(7)
ジュリエットは笑みを押し殺した。
まだ五キロ地点だ。勝利の確信にはまだ早い。しかし、である。
左に並ぶ日本艇、ハヤミと言ったか――の顔に横目を流すと、もう我慢できなかった。
息が荒い、なんてものではない。ノドが喘鳴している。開きっぱなしの口に水飛沫が入るたび血を吐くような咳が出る。首は据わらず、目はうつろ。そして顔中に浮かびあがるチアノーゼ――完全な酸欠状態だ。
ジュリエットは身震いをおぼえた。
(ああもうっ! そんな顔しないでくださいませ! 幸せに圧し殺されそう!)
彼女には感謝しなければいけない。こんなブザマでトレビアンな姿を見せてくれた上に、自分の踏み台になってくれるのだから。
スピーカーが風に乗せて、実況の声を運んできた。
【さぁ、セカンドフェイズは意外な展開になった! 五キロを過ぎて先頭はいまだ日本艇ハヤミ! しかも後続を五艇身も引き離すハイペースだ! このスタミナには驚きましたが、それ以上に不可解なのはフランス艇です! この無謀ともいえるペースにつられて、一キロ地点からずっと日本艇と横並び! これはやや飛ばしすぎか? この大舞台で若さが出たか、ジュリエット?】
左手のガケの上を見れば、フランスサポーターたちが、懸命に三色旗を振り回して「戻れ」のジェスチャーだ。それほどのハイペースである。
【レースはいよいよ後半戦! スタミナを残している後続艇が追い込むか、それともフランスが大逃げを決めるか? ここが焦点になりそうです!】
ジュリエットはとうとう笑みを吹きこぼした。
誰も気づいていない。トラップは完璧に作動している。
横並び。そう、横並びには違いない。誰からもそれ以上のものは見えまい。
だがコースは島に沿ってゆるやかな左カーブを描いている。そして相手は、自分の左。
これの意味するところは何か?
こちらの引き波を、一方的に日本艇へぶつけられるということだ。
外からは単に並走しているようにしか見えないが、横に並んで、いや、並ばせて以来、日本艇は自分の撒いた毒を飲み続けている。ただでさえガス欠の上にこれでは、ほどなく力尽きるだろう。
そう、後ろで見ているライダーたちの予想よりも、ずっと早く。
トラップとは、つまりそれだ。
ヤケクソ気味のハイペースだと思い込んでいる後続艇は、巻き込まれないよう一定の距離を保ちながら、こちらのスタミナ切れを首を長くして待っている。
だが、あいにくスタミナは切れない。自分のスタミナだけは。
円が失速するのに合わせて、こっちもじわじわとペースを落としているからだ。
じっくり体力を温存し、後続がトリックに気づいた時にはもう手遅れ。五艇身差にものを言わせて、バトンゾーンまで逃げ切ってやる。
(そう、全ての艇のペースはわたくしの思うがまま……すなわち、このジュリエット=ギャバンこそが、このレースの支配者なのですわっ! オーッホッホッホ!)
【ああっと! こ……これは!】
異変は、七キロを過ぎた時点で起こった。
【脱落だ! 一艇のジェットがずるずると下がってゆく! これは……】
観客の目が一斉に注がれる。
【アメリカだ! アメリカ艇スタンリー、ここでついに力尽きた!】
ジュリエットは振り返った。ダンゴ状態の艇団から、緑のジェットが点と消えていく。
【あああぁっ、続いてドイツ、イタリア、イギリスもだ! 百戦錬磨のセットアッパーたちが、若い先頭二人よりも先にノックダウン! これは一体どうしたことか!】
ジュリエットはフン、と嘲りの鼻息を出した。
(情けないこと。こんなスローペースにもついてこられないなんて)
これでは日本艇のほうがマシだ。沈没寸前ながら、まだモゾモゾと動こうとしている。とことん自分を楽しませようとする、この誠実さを見習ってほしい。
と、突如、耳がつんざかれた。イヤホンからだ。
『ジュリエット! 今すぐペースを落とせ!』
フランスチームのコーチ、ピエール=ロビックだ。弦を張りすぎたバイオリンよろしくせっぱ詰まった声に、ジュリエットはまず自分の耳を疑い、次にコーチの頭を疑った。
「正気ですの、コーチ? これ以上落としたら、後ろの足を残してる方たちに、」
『足は残っていない! キミもだ!』
意味が分からず、一瞬あっけにとられる。そのスキに、
【あっと、先頭でも動きが出た! 日本艇ハヤミがフランス艇に半艇身先んじる!】
「! この死にぞこない!」
ハンドルバーに儀力を叩きこんでそれを追う。だが。
「ッ?」
進めない。力が出ない。両脚が骨を抜かれたように脱力している。
『やられた! ペースは落ちてなどいない! それどころか……』
ジュリエットの白磁の顔が青ざめた。
上がっていた。後続艇が脱落していった理由はこれだ。
(な……なぜ?)
日本艇の背中が遠ざかってゆく。ここに来てなお、このスピード……
――やられた!
ブラフだ。
今にも潰れそうなフリをして、その実、少しずつ加速していたのだ。横に並んでいた自分はそれに気付かず、吊り上げられたペースにつきあってしまっていた――。
踏み台にされていたのは、自分のほうだったのだ。
途端、思い出したように疲労が襲ってきた。溜まっていたものが一気に吹き出し、たちどころに呼吸が荒れる。
と同時に、腹の底からマグマのような怒りが――
『落ち着け、ジュリエット! まだあと三キロある! ペースを落として息を、』
「だまらっしゃあああアアアアアアアア!」
ジュリエットは吠え、ゴーグルを投げ捨てた。
【どわあああっと、ジュリエットが出た! 先行するハヤミを追って猛アタック!】
こうなると手がつけられない。バラのような下唇がビクビクと震えてめくれ、歯茎がむき出しになる。
目の前には円の背中。あの向こう側で、黄色ザルが舌を出して喜んでいるかと思うと、脳ミソが沸騰する思いだった。もうペース配分もクソもなかった。
「この、タンカスが! お前なんか……お前なんか、馬にマワされて死ね!」
残りのスタミナ全てをつぎこみ、日本艇の真横につける。一体どんな顔をしてやがるのか。笑みの一つも浮かべてみてみろ、レースなんぞ捨てて一発ブチこんでやる――と、ジュリエットは円の横顔をにらみつけ、
そして、理解した。
怒りは一瞬にして吹き消えた。血の気が引くのがはっきり分かった。
ブラフだなんて。踏み台なんて。舌を出すだなんて。そんなはずがなかった。
この女の、この顔は。