ!」

 ディスプレイが映す円の顔色は、もはやすさまじいほどだ。

 チアノーゼどころか、全面が土気色。唇はどす黒く染まり、まぶたは落ちかけ、その奥の目はまるで焦点が合っていない。

 何より呼吸のリズムがおかしい。しばらく無音だったかと思うと、突然ケイレンしたような異様な息継ぎがイヤホンに飛び込んでくる。

 あまりにも危険だ。歴史がそれを証明している。

 第八回ヴァーミリアン・カップ。男子ドイツチームのセットアッパー、ベン=マイヤーは、最下位でバトンを受け取った。逆転は不可能と誰もが考えたが、彼はあきらめなかった。驚異的なペースで先行艇を猛追、とうとう先頭まで追い上げたのである。

 が、バトンを渡す直前で、マイヤー艇は突如転覆した。

 心臓発作――急すぎるピッチが身体の限界を超えたのだった。

 そのときと今の状況は、あまりにも似すぎている。

 いや、マイヤーのほうがまだマシだ。完走できなかったことが逆に幸いし、彼は一命を取りとめたのだから。

 ――もし、走り切ってしまったら。

 沢村の背筋に冷たいものが走った。

【うああああっと! フランス艇、ここで再び前に出た! 渾身のダッシュで日本艇を一気に引きちぎりにかかる!】

 ジュリエットが出た。彼女も足を残していたのか――いや、そうではない。

 高慢な顔は醜くひきつり、瞳孔は恐怖に開き切っていた。彼女にしてみれば、ゾンビに追いかけられているようなものである。パニックに陥り、暴走しているに過ぎない。

 そして、だが、それでも。

【は、離せない! ハヤミ、逃げるジュリエットにくらいつき、依然その差は半艇身!実況の私も信じられません、一体どこからこんな力が沸いてくるんだ!】

「どうなってんだ、あの子の体はぁ! これで十分近く全力疾走だぞ!」

「血にガソリンでも混じってんのかよぉ!」

 もはや嘲るものなど一人もいない。観客は総立ちで、口々に驚きの声を上げた。他チームのコーチたちも、ただ呆然とディスプレイを見つめるばかりだ。

 客席で、誰かがつぶやいた。

「これが……カミカゼってヤツかよ」

 他の誰かが後に続いた。

「カミカゼ……?」「日本のカミカゼだ」「カミカゼ!」「KAMIKAZE!」

 つぶやきは合唱となり、波紋のように客席に広がってゆく。

「GO AHEAD! MADOKA!」「JAPAN! JAPAN! JAPAN! JAPAN!」「COME ON! COMEOOOOOOON!」

 スタート前までは誰ひとりとして口にしなかった声援。沸き上がるJAPANコール。ゴールデンビーチが、いや、いまや島中が一つになって、円の激走にエールを送る。

 ――黙れ。

 沢村は心中で全ての観客を呪った。

 口を閉じろ。その声が届いたら彼女はまた走りだしてしまう。死へと向かってしまう。

 それとも貴様らは私の教え子を殺したいのか。それほど見せ物に飢えているのか。

 なら、代わりに私が死んでやる。貴様ら全員の目の前で、腹かっさばいてみせてやる。

 だから、頼む。もうやめてくれ。これ以上、あの子を戦わせないでくれ。かけがえのない人を失うのは、もう嫌なんだ。

 そのとき、イヤホンにかすかな音が忍び込んできた。

『……て……の……』

「! 速水! 聞こえるか、速水ッ!」

 波と風の音がかぶさって、そのあまりに小さな声は聞き取れない。

 沢村は耳をすませた。熱にうかされるような声で、円はこう言っていた。

『うけての……みぎ、に……つけて…………ひだり、て、で……わ、たす…………』

 泣いてはいけない。

 こんなときまで彼女は自分の教えをなぞろうとしている。そうまでさせた、これは自分の責任だ。だからこそ、自分が彼女を護らなくてはいけない。止めなくてはいけない。こんなふうに、下を向いてこらえている場合ではないというのに――。

「なぜだ、どうしてなんだ、速水……」

 どうしてそこまでする。お前はプロでも何でもない、ただの高校生じゃないか。

 賜杯のためか。仲間のためか。この五か月、投じた努力のためなのか。

 なら、もういい。やめてくれ。そんなものが命と同等であってたまるか。

(それともお前にはもっと大事なものがあるのか。命と引き換えにしてでも守りたいものが)

 それは何だ。一体、何のために――。



「素晴らしい演奏だったわよ、円さん!」

「すごいわ、ピアノとバイオリン、両方でコンクールを獲るなんて」

「本当、神童っているものなのねぇ。次もがんばってね」

 ピアノ、バイオリン、バレエ、お茶にお花に書道に舞踊。

 小さいころから、なんでもできた。何をやっても他の子たちより上手で、大人の人たちやお稽古の先生はたくさん褒めてくれた。父様や母様も、とても喜んでくれた。

 うれしかった。もっと褒めてもらいたかった。だから、休むことなく頑張った。

 それが所詮は、いいお嫁さんになるための準備なんだと分かっても、特にがっかりはしなかった。だって、未来のだんな様が褒めてくれるのだから。

 けれど、ある日突然、考えた。

 それは本当に自分がやりたいことなんだろうか。

 たとえばもし、わたしの周りから「偉いね」「すごいね」と言ってくれる人が消えてしまったら。ピアノもバイオリンもバレエも、お茶もお花も書道も舞踊も、「だからどうした」で片づけられてしまったら。

 わたしは、どうするんだろう。

 本当のことが分かったのは、そのときだ。ピアノもバイオリンもバレエも、お茶もお花も書道も舞踊も、本当はどれもわたしと噛みあっていない。どれにも浸っていない。

 その日から、すっかりからっぽになってしまった。もう何に対しても喜びがなかった。どんなおいしい料理を食べても、砂を噛んでいるような――。

 テレビを見た。

 いや、視界に映っていたというほうが正しい。なんとなくつけただけのチャンネルで、イルカのような乗り物が激しく水上を走っていた。ジェットレースというらしい。注目されていたのは、そのころテレビにちょくちょく出ていた、ポニーテールの人だ。

 その人が事故を起こした。岩にぶつかってしまったのだ。恐ろしい量の血が水面を真っ赤に染めた。

 隣の母様が悲鳴を上げ、慌てて電源を切った。ああ怖かった、円さんもびっくりしたわね、忘れましょうね――胸を押さえながら、母様はそう言った。

 だけどわたしの胸には、事故の衝撃よりも強くこびりつくものがあった。

 血みどろの水路と、ちぎれた片腕。誰もが目をそらし、テレビの電源を切る、それぐらい凄惨な光景。だけどわたしは、たしかに見た。

 それでもその人は、ジェットを動かそうとしていたのだ。

 腕を失くしたことには、気づいているはずなのに。血の池から這いあがり、片方だけの腕をハンドルにかけ、瞳に炎を宿らせて。その人は、まだ勝負を捨てていなかった。

 からっぽの体の中に、泉のように疑問が沸いた。

(どうして? どうしてそこまでするの?)

 そんなことしたって、誰もあなたを褒めてくれない。世界中の誰も、拍手なんて送ってくれないのよ。なのにどうして。

 幻聴だろう。その人と話したことはないし、どんな声色かすらも知りはしない。

 だけどそのとき、たしかに聞こえたのだ。

 一寸の揺らぎもない、彼女の声が。

 ――だからどうした。

 その人の名は、沢村真希という。



(沢村さん――)

 見てくれていますか。

 わたしはちゃんと、走れていますか。あの日のあなたに、わたしは近づけましたか。

 もう、前が見えません。真っ白です。コースも、海も、空も。

 だけど、沢村さん。あなたがいます。

 あなたがジェットを駆って、あのときのままの姿で、わたしの目の前を走っています。

 沢村さん。わたし、幸せです。命なんていらないくらい。

 でも、もし、今。その代わりに貰えるものがあるのなら。

 声をください。

 あなたをもっと近くに感じさせてください。

 そうすればきっと、あとほんの少しだけ走れると思うから。

 沢村さん。聞かせてください。どうか、声を。

 声を――


「コーチ、声をかけてあげてくだサイ」

 クリスが横に立っていた。

 唇は渇き、疲れの色がありありと浮かび出ている。二つの青い瞳は大粒の涙をたたえ、しかし、それでも強く光を放っていた。

「マドカ、頑張ってるじゃないデスか。アナタを見てジェットをはじめたマドカが、あんなに頑張ってるじゃないデスか」

 クリスは沢村の胸倉を掴んだ。

「声かけてやれヨ! 頑張れって言ってやれヨ! コーチ、アナタしかいないんだヨ!」

 冷静さの仮面をかなぐり捨てて、クリスは絶叫した。

 沢村は、生気の抜けた様子で体をよじった。再び目を向けたディスプレイの中で、円はなおも走り続けている。イヤホンから流れる吐息は、今にも消えそうだった。

「……はやみ」

 一言を口にするのは、途方もない勇気が必要だった。

「速水」

 二言目には、さらにおびただしい闘志が必要だった。

「速水!」

 三言目を発した途端、恐怖が悪魔のようにのしかかってきた。勇気も闘志もかき消えた。

 左手に噛みついた。親指の付け根にしこたま歯を立てる。気が狂うほど痛かった。

 だが、もうこれしかない。こんな情けない自分を動かすのは、勇気でも闘志でもなく。

 ――この痛みしか、ない!

 噛みちぎった。肉片を吐き捨て、血まみれの口で、沢村は叫んだ。

「走れェ――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!」



 ぼやけた視界の中、そのシルエットは自分に向かって手を伸ばしているように見えた。

 ――沢村さん。

 円はバトンを握る左手を突き出した。受け手の右につけて、左手で渡す。腕は水面と平行に。気が遠くなるほど繰り返した練習のとおりに。意識は薄れても、身体が覚えているとおりに。

 強くバトンを握り返す感触が、手に伝わった。

「後はまかせて。エンちゃん」

(さわむら、さん……?)

 じゃ、ない。だけど、それには聞き覚えがあった。

 一寸の揺らぎもない、彼女の声。

 力強くて、心強くて――胸の奥に火を灯す言葉。



「絶対、勝つ!」

 最後の海へ、美海は駆け出した。

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