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サムライ・ドルフィンズ  作者: 古池ケロ太
ヴァーミリアン・カップ
40/50

(6)

 ロキシィ艇の尻尾が沈む。ロキシィはハンドルに額を押しつけ、泣き伏せている。動こうとしない彼女のもとへ、誘導艇が遠慮がちに近づいてゆく。

 その様子を画面で見届けると、沢村はぎゅっと目を閉じた。

 行動を起こすのには、時間が必要だった。覚悟も。

 深く息を吸い、天に向かってゆっくりと吐き出す。雨粒の拍手に混じって、聞き慣れた音が耳をくすぐった。この島にもセミがいたのか、と少し驚く。

 取り乱してはならない。落胆してはならない。するべきことは他にある。

 ヘッドセットのマイクに、やさしく声を吹き込んだ。

「ケガはないか? キャンデル」

 返ってきたのは、べちゃべちゃの泣き声だった。

『ごめっ……ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、えっ、うえっ、ご、ごめ、しゃ、ごめんなさいっ、ひっ、ごめんな……しゃいっ、なさいっ、ごめんなさい……』

 いつもの強気は見る影もなかった。報われた気がした。

 ロキシィに非はない。彼女は全力を尽くした。氷后をあれほど怯えさせた人間が他にいるものか。自分が今まで見てきた中で、間違いなく最高のライドだった。

 責任は自分にこそある。彼女の力に耐えうるよう、プロペラを整備できなかった。

 キャビテーションは、プロペラの回転数が上がるほど発生しやすい。スピードばかりを追いかけ、安定性をスポイルした結果がこれだ。

「キタガワ。すまないがキャンデルについてやってくれないか。スタッフに言えば、車で連れて行ってくれるだろう」

 クリスは、ひどく無表情だった。いつものような冷静、というのとはまた違う。いうなれば、ネジが外れたような。

「コーチ……どうしてマドカに何も言わないんデスか」

 幽霊のような人差し指が、ディスプレイを指した。

 すでにカメラの興味は先頭集団に映っており、分割画面のほとんどはフランスやブラジルの艇を映している。申し訳程度に挿入される最後尾の画面の中では、円ががむしゃらにジェットを走らせていた。

「どう考えてもオーバーペースじゃないデスか。このままじゃ、最後までもちマセん。スピードを抑えさせないト」

 沢村はゆるやかな笑みを浮かべた。

「好きにさせてやれ」

「コーチ!」

 クリスは血相を変えて沢村に詰め寄った。肩をつかんだ両手は、小刻みに震えていた。

「まだ……まだ終わってマセん! 二十秒しか離されてないじゃないデスか! まだ逆転できマス! たかが二十秒、二十秒っ………………くらい……っ」

 言いながら、自分の言葉の重みがのしかかってきたのだろう。一度はね上げた声はたちまち尻すぼみになった。目線が力なく下がってゆく。

 たかが二十秒――。さっきまで命懸けで百分の一秒を取り合っていたのである。トップと円の前の八位艇は十艇身分も離れているが、それでも時間にすればほんの二秒差だ。

 二十秒差が『たかが』なら、亀もロケットを追い抜かせるに決まっていた。

 クリスは怯えたように二、三度首を振った。その瞳は、母を見失った迷い子のそれだった。悔しいとか無念とか、そういう感情にすら至っていない。現実を認めようとする心と、反発する心が鍔競っている。今、彼女の脳裏には、走りに走り鍛えに鍛え、仲間たちと分かち合った、この五ヶ月がよみがえっているに違いない。

 それが今、泡と消えたのだ。

「キタガワ」

 沢村はクリスの目を見つめ、母親が幼児に言い聞かせるように、言った。

「終わったんだ」

 糸が切れた、とはこのことを言うのだろう。クリスはその場にヒザをついた。涙の切れ端が、メガネの横からこぼれ落ちた。

 すすり泣きに続いて、割れるような慟哭が来た。

 沢村はヘッドセットを外し、しゃがみこんで彼女の肩を抱いた。

 セミの声は消えていた。



 美海は、まだ顔を上げられなかった。

【さぁ、セカンドフェイズは今、一キロ地点を突破! 先頭はフランスのジュリエット=ギャバン! 一艇身差でブラジル、アメリカがそれを追う展開! 他は少し苦しいがまだまだ先は長…………おおおおっと、なんだァ?】

 実況がすっとんきょうな声を上げた。スクリーンに映し出されたのは、はるか後方から非常識なピッチで突っ込んでくる、青いジェット。

【日本艇だ! 日本艇マドカ=ハヤミ、なんともうここまで上がってきた! ほとんど全速のペースで艇団の最後尾にくっつきます!】

 スタンドから、一斉にワッと声が上がった。

 だが、その意味するところは『なんてヤツだ』ではない。

 『なんてバカなヤツだ』である。

「いいぞぉ、せいぜいがんばれ!」「さっきのといい、楽しませてくれるぜ日本は!」

 口笛、笑い声、拍手――そこに逆転への期待はない。たとえば消えると知れきった花火を楽しむような、うかれた雰囲気があるだけだ。

 当然である。セカンドフェイズには、ターンもスラロームもない。全長実に十キロ。断崖のそびえる横を左回りに四分の三周する、不確定要素の少ないコースである。

 となれば、勝負のカギは何を置いても、ペース配分だ。限りあるスタミナをいかに無駄遣いせずに走り切るか。ファーストフェイズが百メートル走なら、このセカンドフェイズはマラソンに例えられる。

 画面に映った円の顔。激しい息切れ、上がったアゴ。二十秒差を埋めるべくガソリンを使い果たしてしまったのは、誰の目にも明らかである。

【うわああっと、ハヤミ、さらに上昇! フランス艇と並び、今、先頭に立った! しかしセカンドフェイズはあと九キロ近くも残っています、このペースで最後までもつワケがありません! あえて、あえて言葉を選ばずお伝えしておきます! これは……ただのヤケクソだ!】

 ようやっと、美海は組んだヒザから頭を持ち上げた。

 ようやっと、現実が追いついてきた。

 目の前には青海原、そして砂浜の上、船台に置かれた九艇のジェット。

 島の西側に位置するドルフィンビーチ。熱気あふるるスタンドの手前で、各国のアンカーたちが、水分を摂ったりストレッチをしたりして、出番に備えている。セカンドフェイズは長いので、まだ海に出るには早いのだ。 

 液晶の明りに目をやれば、ビーチ脇のスクリーン、円の形相がイヤでも目に入った。

 さながら地獄の釜であえぐ亡者である。眼は苦しげにゆがみ、顔は汗だく。酸素を求めてばくばくと開く口から、ブルドーザーのような呼吸音が聞こえるようだ。

 美海はきつくきつく唇を噛んだ。円の気持ちは痛いほど分かった。

 ロキシィの仇討ち、あるいは尻ぬぐい――そんな安っぽい感情ではない。

 自分たちは一つのチームだ。ロキシィが転覆したのなら、それは自分が転覆したのと同じこと。だからこの二十秒は、意地でも取り返さないといけない。たとえ無謀でも。

 涙が出そうになった。励ましてやりたい。がんばれと言ってやりたい。

 ――だけど。

「ねぇ、アンタ」

 後ろから肩をつかまれた。

 剣呑な顔つきの女が仁王立ちに見下ろしてきていた。灰色のショートヘアに、三白眼の白人。胸元の星条旗を見るに、アメリカのアンカーらしい。

「アンタ、日本のコよね。あのさぁ、あのセットアッパーの子に空気読むよう言ってくんない? コーチに連絡できるでしょ?」

 美海は無気力に彼女を見返した。三白眼は襟を掴み、その体を乱暴に引き上げた。

「こんだけゆっくりしゃべってんのに分かんない? 出しゃばんなっつってんの。もうアンタんトコは終わってんだからさぁ、ヤケクソでレース引っ掻き回されちゃたまんねーんだよマジ」

 ひどい言いようだが、彼女の言い分はもっともである。

 ほどなく潰れるとは言え、円は現在のところ先頭。つまり、後続艇に引き波を撒き散らして走っている状態だ。後ろのライダーにしてみれば大変な減速、ひいてはスタミナのロスを強いられるわけで、はっきり言って迷惑以外の何ものでもない。他のアンカーたちの思いも同じらしく、美海たちの様子を目にしながら、誰一人止めようとはしない。

 いや、一人だけ例外がいた。

「……何見てんだよ、おい」

 いつの間に横に立っていたのだろう。

 フランスのアンカー・シャルロットの、銀色の瞳が三白眼を見つめていた。

「アンタんトコはいいよな。横並びの先頭なんだから、引き波踏まされることもないし」

 彼女の皮肉にも、シャルロットはただ無言。そして無表情。宮古島で見たときとは別人のような冷たい視線が、相手を捕えて離さない。気圧されたか、三白眼の口が閉じる。

「そこ! 何やってる!」

 スタッフの男が笛を鳴らして駆けてきた。三白眼は舌打ちとともに去った。

「あ、あの……ありが……サ、サンキュー」

 シャルロットはやはり何も言わなかった。ビーチの端っこへ歩み去り、そのままぺたんと正座したかと思うと、マニキュアでも塗るように指のマッサージをはじめた。ひょっとしたら、単にうるさかったから止めただけなのかもしれない。

(そっか……)

 美海は力なく笑った。言葉は分からなかったけど、十分に思い知った。

 自分たちは、周回遅れなのだ。もうこのレースに参加してはいけないのだ。

 スクリーンの中、暴走を続ける円を、カメラはさらしもののように映し続ける。きっと彼女は、自分以上の孤独感を味わっているだろう。

 その眼は、まだ必死に前を向いていて、「レースは終わってない」――そう言っているように思えた。

 励ましてやりたい。がんばれと言ってやりたい。だけど。

 美海は座りこみ、再び組んだヒザに顔をうずめた。

 だけど、やっぱり無理だ。

(もういいよ。やめてよ、エンちゃん。そんな姿、見せないでよ)

 ――もう十分だよ。ロロちゃんだって沢村さんだって、きっと許してくれるよ。

 絞ったまぶたから、熱いものが際限なくにじみ出た。

「あたし、もう、見てられないよぉ……」

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